8月15日に寄せて —— 忘却の壁を壊し、平和の夜明けへ

「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁である敵意をご自分の肉において打ちこわされた方です。」 (エペソ人への手紙 2章14〜15節 / 聖書 新改訳2017)

「終戦」というフィクションを超えて

毎年、8月15日が巡ってきます。世間ではこの日が「終戦の日」と呼ばれ、まるでこの日を境にすべての戦火が止み、平和が訪れたかのように語られがちです。

しかし、歴史の実相はそうではありませんでした。

降伏文書に調印されたのは9月2日であり、沖縄での降伏調印式は9月7日のことです。そして8月15日以降も、満洲、樺太、北方領土、そして南方の島々において、軍に見捨てられた多くの民間人が筆舌に尽くしがたい地獄を味わっていました。過酷なシベリア抑留、命がけの引き揚げ、孤児となった子どもたちの苦難——戦争の惨劇は、8月15日などに決して終わってはいなかったのです。

8月15日だけを「終わり」として物語を締めくくる姿勢は、どこか「内地」の都合によって「外地」の苦難を切り捨て、自らが重ねてきた侵略と敗北の記憶を都合よく忘却しようとする罪深さを孕んでいます。

「隔ての壁を打ちこわされた」キリストの平和を語る者として、私たちはこの忘却の壁、歴史の都合の良さによって築かれた壁を直視し、打ち壊さなければならないと感じています。

奪われた日常と、重なり合う悲しみ

戦争が、そして自然災害が私達にもたらす最大の悲劇は、人々の平穏な日常を力ずくで奪い去り、私たちを孤立や分断という「暗い深夜」へと追いやってしまうことです。

今日、私たちは過去の戦争の過ちと記憶に向き合うと同時に、いまこの瞬間も苦しみの中にある方々に心を寄せています。

熊本の地震をはじめとする度重なる大震災、そしてここ数日の豪雨によって被害を受けられた多くの方々の悲しみと不安。今なお避難生活や復旧作業の中で心身をすり減らしておられるお一人おひとりの上に、神さまの豊かな慰めと支え、そして確かな救援の手があるようにと切に祈ります。

歴史の中の悲劇も、いま目の前にある災害の苦しみも、決して「他人事」として切り離すことはできません。痛みを覚えている人々を置き去りにしたままでは、真の平和も回復もあり得ないからです。

「一人の人間」として出会い直す場所から

私たちが主宰する『夜明けの教会』そして共耕の場である『夜明けの楽舎』は、あらゆる属性や立場の違い、過去の傷や痛みを抱えた人々が、社会的な衣服を脱ぎ捨てて「ただ一人の人間」として出会い直す場でありたいと願っています。

聖書が示す平和とは、単に戦争がない状態(消極的平和)だけを指すのではありません。 互いの痛みに心を留め、違いを排除するのではなく包み込み、共に土を耕し、対話を重ねる中で育まれる、温かく「手触りのある平和」です。

どんなに深い夜であっても、神さまの恵みの朝は必ずやってきます。

かつての戦争で置き去りにされた人々の叫びに耳を澄まし、今なお苦しむ人々の痛みを深く心に刻みながら——。 分断と忘却の壁を打ち壊し、誰もが尊厳を保たれ、安心して憩うことのできる平和な明日(夜明け)を目指して。

どんなに暗い夜の底にあっても、やがて差し込む光を信じ、私たちは今日もこの土の上で、共に祈り、歩みを重ねてまいります。

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