見えない脱工業化——AIが消すのは事務職ではなく、労働市場の入口である——

目 次

序章 問題の所在............................................................................... 3
第一章 脱工業化アナロジーの射程..................................................... 4
第二章 見えない崩壊——地理的分散と政治的不可視性.......................... 5
第三章 消失ではなく二極化——ケア労働への下方圧力.......................... 6
第四章 日本型雇用の調整様式——被害者は「まだ雇われていない人」. 7
第五章 キャリアのはしごと訓練機構の喪失.......................................... 8
第六章 対策の設計——三層のアプローチ............................................. 9
終章 観測装置をどこに置くか........................................................... 11

序章 問題の所在

〔事実〕二〇二六年六月末、米国発の報道は、AIによる雇用喪失をめぐる議論の焦点が変わりつつあることを伝えた。この数ヵ月、議論の中心にいたのはプログラマーやソフトウェアエンジニアといったテック業界の従業員である。彼らは大手テック企業の人員削減の矢面に立ち、AIシステムが真っ先に習得したのは彼らのスキルだった。しかし現在、多くの経済学者がより深刻に懸念しているのは、別の集団である。顧客サービス担当者、簿記係、人事担当者——表舞台には登場しないが、米国全体で数千万規模の雇用を構成するバックオフィス労働者であり、その大半を女性が占める。

〔事実〕元ブルッキングス研究所研究員のモリー・キンダーは、この構図を一つの類比で要約している。かつての脱工業化が高卒の男性たちに与えた打撃と同種の衝撃が、今度はAIによって高卒の女性たちに及ぶのではないか、という警告である。事務職やカスタマーサービスは、中産階級の給与か、少なくともそこへ到達する道筋を提供してきた。それは、グローバル化と自動化によって消失する以前の製造業が、男性労働者に対して果たしていた役割とよく似ている。

〔考察〕なぜ議論はこれまでテック職に偏っていたのか。理由は単純で、テック労働者は可視的だからである。彼らは発信力を持ち、大規模なレイオフは経済ニュースの一面を飾り、その動向は株価と結びつけて報じられる。一方、簿記係や人事担当者の雇用は一社ごとに一人二人の単位でしか動かず、ニュースにならない。しかし雇用の規模はまるで違う。ソフトウェア開発者の総数に対し、事務・管理支援系の職種群は桁が一つ上である。議論の可視性と被害の規模が反比例している——この歪みこそが、本稿全体を貫く主題の予告編になっている。

〔考察〕本稿でいうバックオフィス業務の範囲を定めておく。顧客と直接向き合う営業や販売の後方で、組織の運営を支える事務系業務の総体——経理・簿記、人事・労務、総務、受発注管理、カスタマーサポート、データ入力・照合、文書管理——を指す。共通する特徴は三つある。第一に、業務の大部分が言語と数値の処理として遂行されること。第二に、成果の正誤が比較的明確に判定できること。第三に、組織の規模を問わず必ず存在すること。この三つの特徴は、そのままAIによる代替可能性の高さと、次章以降で論じる被害の広範さの双方を説明する。

〔考察〕この類比は修辞として強力であるだけでなく、分析枠組みとしても一定の妥当性を持つ。しかし本稿の主張は、類比が成立する部分よりも、成立しない部分——脱工業化との非対称——にこそ、政策設計上の含意が集中しているというものである。本稿では四つの非対称を順に検討する。第一に、地理的分散がもたらす政治的不可視性。第二に、雇用の消失ではなく賃金分布の変形として現れる被害の形態。第三に、日本型雇用における調整様式の特殊性。第四に、エントリーレベル業務が兼ねていた訓練機構の喪失である。最後に、これらを踏まえた対策の設計原理を三つの層に分けて素描する。なお、あらかじめ明記しておく。本稿が「高卒女性」という軸を用いるのは、特定の属性の能力を問題にするためではない。問われているのは、大学を経由せずに中産階級へ到達する経路——労働市場の入口の設計——が壊れつつあるという構造の問題であり、その入口に最も多く立ってきたのがこの層だという事実の問題である。

