母の生涯記録を残したい⑤
④で母の20代後半までを
書きましたが、思い出したエピソードがいくつかあったので付け足しを。
一緒に育ったOちゃん、Mちゃんから聞いた話です。
・母が結婚の挨拶に父の実家へ初めて
来た時。
ワンレングスの黒いロングヘアに
真っ赤な上下の服で来たと。
当時の小さな田舎町では、そういう服で歩いている人はいなくて
びっくりしたそうです。
なんとなく藤圭子に似ていたそうな。
後々書いていきますが、母は苦労人でしたが、やる事は破天荒で自分の好きなようにする面が多々あり
私は聞いても、それほど驚かず
「まあ、お母さんだもんね〜」
位の感想でした。
・父が出稼ぎに行っていた頃
ちょうどバレンタインの時期で
荷物を送る時、
「これが好きだから」と
ピーナッツチョコをたくさん詰めていた事。
・これは私がOちゃんMちゃんに
話していた事らしいのですが
「お母さんが布団の中で泣いていた」
と。
22歳で誰も知り合いもいない、
実家はバスで2時間の距離。
夫の両親と同居し、きっと毎日
辛い事もたくさんあって。
電話は黒電話が玄関入ってすぐの所に一台。
聞いて欲しい事が山ほどあっても
誰にも言えなくて耐えていたのだと思います。
電話の話をもう一つ。
母はお酒が本当に好きで
不慮の事故で亡くなる直前まで飲んでいました。(亡くなった経緯は、思い出すと辛いですが、いつか書いていきます。)
そして飲むと必ず話す話が
いくつかあって。
そのうちの一つが、祖母同士の電話の話です。
私は小さい頃からアトピーがあり
皮膚科通いをしていました。
父の実家のある町には皮膚科はないので、母の実家のある所までバスに乗り
何日か泊まりながら通っていました。
母にしたら唯一羽を伸ばせる時間だったと思います。
実家に戻り、母方の祖母に
嫁ぎ先での事を聞いてもらい。
その時は母もどうしても戻りたくなくなった出来事があったようで。
母方の祖母が嫁ぎ先の父方の祖母に電話をしたそうです。
その時代で、嫁の親が直々に
嫁ぎ先に物申すというのはあまり無かったようなので、よっぽどの事だったんでしょう。(内容は聞いてないのでわからないですが)
「いらなくて嫁に出した娘な訳でもない!
○○(母の名前)が行くって言うから出しました。いらないならいつでも返してよこしてください!」
と啖呵を切ったそうです。
この母方の祖母も離婚や不倫、
波瀾万丈な人生を送った人で、母の姉妹弟も苦労しましたが
誰1人悪く言う人はいませんでした。
子ども、孫には愛情深く何があっても受け入れてくれて。
母にしたら、きっとどんな自分でも味方でいてくれる唯一の存在だったはずです。
このフレーズは
私に何回も話していました。
今日は母の月命日。
毎月この日は、母の好きだったピザや
お酒を写真にお供えしています。
本当は実家の仏壇にお参りしたい所だけど、
もうあそこには私の居場所はないので…。
私なりの母への思いで供養しています。
お母さん、会いたいよ、
