「眠る子たちのメモワール」第3話
雄樹はブロックガラスを注視する。やはり何も動かない。見えたのは空き家に忍び込んだ小動物だろうか。猫やハクビシンのような。
「坊ちゃん、お隣さん留守みたいだ」山本が汗を拭きながら戻ってきた。
「住んではいるんですね」
「洗濯物が干してあった。家ん中に何か見えたか?」
「玄関のガラス越しに何か動いたようで……」
「んじゃあ……ぐるっと一回りしてみるか……」
二人は2メートルほどの高さのブロック塀にそって歩いた。所々空いている透かしから中を覗き、ブロック塀を見上げて雑草が生い茂る庭の様子、縁側に増築したサンルームの様子を見た。
「放棄されて2、3年といったところだな」と山本は言った。「ずいぶん綺麗な方だよ」と付け加えた。
草木は伸び放題だったが目立った破損はなく、時間を掛けて掃除をすれば十分に住めるようにも見えた。
「荒らすような人間もいなさそうですしね」
「そういうことだ。どうだ? 気になるモンはあったか?」家の周りを一周し終えると山本は言った。
「こんな場所だから、やっぱり動物が入り込んでたのかもしれません」
「……今日はもう終いにしよう。腹が減った」
再び雄樹が運転した。飲食店が並ぶ小さな商店街を見つけ、コインパークに駐車して小さな居酒屋へ入った。
雄樹は壁に貼ってあるメニューを見ながら山本に尋ねた。
「ビールにしますか?」
「酒やめたんだ」山本は正しい行いをしたときのような、控えめだがはっきりとした物言いをした。
「えっ? どうして?」
「……定年したら、酒の失敗を誰も助けてくれないだろ?」と自嘲気味に言った。
「今日はおれが助けますよ」
「いやいいいんだ。坊ちゃん飲んでくれ。帰りは運転変わるから」
「いやでも……」
「いいよ。飲みな」
雄樹はビールを、山本は烏龍茶を注文した。つまみに角煮と刺身、キュウリの浅漬けを頼んだ。
「嬢ちゃんは? どうしてる?」芥子をちょんと載せた角煮を口に運びながら山本は言った。
「それが偶然にも福岡で公演中です」
「へぇ! いつまでやってんだ、それ」
「今週末までだったと思います」
「そうか! 一回観に行ってみるか!」山本のほころんだ表情や体をもぞもぞ動かす仕草から抑えきれない嬉しさが滲み出ていた。
「喜ぶと思います」
「でもあれだな……俺が観に行くって言わない方がいいよな……いいか、そっと行くからな? 嬢ちゃんには絶対言うなよ?」と雄樹に念を押した。
「会ってやってくださいよ。昔は山本さん来るの、姉弟揃って楽しみにしてたんですから」
「ほんとかぁ? ちょっと飲み過ぎじゃねえの?」山本は照れながら言った。
山本が運転する車は高速道路を走り、雄樹が宿泊するホテルへ向かっていた。
「明日は俺一人で行くところがあるから、坊ちゃんは観光でもしててくれよ」
雄樹は心配した目で山本を見て言った。「いや……おれも行きますよ」
「ははは、ありがたいね。だけど一人の方が動きやすいんだ」
「秘密はなしにしてくださいよ?」
「秘密だなんて、そんなもんじゃないから安心しな」
それから山本の口数は少なくなった。雄樹もそれ以上話さなかった。雄樹は窓の外に目を向け、流れていくオレンジ色の光の筋をぼんやり見つめていた。
「お待たせしました」レンタカーの返却を終え、店から出て来た雄樹は山本に言った。
「ああ」と山本は短く答えた。「じゃあ……また明後日」そう言うと山本は背中を向け、軽く手を挙げて雄樹の元から離れていった。
山本はアーケード通りをゆっくり歩いた。夏休みの学生たちがグループを作り、大声で笑い合っていた。二人組の会社員の男が熱を入れて話し込んでいた。酔っぱらいたちの声が心地良く響いた。楽しく酒を飲めるのは幸せで、平和だ、と山本は思ってフフッと笑った。
突然、山本は背後から肩を強く抱かれた。必死に体をねじって身構えようとしたが、肩に手を回す力が強く振り払うことができなかった。山本が体を屈めて逃れようとしたとき、
「山本さん、もう一件付き合ってください。飲み足りないんです」と雄樹が顔を寄せていった。
「何だよ! 帰ったんじゃ……」予想外の出来事に山本の警戒はいっぺんに解かれ、腰が抜けそうになった。
「ま、いいじゃないですか」
「俺、飲まないのにもう一件付き合わないとならないの?」山本は嬉しさを隠しきれず自然と笑みを溢した。
「おれが飲むんですよ」
福岡、中洲の屋台では丘山が他の客と肩を寄せてラーメンの到着を待っていた。
「おまちどうさま」店員が丼を丘山の目の前に置いた。丘山はスマホで写真を撮ってから食べ始めた。ラーメンを啜りスープを飲み、焼豚を齧った。そしてまた麺を啜った。
5分もかからないうちに丼を空にした。冷たい水を一杯飲み、代金を払って店を出た。
