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なぜダーウィンは「種の起源」を著そうと思ったのか



 ■序文

これまで私は聖書研究に関する様々な記事を投稿してきましたが、それらは基本的にクリスチャンを自認する人への発信に限られていました。
例えば 神は存在するのかとか、人は何故存在しどこへゆくのかなどの基本的な話はほとんど公開していなかったことに改めて気づきました。

それで今後はそれらの記事も発信してゆこうと思った次第ですが、それは追々として、今回は「進化論」に着目してみようと思いました。
この記事のタイトル「なぜダーウィンは「種の起源」を著そうと思ったのか」ですが、私はかつて若い頃「果たしてダーウィン自身は全面的に進化論を信じていたのだろうか」という疑問が湧き、それについて調べたことがありました。彼は「心の揺れ」について吐露しているということでしたが、その時は多くのことは分からなかったのですが、ここでは、これを著そうとしたダーウィンの動機づけについて少しばかり記してみたいと思います。

 ■個人としてのダーウィン像

主に参考にした資料としては「Darwin's Sacred Cause: How a Hatred of Slavery Shaped Darwin's Views on Human Evolution」という著作、及び、北陸⼤学教授 村上良夫氏の紀要論文 「ダーウィンとキリスト教」です。

さて、ダーウィン家は先祖代々バリバリ、ガチガチの「[ 奴隷制 ] 反対論者」の中で育った者で、「奴隷制」を破壊したいという思いが一つの動機づけとなり、結果、その集大成が「種の起源」であるということです。

これを聞くと少なからぬ人が「何それ???」「それが進化論とどう結びつくの?」という疑問が浮かぶのではないかと思います。

 ■ダーウインの宗教的背景

英国国教会に属していたダーウインの、その当時の [ 奴隷制 ] 擁護派は,黒人と白人は別の生物だと主張したいために,各人種はそれぞれの起源大陸で独立に創造されたという説(人類多起源説)を好み,それにより、奴隷売買は正当化され、彼は壮絶なむごたらしい場面を実際に目の当たりにしていたということです。始まりは「黒人と白人は別の生物」という主張に対する違和感でした。

またダーウィンは⽣来,痛みや苦しみに敏感で、本質的にきわめて感受性の強い⼈物であったと考えられており、また同時に,徹底した⼈道主義者であって,⼈間たちの中に⾒られる不正義には,きわめて批判的であり、それゆえとりわけ奴隷制度を激しく嫌悪していました。

そうしたダーウインに少しずつ信仰に関する変化が生じて行きます。自伝にこう記しています

《徐々に,旧約聖書が‥ また復讐⼼の強い暴君の感情を神に帰していることから,ヒンドゥー教の聖典や野蛮⼈の信⼼以上には信じられないものであると⾒るようになっていった。‥ 不信⼼は非常にゆっくりした速さで私にしのびよってきたが,最後には完全になった。その速さはまったくゆっくりであったので,私は苦悩を感じなかったし,・・実際,私には,なぜ⼈はキリスト教が真理であることを希うのか,理解しがたい。というのは,もしそうであるなら,聖書のことばを⽂字通りにとれば,不信⼼の⼈たちは永遠に罰せられることになり,それには私の⽗,兄,ほとんど全部の最良の友⼈たちが含まれることになるからである。そんなものは,いまいましい教理だ。》

そして、とりわけ、いわゆる「弁神論」に対してはさらなる疑いの念を濃くしてゆきます。

ここで、ちょっと中断になりますが、「弁神論」に付いての説明をしておこうかと思います。

「弁神論(theodicy)」というものがあります。簡単に説明しますと、神が善であるならなぜこの世に悪が存在するのか。あるいは、世界における悪の存在が、世界の創造者である全能な神の善性と矛盾するものではないことを弁明しようとする神に対する弁護論のことです。

基本的な考えは、世界に悪や苦しみがある理由について、その神が造られた不幸は、神の計画の一部であり、それらは最終的には救いに導くのに役立つものとされるという論理とされています。

そしてこの遠大な神の計画のことを「摂理」と呼ぶということです。

ところで私は、教会などにはただの一回も行ったことはなく、神学などにも興味がないので、今回これを書くに当たり、ああ、よく出てくるあの手の話はこういう名前の神学だったのかと初めて知ることが時々ありますが、まず、この「摂理」ついて考えてみたいと思います。

とりあえず「摂理」という語の意味を辞書から引用しておきましょう。

1 自然界を支配している法則。「自然の―」
2 キリスト教で、創造主である神の、宇宙と歴史に対する永遠の計画・配慮のこと。神はこれによって被造物をそれぞれの目標に導く。

