道興が歩いた道、廻国雑記を辿る、かし尾、花蔵坊、塩の山、さしでの磯、武田が館、菊島、笛吹川、七覚山
道興が歩いた道、廻国雑記を辿るシリーズ、これまで、
と、来まして、前回は岩殿の明神、猿橋、初狩の里でしたが、今回はその続き、甲府盆地です。
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道興は、初狩の里から甲州道中一番の難所、笹子峠を越えたんでしょう。

そして駒飼に下り立ち、日川渓谷を西へ行って、この風景を目にしたに違いありません。

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かし尾といへる山寺に一宿し侍りけねば、かの住持のいはく、後の世のため一首を残し侍るべきよし、頻りに申し侍りければ、立ちながら口にまかせて申し遣しける。かし尾と俗語に申し習し侍れども、柏尾山にて侍るとならむ。
蔭頼む、岩もと柏、おのづから、一よかりねに、手折りてぞしく
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道興は、旧勝沼町柏尾の大善寺を訪れ、一泊しています。

恐らく、この薬師堂に泊まったのでしょう。後の世で、武田勝頼も泊まっています。歴史が詰まってますね。
大善寺に今も残る藤切り祭、これは、役行者が1300年前、災いをもたらす大蛇を退治し民衆を救ったという伝承から来るお祭りですが、この事からも分かる通り、大善寺はこの辺りの中心的な修験の根本道場で、配下六寺の内四寺が本山修験でした。だから道興は大善寺に寄り一泊したのでしょう。

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花蔵坊といへる山伏の所に、十日ばかりとどまりけるに、武田刑部大輔礼に来りき。盃とり出でて、暫く遊覧し侍りければ、愚詠を所望しければ、翌日使をつかはすついでに、
消えのこる、雪のしらねを、花とみて、かひある山の、春の色かな
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道興は、大善寺で一泊した後、石和宿にあった花蔵坊に向かい、ここを拠点として、十日程滞在し、様々観光をしています。十玉ヶ坊の時と同じですね。
尚、花蔵坊は今の石和温泉駅入口交差点付近にあったとされています。

また、この話を聞き付けた当時の甲斐守護、武田信昌が訪れてきて酒宴を開いています。
さて、甲州には、"甲斐の白根" という歌枕があって、西行も詠んでいます。
君すまば、甲斐の白嶺の、おくなりと、雪ふみわけて、ゆかざらめやは


道興が大磯を訪れた際、西行も訪れた鴫立沢に道興も訪れ、西行が詠んだ歌をオマージュした歌を詠んでいましたね。
今回も、"雪の白根", "甲斐ある山の" と詠んでますから、同じようにオマージュしたものと思われます。
さて、道興は花蔵坊を拠点に、まずは、塩山と差出磯を訪れています。
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また此の国の塩の山、さしでの磯とて、並びたる名所侍りければ、
春の色も、今一しほの、山みれば、日かげさしでの、磯ぞかすめる
此の二首を遣し侍りき。其の後さしでの磯にて鴬を聞きてよめる。
はる日影、さして急ぐか、しほの山、たるひとけてや、鴬のなく
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花蔵坊から塩山、差出磯だと、秩父往還r140ですね、道筋は。


塩山、差出磯、共に歌枕で、古今和歌集で、
しほの山、さしでのいそに、すむ千鳥、きみがみ世をば、やちよとぞなく
と、詠まれて以降、おめでたい、喜ばしい歌ですから、この歌のオマージュが多く詠まれ、道興の歌もその一つということになります。
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宿坊の軒に梅いと面白く咲き薫りて、月影朧なる夜もすがら、かりねの夢も忘れはてて、
梅かをり、月かすむ夜の、旅まくら、夢に都を、なにか忍ばむ
武田が館に梅あまた侍り。宿所へのことは憚りありとて、祖母の比丘尼の寺へ招引し侍りて、さまざまの風情をこらし侍りき。此のあたりに菊島といへる名所侍り。一首所望し侍りしかば、
吹き匂ふ、花の春風、うらやみて、秋をよそにも、きくかしまかな
今日のみちに、笛吹川といへる川侍り。馬上にてよめる、
春風に、岸なる竹も、音そへぬ、ふえふき川の、波のしらべに
同じつづきに、花鳥の里といへる所を過ぎ侍るとて、
色にそみ、声にめでつつ、やすらひて、永き日暮す、花鳥の里
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武田信昌は、それまで、祖父武田信重が築いた小石和にあった武田家居館から、1465年、跡部氏を倒した後、川田館を築き本拠とし、1492年に嫡男信縄に家督を譲ってからは、矢坪に永昌院を開き、落合に移り、"落合殿" と呼ばれるようになっていますから、"武田が館" は川田館ということになります。



道興は、祖母の比丘尼の寺に招待されています。祖母ですから小石和ということになります。今もそこにある成就院がその場所となります。


そしてここへの道すがら、笛吹川、名所だった菊島を見たのです。

そして、花鳥の里を訪れました。
さて、道興は花鳥の里に何故訪れたのか。
恐らくですが、日本武尊伝承ではないでしょうか。


日本武尊は東征の帰路、甲州に入っていますが、古事記と日本書紀とでルートが異なっています。
古事記ルートは、足柄峠を越えた後、甲州に入ってますから、東海道から、甲州に入るルートです。
花鳥の里はこのルート上に位置していますから、古事記ルートの伝承ということになります。
古事記成立は712年ですから、当時既にこのルートは都(奈良、京都)で認識されていたということになります。
この後、道興は、花蔵坊を発ち、富士吉田へ向かいますが、その道すがら寄ったのが七覚山です。
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是より七覚山といへる霊地に登山す。衆徒山伏両庭歴々と住める所なり。暁更に至る迄、管絃酒宴興を尽し侍りき。宿坊の花やうやう吹き初めけるを見て、
蕾技の、花も折りしる、此の山に、七のさとり、ひらきてしがな
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甲斐国志によれば、
"真言宗新義檀林七ケ寺ノ一、「金剛智院善勝坊」卜称ス。城州醍醐山報恩院ノ末寺ナリ、御朱印寺領、二十九石五斗余、境内一万二千六十二坪、山林アリ、相伝フ文武天皇ノ御宇、役ノ小角ノ草創、太宝元年卓錫シテ初メテ不尽(富士)登山ノ道ヲ啓ヒラ)クト云フ(富士ノ北麓ニ所祀役ノ行者堂至レ今円楽寺ヨリ進退ノ堂領ノ山方八町アリ)"
ということで、役行者が草創したことからも分かる通り、修験の聖地でした。
また、役行者は、ここ円楽寺を起点とした富士登山の道を開いたとされています。

道興は、"暁更に至る迄、管絃酒宴興を尽し侍りき" とあるように、修験者達と親睦を深め、本山修験強化を図り、その後、役行者が開いた富士登山の道を通って富士吉田に向かったと思われます。
今回はここまで
如何でしたでしょうか。
甲府盆地は本当に山に囲まれていて、甲斐の白根は常に見えていて、少し高い所に行くと富士山も見える、景色が良い所でした。
