昭和ホームドラマ劇場:「隣の芝生は青い」の呪縛— なぜ私たちは“スーパーマン”にならねばならなかったのか?

あの頃、なぜ嫁と姑は戦ったのか?

ちゃぶ台がひっくり返り、頑固オヤジが怒鳴る。そんな「昭和のホームドラマ」の定番テーマといえば、やはり「嫁姑問題」でしょう。
しかし、なぜ彼女たちはあんなにも激しく戦わねばならなかったのか?
私は、あれは性格の問題ではなく、単純な「1対1」というシステムエラーだったと見ています。(笑)
考えてもみてください。
もし、嫁の立場が5人、姑の立場が5人いる「大家族」だったら?
嫁グループは「まったく今度の姑たちは口うるさくて…」と愚痴で結束し、姑グループは「最近の若い嫁はなってないわ…」と井戸端会議で嘆き合う。そうやって互いにガス抜きをしながら、全体としては案外うまく回ったはずです。
問題は、価値観の違う個人が「1対1」で向き合わねばならない、その窮屈さにあったのです。

第1章:「揉めるなら別れよう」— 核家族化を後押しした“思想”

この窮屈さから逃れるため、そして戦後の復興と共に、「合理的」な判断が主流になります。
「そうか、揉めるなら別れて暮らそう」と。
これが、日本の伝統的な大家族を解体し、「核家族」を一気に普及させた流れです。
そして、この「分離」を思想的に後押ししたのが、戦後に入ってきた欧米的な「夫婦の契約主義」という考え方だと私は睨んでいます。
これは多くの日本人がイメージしている「個人主義」とは少し違います。
まず大前提として、人間は人間から生まれるが、その命は「神の意思」によるものであり、すべての人間は「神の子」である、という考え方があります。
その上で「結婚」とは、子孫を残すために一対の男女が神に祝福され、許可を得て交わす「契約」です。
そして、神から承った契約上の「義務」は、単に子供を産むことではなく、その「神の子」を「一人前に育て上げること」にあります。
この思想がベースにあるからこそ、例えば白人夫婦が黒人の身なし子を見つけた時、余裕があれば我が子として育てることに不思議を感じません。彼らにとって、それは同じ「神の子」を育てるという義務の遂行だからです。
そして、その子が「一人前」に育った(例えば高校を卒業した)時点で、神との契約は完了となります。
一人前になった子をいつまでも手元に置いて助け合うのは、裏を返せば「まだ一人前ではない」と認めていることにもなるため、彼らは家を出て独立するわけです。
もちろん親子の関係が切れるわけではなく助け合いますが、「親が支援ばかりしている」状態は、一人前の人間として育て上げた、という証明にならないのです。この点は、日本の標準的な考え方と大きく違いますよね。

第2章:核家族が量産した「昭和のスーパーマン」

しかし、この「合理的」な核家族システムは、私たち一人ひとりに、とんでもない要求を突きつけました。
そう、「個人のスーパーマン化」です。
かつて大家族で、じいちゃん、ばあちゃん、おじさん、おばさん…と「複数人」で自然に分担していたあらゆる役割を、たった二人(あるいは一人)で背負うことになったのです。
• 昭和のお父さん像:
稼いでくるのは当たり前。かつては祖父や叔父がやっていた家の修繕や力仕事もこなし、さらに新しい時代の父親として「子育て」にも参加しろ、と。全部乗せです。
• 昭和のお母さん像:
姑や小姑と分担していた家事・育児をワンオペで完璧にこなす。それどころか「パートで家計も助ける」ことまで求められる。
• 昭和の子供像:
5人兄弟なら分散された期待が、1人か2人の子に集中爆撃されます。「勉強もスポーツも頑張れ」「ピアノも習字もそろばんも」「友達とも仲良く」。親の夢を一身に背負うスーパーマンになることを期待されたのです。

第3章:「隣の芝生は青い」本当の理由(ワケ)

もちろん、私たちはスーパーマンではありません。
何もかも完璧にできるわけがない。
昭和のホームドラマ的に言えば、「仕事一筋で稼ぎはいいけど、家庭を顧みないお父さん」もいれば、「優しくて家庭的だけど、出世はイマイチなお父さん」(笑)もいる。両方完璧なんて、無理な相談です。
「隣の芝生は青い」問題の正体は、まさにこれです。
核家族という「少人数」システムの中で、自分のパートナーに「すべて」を求めてしまうから、苦しくなる。
• 「うちの主人は家庭的だけど、お隣のご主人は稼ぎが良いらしい…(キーッ!)」
• 「うちの妻はパートで頑張ってるけど、お隣の奥さんはいつも家がピカピカだ…(それに比べてウチは…)」
隣の家の「良いところ(=自分のパートナーに欠けている部分)」ばかりが目につき、自分のパートナーが持っていても「当たり前」になっている良いところには、目が行かない。
これは、核家族というシステムが、個人に「過剰な期待」を強制することから生まれる、構造的な不幸なのです。

結論:サファリパークモデルという「本来の群れ」への回帰

そこで、私は原点に立ち返りました。
「人間は本来、どのくらいの人数で群れをなし、支え合ってきたのか?」
原始の時代から、人間の群れ(バンド)の規模は、およそ50人から300人程度と言われています。
この規模こそが、私の提唱する「サファリパークモデル」の理想です。
なぜなら、この規模こそが:
1. お互いの「顔」がわかる。
2. それぞれの「得意・不得意」がわかる。
3. その日の「健康状態」すら理解しあえる。
規模だからです。
この「群れ」であれば、「昭和のお父さん」に全部乗せする必要はありません。
「家事が得意な人」「子供の世話が好きな人」「力仕事が得意な人」「外で稼ぐのが得意な人」が、ごく自然に「ワークシェア(助け合い)」を始めるからです。
いちいち法律やルールで縛らなくても、「あの人は今、体調が悪そうだから手伝おう」という「阿吽の呼吸」が生まれる。
核家族が個人に強いた「スーパーマンになれ」という呪縛から、私たちを解放してくれる。
お互いの顔が見え、得意不得意を認め合い、阿吽の呼吸で助け合える規模の群れ。
あの「昭和のホームドラマ」が描き出した窮屈さや無理を笑い飛ばし、乗り越える「本来の家族(群れ)」の姿が、そこにあると私は考えています。

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