では本題に戻ります。ダーウイン自身このように記しています。

《世界中の⼈間の数は,他のすべての知覚的⽣物の数と⽐較すれば何ほどのものでもなく,そしてこれらの⽣物はしばしば,モラルの改善はなしにいちじるしく苦痛を受けているのである。
全世界を創造することのできた,神のように⼒と知識に満ちた存在は,われわれの限られた知⼒に対しては,全能全知であるわけだが,その神の慈悲が無限でないと仮定することはわれわれの理解に反する。
というのは,ほとんど無限の時間を通じて無数の下等⽣物が、苦痛を受けるということに,どんな利益もありえないからである。
苦痛の存在は聡明な第⼀原因の存在に反するというこの非常に古い議論は,強い⼒を持つもののように私には思われた。
だがしかし,いま上に述べたように,多くの苦痛が存在することは,全⽣物が変異と⾃然選択によって発達してきたとする⾒解によく⼀致する。》

ダーウィンにとっては「人生の苦痛は有益な役割を持つ」という考えは到底認められなかったようです。

そして苦しみ,苦痛という問題から事態を⾒るなら,摂理的な目的論よりも⾃然淘汰説のほうが,はるかに説得⼒のある説明となる,とダーウィンは主張するのです。

ダーウィンは⼿紙の中でこう述べています。

《別段悪いことをしていない善良な男が⽊の下に⽴っていて,落雷で命を落とします。神は計画があって この男を殺されたのだとあなたはお信じになりますか(私は本当にぜひともお聞きしたいのです)。
多くの,いや大抵の⼈はそう信じています。でも私には信じられませんし、信じません。‥ 無神論者として書くつもりはありませんでした。
しかし,他の⼈たちのようにはっきりと,また望ましいようには,⾃分たちの周囲に計画と恩恵の証拠を⾒ることは私にはできないということは認めます。
世界にはあまりにも悲惨が多すぎると私には思えるのです。慈悲深き全能の神が,イモムシの⽣きた体内で養分を取って育つようにという特別な意図のもとにヒメバチを計画的に創造されたとか,そんなことは私には納得がいかないのです。‥ ‥ 眼が特別にデザインされたと信じる必要はないと思います。
そうかといって,この驚くべき世界と,また特に⼈間の性質を⾒るときに,すべてを野蛮な⼒の結果と⽚づけてしまうこともできかねます。私としてはこう考えたい気持ちです,つまり,すべては計画された法則の結果として⽣じているのであって,善であれ悪であれ細かなことはいわゆる偶然の働きにゆだねられているのだと。
・・この考えで私は全く 満⾜しているというわけではありません。こうしたことは全体として,⼈間が考えるには余りにも深遠だと私は感じています。》

 ■「自然淘汰」論の芽生え

まとめますと、全てが神の計画とは、無慈悲すぎてあり得ない。そうではなく、すべて偶然で自然が計画したと考えたほうが腑に落ちる。ということを言いたいのだと思います。

デザイン説,すなわち目的論的世界観(デザインされたものにはデザイナーが必ずいる。目的を持って設計されたものには設計者が存在する。)というかつて自分が受け入れていた理屈が次第に彼にとって,納得のいかないものであり,むしろつまずきとなっていたことが読みとれます。

納得できない目的論的デザイン論に代えて彼が提⽰したのが⾃然淘汰説でした。では、この理論は痛みや苦しみをどのように説明したのでしょうか。

『種の起源』初版から,⼆つのくだりを⾒てみましょう。まず第三章「⽣存闘争」の最後の部

《われわれはこの闘争について考えるとき,⾃然の闘いは間断ないものではないこと,恐れは感じられないこと,死は⼀般に即刻のものであること,そして強壮で健康で幸運のものが⽣きのこり増殖することを,完全に信じることによって⾃分をなぐさめることができる。》

[邦訳:⼋杉龍⼀訳 『種の起原・上』 『種の起原・下』

「苦痛、死、恐れ」などが神の計画の有益な経験であるとするより、自然がより良いものに導いてゆくという自分の考えの方が慰めを得られる。という理屈です。

全能の神が造られた世界に悪と苦痛があるという矛盾を解消し、神を弁護するために考え出された理論はダーウインにとっては、解決になる論理どころか、苦悩と嫌悪を増し加えるものでしかなく、その悪の原因は神の意図ではなく「自然」の淘汰の故だということで、言わば、悪の責任追及を神にではなく「自然」に持たせようとしたと言って良いでしょう。

端的に言えばダーウィンは「神による完全シナリオ通りの悪と苦しみ」という摂理を「自然という完全アドリブ任せの偶然」に委ねたかった。そしてそれを実現するために、とうとう「自然淘汰」という【神学】を思いついたということでしょう。