呼び出される労働者
——スポットワーク訴訟が問う、労働市場のAPI化と契約の希薄化——
『見えない脱工業化』続編

目 次

序章 前稿からの接続——入口を失った労働力はどこへ行くか................ 3
第一章 訴訟の三つの争点——契約・引受・注意義務............................ 5
第二章 マッチングは予約か、オーソリゼーションか............................ 7
第三章 契約は成立しても、平均賃金が計算できない............................ 9
第四章 「私は場を貸すだけ」という抗弁の射程.................................... 10
第五章 立法のEU、司法の日本.......................................................... 11
第六章 観測装置の拡張——稼働枠から生活可能性へ............................. 12
終章 雇われる場所から、呼び出される場所へ.................................... 13

序章 前稿からの接続——入口を失った労働力はどこへ行くか

〔考察〕前稿『見えない脱工業化』は、AIが事務職という中産階級への入口を静かに消し、その被害が失業ではなく採用抑制・自然減・賃金分布の変形・訓練機構の喪失という「不在」の形で現れることを論じた。本稿はその続編である。前稿が問うたのは、入口が消えるという事実であった。本稿が問うのは、その入口を失った労働力がどこへ吸収されるのか、そしてその受け皿がどのような契約構造を持つのか、である。

〔事実〕二〇二六年四月、東京・愛知など一都四県の利用者九人が、スポットワーク仲介アプリ最大手「タイミー」を相手取り、未払い賃金相当額と慰謝料あわせて約三一二万円の支払いを求めて東京地裁に提訴した。原告らは二〇二一年一〇月から二六年三月にかけて、アプリでマッチングが成立した飲食店やホテルなどの仕事について、雇用主側の都合による直前キャンセルを計一三五件受けたと主張している。七月二日の第一回口頭弁論でタイミー側は請求棄却を求め、全面的に争う姿勢を示した。原告側代理人によれば、直前キャンセルをめぐり求人企業ではなくプラットフォーマーの法的責任を正面から問う集団訴訟は全国で初めてである。

〔考察〕この訴訟を、単発アルバイトのドタキャンをめぐる個別紛争として読むなら、本稿は書かれる必要がない。本稿の見立ては異なる。前稿で描いた「入口の消失」の受け皿として拡大しつつあるスポットワーク型労働市場が、実は安定した契約ではなく、企業側がほぼノーコストで取り消し可能な「稼働枠」として設計されているのではないか——この訴訟は、その設計思想を法廷に引きずり出した最初の事例である。前稿が労働市場の入口の消失を論じたとすれば、本稿は代替入口の脆弱性を論じる。二つは別の話ではない。見えない脱工業化の第二段階である。ただし、あらかじめ断っておく。スポットワークは、入口を失った労働力の唯一の受け皿ではない。前稿で論じたとおり、ケア労働、販売、派遣事務、低単価化する事務、在宅のクラウドワークなど、複数の沈み先が併存している。本稿がその中でスポットワークを取り上げるのは、それが代表例だからではなく、契約の希薄化という現象を最も先鋭な形で示すからである。他の受け皿でも進行している契約の劣化を、スポットワークは分単位・日単位という極端な粒度で可視化してくれる。

〔考察〕前稿の骨子を簡潔に振り返っておく。前稿は、AIによる事務職の代替が製造業の脱工業化と似て非なるものである点を、四つの非対称として整理した。第一に、被害が地理的に分散するため「AIラストベルト」が出現せず、政治的に不可視化されること。第二に、被害が失業ではなく賃金分布の変形として現れ、失業統計に痕跡を残さないこと。第三に、日本型雇用では解雇ではなく採用抑制として調整され、被害が「まだ雇われていない世代」へ転嫁されること。第四に、エントリー業務が兼ねていた訓練機構が失われ、将来の管理職・検収者を育てる土壌そのものが痩せること。これら四つに共通するのは「見えない」という性質であり、だからこそ前稿は対策に先立つ観測装置の設置を求めた。本稿は、この不可視性の議論を、入口を失った労働力の行き先へと延長するものである。

〔考察〕本稿の構成は次の通りである。第一章で訴訟の争点を三つの層に整理する。第二章で、マッチングを決済のオーソリゼーションになぞらえ、キャンセルのコスト配分という問題を取り出す。第三章で、契約が成立してもなお既存のセーフティネットが空転する構造を論じる。第四章で、プラットフォームの「私は場を貸すだけ」という抗弁の射程を検討する。第五章で、EUの立法との比較から日本の司法先行型の特徴を描く。第六章で、前稿の観測装置論をスポットワークへ拡張する。終章で、労働市場が「雇われる場所」から「呼び出される場所」へ変質するという全体像を提示する。


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