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6月、「余白」をなくしたわたしが気づいたこと。

6月は、何もかもがうまく回らない一か月だった。

朝起きると、左肩に激痛が走った。

寝ている間に左腕を体の下にしてしまい、肩まわりの筋を痛めてしまったらしい。レントゲンを撮り、ステロイドの点滴まで受けて、ようやく痛みに耐えられるようになった。

二週間ほどで肩は落ち着いたと思ったら、今度は腰。そして背中。

痛みの場所が次々と変わり、「どうしてこんなに続くんだろう」と気持ちまで沈んでいった。

原因には思い当たることがある。

五月の終わりから、在宅勤務の環境が変わった。

これまで使っていた自社環境用のPCに加え、お客様環境用のノートPCが一台増えた。二台を並べる位置がなかなか定まらず、体を少しひねった姿勢で作業する毎日。

さらに、別グループから引き継いだ案件は覚えることが多く、担当している他の案件も思うように進まない……。

「もう少し飲み込みが早かったらなあ」
「ひとつひとつのタスクに、じっくり向き合う時間がなさすぎる……」

そんなことばかり考えていた。
仕事もうまくいかない。
体も思うように動かない。

6月は、わたしにとって小さなスランプだったのだと思う。



最初は、もっと頑張れば何とかなると思っていた。

仕事の進め方を工夫したり、パソコンの配置を変えたり、少しでも効率を上げようと試してみる。

でも、思うようには変わらなかった。

そんなとき、ふと気づいた。
問題は仕事だけではなかった。
体そのものが、悲鳴を上げていたのだ。

わたしは、noteで「ホシコ|余白のある暮らし」という名前で発信している。

(「余白」って、どこにあるのよ。)

6月のわたしは、「余白」とはほど遠い毎日だった。

肩が痛い。
腰が痛い。
背中も痛い。

こんな状態では、美術館へ行こうという気持ちも、本を読もうという気持ちも起きない。

誰かのnoteをゆっくり読む余裕も、自分で文章を書く元気もない。
下書きから探し出して、なんとか週末に投稿はした。

無印良品をぶらぶら歩いて、「これ、暮らしにいいな」と思う心の余白もなくなっていた。

余白がなくなったのではない。
余白を楽しむだけの、心と体のゆとりがなくなっていた。



そのことに気づいてから、「もっと頑張る」ことを、少しだけ手放してみようみようと思った。

まずはちゃんと眠ること。
歩くこと。
体を動かすこと。
体を整えること。

体が痛いから、全部はできないけれども。
直ってきた部位から少しずつ動かすようにした。

遠回りに見えても、それが今のわたしには一番必要なのだと思えた。

わたしが理想とする「余白のある暮らし」は、To BeであってAs Isではない、と書いたことがある。

今のわたしを表す言葉ではなく、目指したい暮らしの姿。

だから、ときには余白をなくしてしまうこともある。

でも、そのたびに戻ってこられればいい。



最近、自分は何を目指しているのだろう、と考えることがある。

会社員として、もうひとつ階段を上りたい。
母として、子どもがもっと〇〇できるようになったらと思う。
noteも、これからも書き続けたい。

でも、その先にある願いは案外シンプルだった。

家族と美術展へ出かける。
本屋をゆっくり歩く。
本を読む。
noteを書く。
無印良品をぶらぶら歩いて、暮らしを少し心地よくしてくれるものを見つける。

そんな何気ない時間を、心から楽しめること。
そのためには、何より体が元気であることが大切なのだ。

スランプを抜け出す方法は、もっと頑張ることだと思っていた。


でも今は少し違う。
まずは、自分を整えること。

余白は、その先に生まれるものなのかもしれない。



6月は、そんなことを体に教えてもらった一か月だった。


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