街灯がぽつぽつと灯った公園のベンチに座っている丘山は、スマホに文字を打ち込んでいた。スマホの画面には先程のラーメンの写真、文章はラーメンと店のレビューだった。ハンドルネームは丘山四郎。丘山のフォロワーは2000人以上。ふざけたハンドルネームと『らしい』文章が人気だった。
丘山は送信ボタンを押し、スマホをしまった。
田中留美、夜の公演にもいなかった。丘山は東京で感じた留美の生命感を思い出した。次に死んでいる裸の留美を想像した。冷たくなった体を指先で順番に撫でた。つま先からゆっくりと指を這わし、足の付け根を掌で丁寧に撫でた。そのまま手を腹に移動させ臍を弄ったあと、柔らかく丸い乳房を手の中に収めた。円を描くように手を動かし、掌を乳房から離した。
女は身体を捩って声を漏らした。
「死体は動かないし喋らない」と丘山は女に言った。
「ごめんね。我慢する」
「もういいよ。ありがとう」
「えっ、でも始めたばっかりだし、まだ時間沢山あるよ?」女はそう言いながら身体を起こした。
丘山は答えなかった。女は黙って下着を身につけ、畳んであった服をそそくさと着た。
丘山はホテルのガウンを羽織り、何も言わずに部屋のドアを開けた。女は急かされていることに気づいて、慌てて部屋を出た。
「今日はどうもありがとう。また呼ん」
ドアが冷たい音を立てて閉まった。
「……ばりキモ」女は顔をしかめて言った。
何の躊躇いもなくドアを閉め鍵を掛けた丘山は、何の迷いもなくスマホを手に取り電話をかけた。
「もしもし……明日の夜、スミレさんの予約を……はい、ではその時間で」丘山は電話をオフにし、もう一日二日いても良かったか、と逡巡した。だが、毎日公演を見に行ったらさすがに怪しまれてしまう、すぐにそう思い直し、留美に再び接近する今回の計画を諦めることにした。
冷蔵庫から缶ビールを出して飲んだ。ベッドの上に座って自宅から持ってきた小説の単行本をぺらぺらと捲った後、サイドテーブルの上に置いたままになっていた公演のチラシと交換した。本の隣にビールを置いてベッドに横になった。
間宮宗壱……この演劇で久しぶりに見たな……そういえば、どうして見かけなくなったんだったか……? ああ、そうか。二、三十年前に大麻所持か何かで逮捕されて表舞台から消えたんだ……まあどうでもいい。主演の若い女優……死に様も死体も初見の印象は良かったが『川の女』と比べたら結局及第点……。舞台で何回もやってるだろうに、なぜ少しも上手くならない?
丘山は川で死んでいた女と田中留美の姿を思い浮かべた。手が届かない女、手を伸ばしてはいけない女だった。大きなため息をつき、残っていたビールを飲み干して部屋の灯りを消した。ベッドの中で田中留美の生命の匂いが死体の匂いに変わる場面を想像した。しかし東京の劇場で憶えた留美の匂いの記憶はあやふやになり出していた。留美の死体を上手く想像できなくなったことにショックを受けた丘山は、やはりあと一公演でも……いやそれはできない……と再び逡巡を始めた。しかしその欲望と現実の無意味なループは、丘山の意識を徐々に薄れさせていった。
陽が昇り闇が滲むように消え始めた時刻。川沿いにはTシャツとジャージを着てウォーキングをする間宮がいた。間宮は1時間ほど歩くとホテルに戻り、シャワーを浴びてから洗濯したてのTシャツに着替えた。そして体の調子を点検するようにストレッチをした。今日も違和感や痛みはない。エレベーターで一階に降り、バイキングで少しだけ朝食を食べた。部屋に戻ると、ランドリーボックスに洗濯物をまとめ、細々とした私物を整理した。やることがすんでしまうと間宮は小さなソファーに座った。体調に問題はない……スマホを取り出して写真を見る。今回の舞台の稽古から昨日までの写真だ。間宮は深いため息と共にソファに持たれ掛かった。留美の屈託のない笑顔が間宮の脳裏をよぎる。
年甲斐もなく、娘よりもずっと若い女性に恋をしてしまった。馬鹿げている。惨めな気持ちになる。でももうすぐ芝居も終わる。終わればきっと俺の気持ちも冷めるだろう。これはお祭りみたいなものなのだ。間宮はそうやって何十回と自分に言い聞かせてきた。だが気持ちを断ち切ることはできず今に至っていた。
ホテルのロビーではチェックアウトの手続きを行う人々が短い列をつくっていた。ショルダーバッグを斜めに掛けパナマハットを被った間宮は、列を迂回しエントランスを目指した。
列の先頭では丘山が手続きを終えた所だった。丘山は足元に置いたボストンバッグを持ち、エントランスに向かった。
自動ドアが開いて間宮が出てくる。タクシーが乗客を待っている。間宮はタクシー乗り場を通り過ぎる。間宮の背後では丘山がタクシーに乗り込む。
強い日差しに間宮は目を細めバッグからサングラスを出す。
タクシーの窓に乱反射した日光が差し込む。丘山は目を覆うが、諦めてサングラスをかける。
二人はお互いに気づくことなくすれ違い、劇場へ、空港へと向かった。
