シュルレアリスムとポップアート ジョアン・ミロ展(20254月)@東京都美術館
"ガリガリなこの身体に落書き
今も飽きないピカソ、ジョアン・ミロ
何もないのも最高まるで田中泯
クソみたいな肩書き
ラッパーじゃないラッパーなんかじゃない
俺は俺でいい俺のままに生きる
お金の為に生きるなら死ぬ"
KOHH「BUSINESS and ART」より
曇天模様の2016年フジロック、ホワイトステージで見たKOHHのステージは衝撃的で、愚直に紡がれる言葉とロックステディなサウンドに(ニルヴァーナの大ネタ使いとか)こんなミュージシャンがまだ居たのかと驚かされました。
すでに日曜美術館でも特集されており、上記のピカソ、ダリと共にスペインの3大画家にも挙げられるミロ。大混雑が予測されるので早めのタイミングで見に行った。幸いにしてまだまだ会場は余裕があり、ゆったりと鑑賞する事ができた。
とはいえミロについては特に思い入れもなく、大したことは語れないのが本音のところだ。なるべくしっかりと解説を読んでみたりして、手短に書き綴るに留めておく。(色々違ってたらごめんなさい🙇♀️)
まずは初期の作品、自画像などは分かりやすくピカソ、キュビズムの影響が出ており、素直に当時のトレンドに乗っていることがわかる。また、マティスの様なフォービズムてきな色彩の研究、、模索的な作品など、旺盛な取り組みをしている変遷は見ていて興味深い。
初期の「バイベルの森」などはフォービズムの流れを汲んでいるが何処となくゼルダの伝説「ブレスオブワンダー」のイメージソースの様な個性的な陰影感がある。

ミロらしさというのはシュルレアリスムの影響。「シュルレアリスム宣言」の著者である。アンドレ・ブルトンの影響下に入ってからであろう。

シュルレアリスムと言われると思い出すのはダリとかマグリットといった現在「シュール」と言われるようなあり得ないモノ同士の組み合わせを思い浮かべる事かと思われる。
最も代表的な一説は「美しい。手術台の上でミシンと蝙蝠傘の邂逅のような美しさだ」であろう。この3つの物体は一見して共通点もない組み合わせに感じられ、キョトンとしてしまう。澁澤龍彦はここにエロティシズムを読み取る。(フロイト的解釈としても良い)
すなわち、手術台は人体を切り開くためのものであり、ミシンは縫い付けるための道具であるが、ここでは高速で上下し、布を貫く針のイメージ。そして蝙蝠傘は棒状であると共にバッと開く→膨張するイメージなので、これらのアナロジーから解釈し、これらを美しいと評価することこそがシュルレアリストの真髄であると。
しかし私も含む熱心な澁澤龍彦読者は、(特にブルトンの)シュルレアリスムの本道はオートマティズムにあると叩き込まれている。これは霊感に近く具体的なモノを書くのではなくインスピレーションや偶然性の赴くままに書くということです。
ジョアン・ミロの作品はそのアンドレ・ブルトンをして「真のシュルレアリスムである」と評した。ダリの商業主義を嫌悪したブルトンなので、そこにはもしかすると若手作家故の清貧的なところも評価に含まれているのかもしれない。実際のミロの作品から受ける印象は理詰めであり、作者の言葉からも「書き込んだ要素全てに意味がある」と伝えられている。
最も原始的な発想から絵画を見ていくと、(子供の絵を思い描くと良い)「好きなものは大きく描く」と言うことになる。実際のミロの絵画に出てくるのは「女」「星」「鳥」あたりであろうか。どこまでも抽象化されても、ミロの描く女体はやはり乳、ケツ、女陰である。逆にそれを見て女性と判断するし、男性は「髭」で表されることが多い。時に女陰は便所の落書きのような縦長の筋+放射状の陰毛でシンボル的に記載されている。
星は「米」マークでありつつま、アヌスのそれとの関連も思わせる。鳥は何かしら嘴の様な形状を見て取る。または+の様なもの。この星は天空の世界で理想郷とされ、地上と天空を結びつけるのが「鳥」なのですと解説されればそれはとても耳障りが良いのだろう。
西洋絵画ではこのフロイティズム、エロティシズム的な解釈が横行しており、宗教絵画にすら当て嵌めることができるわけなので、その辺のシンボリズムはディテールに拘りニキに任せたい。星座シリーズ、絵画シリーズにせよ、ミロ自身の語る「描かれたものには全て意味がある」という言説は西洋絵画の本質的でもあり、ブルトンの理想とするシュルレアリスムの逆説的にも見える。こうしてみるとブルトンの本質的な主張以上にアティテュードの方(ミロは清貧的で正しくダリは商業的で醜い)と言う性質も浮き彫りにされる様である。
何だかんだでダリとミロは近しい作風なんだと言いたいのである。異なるのは背景。ダリは愛人との関係を表象するようなトコトン私的であったことに対して、ミロは戦争などの社会的背景を根拠にしているのだと言う正当な口実、盾を持っているのである。こうしてみるとミロ好きとダリ好きはポリティクスな関心とロマンティックな関心と、起点は異なれど手段は同じであると言える。
そこで本展の中で着目したのが3F展示の後期作品群である。これらは日本への渡航によりインスピレーションを受けた作品群であり、必ずしもその西洋的な流れを汲まない作品が散見されるのである。ここにはエロティシズム的な表象は鳴りを顰め、日本的なテーマで描かれた作品が見られる。これはミロが日本絵画と西洋絵画に明確な差異を見出したからこその結果であろう。
例えば同じ幾何学でもモンドリアンとミロの作品ではまるで異なっている。