 ■揺れ動く「神」に関する認識

晩年のダーウィンが次のように⾃らの⽴場を表現していたことは事実です。

《私⾃⾝の⾒解がどうであるかは,私以外の誰にとってもどうでもいいことだと思います。ただ, ‥ ‥ 私の判断はしばしば揺れ動いているといい得るかも知れません。
さらに,⼈が有神論者と呼ばれるに値するかどうかは,その⾔葉の定義にかかっていますし,それは⼿紙で論じるにはあまりに⼤きな主題です。
私は,いちばん極端に揺れ動いたときでも,神の存在を否定するという意味での無神論者であったことは⼀度もありませんでした。私は,概して⾔えば(そして年をとるにつれてますます),ただし常にではありませんが,不可知論者というのが私の⼼の状態をいちばん正しく⽰す表現だと思っています。》

Aspects of scepticism : with special reference to the present time / by John Fordyce

先に紹介した、北陸⼤学の村上教授は、こう書いています。

《そこで私は夢想する。 もしダーウィンの時代のキリスト教が,時流に迎合し科学的装いをこらしたものでなく,むしろ⼼に響く素朴なものだったなら;もしキリスト教諸国においてすでに⿊⼈奴隷制が廃⽌され,すべての⼈間の尊厳が⼗分に認められていたなら;もしキリスト教が,聖書の⼀⾯的解釈から出てきたようなひどい教理を捨て,⼼を温かく広やかにするような教えを説いていたなら;もしキリスト教が,「正義を⾏い,慈しみを愛し,へりくだって神と共に歩むこと」(ミカ書6章8節。新共同訳)に,全⼒を挙げて努めていたなら;それでもダーウィンは,神抜きの理論を考え出していただろうか?
ダーウィン⾃⾝に直接聞いてみたい気がする。彼は何と答えるだろうか‥ ‥ 。》

さて、こうして進化論に関するダーウィンの個人的な点に注目してきましたが、「種の起源」は生物学上の論文のように思われていますが、ダーウィニズムは,深く根づいたキリスト教⽂化の所産であり、紛れもなく一種の「神学」であると断言して間違いないでしょう。言い方を変えれば、その動機も、扱い方から見ても「進化論」は完全に「宗教」だということです。

この後、幾らかの私のコメント残しておきたいと思います。

 ■「全能者」とはどういう存在なのでしょうか

「全能者[almighty]」オールマイティということは、すべて能わざることなし、つまりどんなことでも、何でもできる方と誰でも考えると思います。

しかし、神にもできないことがある、と言われたら皆さんはどのように思われますか。 実際、そうしたことが聖書に記されています。

《これは永遠の命の希望に基づくもので、偽ることのない神は、永遠の昔にこの命を約束してくださいました》テトス 1:2

この中の「偽ることのない」と訳されている言語は「ギ語:アプスデイス」で、本来「偽われない」という意味です。

幾つかの英語訳には[dose not lie]などの訳も見られますが、欽定訳やアメリカ標準訳など著名な翻訳のほとんどは「 [cannot lie] 偽ることができない」と訳出しています。

私が調べた限りでは「回復訳」では、本来のニュアンスを保って「偽ることのできない神」と訳しています。以下は回復訳からのコメントの抜粋です

【多少の不自然さや読みにくさがあるのは、ギリシャ語のニュアンスや真理を正しく伝えようとしたからです。 ギリシャ語ネストレ二十六版を底本といたしました。 **参考として新改訳聖書、詳訳聖書、日本聖書協会口語訳、文語訳、新共同訳聖書、永井訳聖書、前田訳聖書など、多くの助けを受けました。多少の不自然さや読みにくさがあるのは、ギリシャ語のニュアンスや真理を正しく伝えようとしたからです。】

(※「回復訳」はギリシャ語のニュアンスを正しく伝えることに主眼を置いた訳とされています。馴染みがない方のために、その序文の一部を引用しておきます。

本題に戻りますが、

ですから、「しない」のではなく「出来ない」のです。「全能者なのに出来ないことがあるってどういう事」なのでしょうか。

まあ私は思うに、本当はしようと思えば「出来ない」ということは無いのだろうと思います。では「偽ることが出来ない」のは何故でしょうか。

もしただの一度でも「偽りを語った」としたら、全能性は証明されるでしょうが、神性は否定されてしまうでしょう。神による神としての自己否定になるということです。
創造者なる神の神性が消滅したら、それは同時に創造物一切の崩壊へと繋がるに違いありません。
だから、しないのではなく、神として出来ないのでしょう。

同じ理由で、神であり創造者だからこそ、できないことが他にもあるに違いありません。例えば、創造者としての大義に関わる基本的というか本然的な計画の遂行の中止や変更などはできないでしょう。

