6月、「余白」をなくしたわたしが気づいたこと。
6月は、何もかもがうまく回らない一か月だった。
朝起きると、左肩に激痛が走った。
寝ている間に左腕を体の下にしてしまい、肩まわりの筋を痛めてしまったらしい。レントゲンを撮り、ステロイドの点滴まで受けて、ようやく痛みに耐えられるようになった。
二週間ほどで肩は落ち着いたと思ったら、今度は腰。そして背中。
痛みの場所が次々と変わり、「どうしてこんなに続くんだろう」と気持ちまで沈んでいった。
原因には思い当たることがある。
五月の終わりから、在宅勤務の環境が変わった。
これまで使っていた自社環境用のPCに加え、お客様環境用のノートPCが一台増えた。二台を並べる位置がなかなか定まらず、体を少しひねった姿勢で作業する毎日。
さらに、別グループから引き継いだ案件は覚えることが多く、担当している他の案件も思うように進まない……。
「もう少し飲み込みが早かったらなあ」
「ひとつひとつのタスクに、じっくり向き合う時間がなさすぎる……」
そんなことばかり考えていた。
仕事もうまくいかない。
体も思うように動かない。
6月は、わたしにとって小さなスランプだったのだと思う。
*
最初は、もっと頑張れば何とかなると思っていた。
仕事の進め方を工夫したり、パソコンの配置を変えたり、少しでも効率を上げようと試してみる。
でも、思うようには変わらなかった。
そんなとき、ふと気づいた。
問題は仕事だけではなかった。
体そのものが、悲鳴を上げていたのだ。
わたしは、noteで「ホシコ|余白のある暮らし」という名前で発信している。
(「余白」って、どこにあるのよ。)
6月のわたしは、「余白」とはほど遠い毎日だった。
肩が痛い。
腰が痛い。
背中も痛い。
こんな状態では、美術館へ行こうという気持ちも、本を読もうという気持ちも起きない。
誰かのnoteをゆっくり読む余裕も、自分で文章を書く元気もない。
下書きから探し出して、なんとか週末に投稿はした。
無印良品をぶらぶら歩いて、「これ、暮らしにいいな」と思う心の余白もなくなっていた。
余白がなくなったのではない。
余白を楽しむだけの、心と体のゆとりがなくなっていた。
*
そのことに気づいてから、「もっと頑張る」ことを、少しだけ手放してみようみようと思った。
まずはちゃんと眠ること。
歩くこと。
体を動かすこと。
体を整えること。
体が痛いから、全部はできないけれども。
直ってきた部位から少しずつ動かすようにした。
遠回りに見えても、それが今のわたしには一番必要なのだと思えた。
わたしが理想とする「余白のある暮らし」は、To BeであってAs Isではない、と書いたことがある。
今のわたしを表す言葉ではなく、目指したい暮らしの姿。
だから、ときには余白をなくしてしまうこともある。
でも、そのたびに戻ってこられればいい。
*
最近、自分は何を目指しているのだろう、と考えることがある。
会社員として、もうひとつ階段を上りたい。
母として、子どもがもっと〇〇できるようになったらと思う。
noteも、これからも書き続けたい。
でも、その先にある願いは案外シンプルだった。
家族と美術展へ出かける。
本屋をゆっくり歩く。
本を読む。
noteを書く。
無印良品をぶらぶら歩いて、暮らしを少し心地よくしてくれるものを見つける。
そんな何気ない時間を、心から楽しめること。
そのためには、何より体が元気であることが大切なのだ。
スランプを抜け出す方法は、もっと頑張ることだと思っていた。
でも今は少し違う。
まずは、自分を整えること。
余白は、その先に生まれるものなのかもしれない。
*
6月は、そんなことを体に教えてもらった一か月だった。