モンドリアンのコンポジションには記号化→デジタル化の萌芽が窺える点が明確に革新的である(適当言ってるのでそろそろヤバそう)
ミロの作品はそういったデジタル化的な大層なものではなく、様式的な発見に満ちているのが非常に印象深かった。

これ、我々がみると1発で「襖じゃん」となるのである。こういった日本家屋の造形への関心が素直に表象にも出てきている。初期のキュビズム、フォービズムの影響と同じくカルチャーショックの表現の様でなんとも頼もしかった。

続いてのこちらの作品は会場のキャプションにもある通り、仙厓の禅画からの引用となっている。

先ほど記号化いうキーワードも出ていたがこれらの記号が何かしらのセクシャルなアナロジーではなく、図形の持つ神秘そのものを表象している点もカルチャーショックの1つとなりうると想像している💭
西洋絵画なら何かしら組み合わせてボンキュッボンに仕立て上げようという欲求が働きそう。

こちらの作品をみると、ブルトン的なアクションペインティング。後のポロックにつながる様なオートマティズムの正統系の作風が表れている。元々下馬評で「ブルトンのお墨付きあるオートマティズム作家ミロ」と学んでいた私は「これが見たかったのよ!」と思わざるおえないのであった。日本絵画が好きならすぐに長谷川等伯「松林図屏風」を想起する事であろう。→言わずもがな「余白」なのである。

敷き詰められた色彩。勿論これはこれでまた鬼気迫るのである。

松林図屏風は息子であり後継者である久蔵の早世により、悲嘆に暮れ豪華絢爛な作風、都での御用絵師としての生活から一転して都落ちし、孤独でモノクローム。荒々しい筆致の水墨画として、国宝であるに相応しい、濃淡のみで霞がかった光景を描き出す、日本美術史でも1つの到達点的な作品である。見たことない人は年に一度は東博で展示されているので見に行こう。
また、久蔵と等伯の親子合作である京都智積院の「桜楓図」これも京都でいつでも300円くらいの入場料で見れるので絶対に実物を見よう!生命力の迸る桜の巨木表現。襖絵を前に言葉を失うこと必定です!

脱線したけれども松林図屏風に戻るとどうだろうか?戦争の惨禍に見舞われたミロの作品にも大切な人を失った後に描かれた松林図屏風にも等しい喪失感や無常感が感じられないだろうか?ミロはチョロっと見ただけかもしれないがこうした本質を掴む慧眼の持ち主であること、容易に見て取れました。解説では裕福になり広いアトリエが得られたので大きい作品も作れる様になりました。というアッケラカンとした解説もあり、それもそうだろうけども!と思いました。
まとめ
私がミロに対して(ダリに対しても)思うのが絵解き的なシンボリズムの退屈さであり、ダリより抽象化することで、ミスティフィケーション、純朴に戦争と対峙してる様なポーズを自己演出していつつも、本質的には変わらぬ浅薄さを嗅ぎ取る事で、なんかそんなに好きではない。けども見ておくか。と見に行くとやはり発見は多く得られ、特に洋の東西の根本的な表象の差異について改めて思索する良い機会を得られた事は、貴重な体験であった。もっとシンボリズム的な分析をしても面白いのだと思う。自分の関心がそこに無いだけです。