そのように言える具体例をひとつ挙げてみましょう。

《神は、アブラハムに約束をする際に、御自身より偉大な者にかけて誓えなかったので、御自身にかけて誓い、「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたの子孫を大いに増やす」と言われました。》ヘブライ6:13,14

これはいわゆるアブラハム契約に関することで、創世記3:15の「女の子孫」は「アブラハム」を通して、その子孫を通して存在するようになるということを明らかにするものですが、「ご自身にかけて誓う」と言うような類の事柄は変更「出来ない」でしょう。

それゆえに「苦しみを除く」ことも神が自らに定められたご計画や、そのための手順や方法でしか、できないと言えるでしょう。

神なのに、すぐに苦しみを無くせないのなら、そんなの神じゃないというようなご意見もあるかもしれません。しかし神だからこそ、今それを行うことは出来ないということもあるのだということを理解できれば、納得がゆくのではないでしょうか。

あるいは、多くの悪や苦悩があるため、少なからぬ人は「神はいるとしても、無慈悲なのか無関心な神」という感覚の方もおられるかもしれません。

しかし、勘違いしないでください。神だから、苦しみなど感じないと思ったら大間違いなのです。

《主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。》創世記6:5,6

天のみ使いの幾らか(決して少人数ではない)が本来の場所を捨て、人間の女との関係を持ち、その結果ネフィリム(巨人)の蛮行が横行して手も付けられないほどの暴虐が地に満ちたことが、神の計画どおりであったのなら、なぜ「心を痛め」ることなどあるでしょうか。

むしろ、地の暴虐を眺めて、全てが計画通りに順調に進んでいる故に「すべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」(創世記1:31)と満足されるはずでしょう。

たったこの一例だけでも、「弁神論」のとんでもない嘘がバレるというものです。
ダーウィンにもせめてこのことだけでも気づいて欲しかったと思います。
そうすれば、あれ程の苦悩を抱えることもなく、おそらく「種の起源」も誕生することなどなかったでしょう。

 ■「弁神論」の誤り

仮に「弁神論」が真実だったとしたら「後悔し心を痛めた」と言うのは究極的な偽りであったということになります。「全能の神の善性を弁明する論」どころか、その実体は「神こそ最大の嘘つきであることを証明しようとした論」であるのは間違いありません。

《分別ある者は、わたしの言葉を聞け。・・全能者には不正など、決してない。》ヨブ34:10

さて、「神も苦しみを味わわれる」という話をしていました。
ちょっとこのことを考えてみてください。

子供が事故にあったり、命をおとしたら、嘆き悲しまない親がどこにいるでしょうか。人の子の親が、その我が子の苦しみを我が事のように、いや同じ痛み苦しみを、味わうのは何故ですか。
それは人が、神の形に造られているからに他なりません。
父なる神は[人の子]の父であり、[人間」の親です。

「人の子」であり「神の子」であったイエスに関する次の2つの聖句を読まれて、そしてその関連を黙想してみてください。

《イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。》ルカ22:44
《イエスは言われた。・・わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。》ヨハネ14:9

イエスの苦しみはそのままイコールみ父の苦しみであるということです。

神は我が子のその様子と3度も繰り返される祈りを聞きながら、天で、子と同様にもだえ苦しまれたに違いないということです。聖句を読む時その情景が思い浮かぶように、その同じ時、み父の顔からも血が滴り落ちている苦悩の様子を見ることができる筈です。

最愛の独り子に全人類の罪を負わせ、その悲惨さを全部を負わせる事によって成し遂げられる贖いを設けられた神は、全歴史上の全人類の苦しみの総てを、今なお負い続けておられるに違いありません。

神のかたちに造られた人の苦しみついても同じことが言えます。

例えば、人が生まれ落ちてから、死ぬまで、その殆どの期間、苦しみを経験するということは極めて稀でしょう。仮に、80年生きた人が80年間苦しんだとして、それを神の苦しみと比較してみてください。人は、苦しみを紛らす術も知っています。(やけ酒を飲んだりとか)

しかし神は、アダム以来およそ6000年間ずっと今に至るまで、歴史上存在したすべての人間の苦悩、悲哀を味わい、覚えておられるのです。しかも、神はそれらを見て見ぬふりをすることも、何かでごまかすこともできないのです。

だからこそ「再生、復活」が可能となるのです。

それにも関わらず、「神などいない。無慈悲だ、最悪だ」などという人間からの誹謗中傷を偲び続けておられるのです。

ですから「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」(ローマ12:15) だけでなく、
「喜ぶ神と共に喜び、泣く神と共に泣く」人でありたいと思います。

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