小説|「セレニティ模様」第31話
「ただい、まあ」八重子が言う。「ただい」と「まあ」と二つに分かれたようなアクセント。盥(たらい)の発音に近い「ただい」とおやまあの「まあ」みたいな組み合わせが柔らかい。そのフレーズが香にとって耳心地がよい。
「よぐきたな。まず、入れぇ」ヨシばあは昔から変わらず玄関に座って待っている。
「ただい、まあ」悠と香も八重子の口真似をする。気に入っているから真似てしまう。
ヨシばあの家に一歩踏み入れると昔から変わらない光景。玄関脇の黒電話に始まり玄関から続く廊下、その先右手に見える居間。居間に敷かれた畳。正方形のコタツテーブル。コタツの上のお茶請け。ヨシばあの定位置の後ろにある湯飲み茶碗をしまっている丸い樺細工の入れ物。さしこの布巾。
それからブラウン管テレビ。テレビ台にはこけしや陶器のようになめらかな素材で作られたおじいさんとおばあさんのペア置物。二人とも小柄で優しい細目で佇んでいる。
その隣には首をかしげた狸の置物。愛くるしい表情で斜め上を見ている。
ディスプレイされたレトロな棚。どれもこのお家とヨシばあが纏う雰囲気と調和している。
「チリンチリン」
窓辺に吊り下がった風鈴から涼しげな音がする。
「ブーンブーン、カタカタカタカタ」
昔ながらの青い羽根の扇風機。首振りの扇風器から風を切る音と扇風機本体が首を振るときの音がする。
居間を左に曲がると直線の廊下。その突き当たりの大きな窓から山々と田んぼが一面に広がって見える。
突き当りに位置するのは大広間で、そこに仏壇がある。
香と悠は古風な子どもで畳の部屋とお線香が焚かれているにおいが好きだった。
「あー。お線香のにおいだ。いいねえ」悠がそう言って深呼吸するみたいに、もう一度大きく息を吸う。
「それにしてもお盆のときに漂うお線香のにおいっていいよね。なんでかねぇ」悠が言う。
「うーん。心が静まる感じがするのかな。嗅覚を通して心に届くからかな。うーん。それにしても悠って深いところまで考えているよね」香が悠を見る。
「えー。なにも考えてないよ。思ったままを言っただけだよ」悠がはにかむ。
「それがすごいよ」香は悠のすごさを後押しする。
「えー。えー。はははははは」悠が笑うのを見ていたら香も可笑しくて笑った。
ヨシばあの家に来ると子どもの頃から変わらない時間を過ごせる。この土地では社会での自分の立ち位置を気にしなくなるからかもしれない。学校でうまくいってない自分から距離を置けるからかもしれない。桑原さんたちいじめる人たちがこの近くにはいないという安心感があるからかもしれない。
この家の電話番号は知られていないからいたずら電話がくる恐怖から解放されるからかもしれない。
仏壇の座布団に座る。木魚をたたく。鐘を鳴らす。手を合わせる。身体にしっかり染みついた一連の流れ。一度も会ったこともなくどんな人だったのかも知らない遺影のご先祖様たち。
「こんにちは。今年も来られました」香は毎度ただそれだけを唱える。
八重子も悠もそれぞれ仏様を拝み居間へ向かっていた。香もゆっくり立ち上がり居間へ向かう。
テーブルには氷の入った冷たい麦茶。人気者の白い猫が描かれたグラスのコップに注がれている。物心ついた頃からのお馴染みのグラス。
「香も飲めなあ」ヨシばあがゆったりと言う。
ヨシばあの家は窓を開けているだけで涼しい風が吹き抜ける。クーラーがなくても十分涼しい。
開いている窓から田んぼの稲穂が揺れているのが見える。その向こうには山々。どうして遠くの山は青く見えるんだろうといつも同じことを思う。高い建物がなく遠くの景色まで見える。
中学生という立ち位置をどうしたものか。小学生のように子どもという感じでもなければもちろん大人でもない。大人ぶっているなどと言われるのはまっぴらごめんだ。難しい年頃だ、と香は我ながら思う。
けれどここでは小ばかにされることがない。親しき中にも礼儀があって居心地がいい。
「なんもないどごだけどゆっくりしてげな」
「うん。何もないからゆっくりできることってあるよー」悠が面白そうに言う。
「何もないほうがいいこともあるしね」香も笑って言う。
「んだがあ。なんも気遣わねで好きなように過ごせな」そう言ってヨシばあが小さく笑う。
