善を断つ勇気
善を断つ勇気
──〈断〉には悪もついてくる
「善良な人間は、善を望むだけでなく、善を行うことにも喜びを感じる。」アリストテレスのこの言葉は美しい。しかし美しいだけに誤解されやすい。多くの人はこれを、善を望むだけでは足りず、実際に行動してこそ意味がある、という程度の教訓として受け取ってしまう。行動は望むことの延長であり、望みが強ければ自然と行為に至る、というふうに。しかし現実はそれほど単純ではない。
善を望むことと善を行うことのあいだには、決定的な溝がある。その溝の名を、〈断〉という。望んでいるかぎり、人はまだ〈はかり〉の内側にいる。あれこれの事情を量り、誰の言い分にも耳を傾け、判断を保留していられる。しかし行うためには、その量りをどこかで打ち切らねばならない。断る、断ち切る、決断する――これらの語がひとしく「断」の字を共有しているのは偶然ではない。いずれも、まだ続けられたはずの検証を、みずから閉じる行為だからである。善を行うとは、この意味で常に一つの〈断〉である。
そして切るということは、必ず何かを失わせるということである。不正を断てば、その不正から利益を得ていた者は不満を抱く。依怙贔屓を断てば、特別扱いを期待していた者は裏切られたと感じる。規律を守れば、自由を奪われたと感じる者も現れる。善は、誰にとっても善として現れるわけではない。本当に善であるほど、ある立場の人間にはむしろ悪として経験されることさえある。
ここは注意して言葉を選ばねばならない。善と悪が同じものになるわけではない。そうではなく、善を実現するという行為そのものが、誰かの利益や欲望や期待を断つことを避けられない、ということである。だから正しく言うなら、善に付き従うのは悪そのものではなく、悪として受け止められてしまう側面である。この区別を最後まで手放してはならない。手放した瞬間、せっかく分けた善悪がまた混ざってしまう。
もっとも難しいのは、不正対善良、特権対公正というような、片方が明らかに分の悪い対立ではない。本当に〈断〉が試されるのは、双方にそれぞれの正当性がある場面である。たとえば、ある社員を守ろうとする上司の情と、組織全体の公平を守ろうとする規則とが、ともに一定の理を持ちながら衝突する。このとき断つ者は、単に悪を斬り捨てているのではない。一つの善のために、もう一つの善を断っている。ここでこそ、断を下す者の重みが試される。
だから善とは、誰も傷つけない技術ではない。避けられない痛みを見据えながら、それでもなお、より広く守るべきもののために選び取る裁断である。善を行う者は、ときに冷たいと言われ、融通が利かないと言われ、悪人であるかのように扱われることさえある。しかしその評価だけで善悪は決まらない。善悪は歓声の数ではなく、何を守るために何を断ったのかという構造によって測られる。ただし、その構造そのものをどう量るかは、〈はかり〉という、また別の働きに委ねられている。〈断〉がはかりを打ち切る行為である以上、〈断〉の正しさを最終的に裁くのは、〈断〉のあとにもなお続いていく、他者との照合可能性のほうである。
アリストテレスが「善を行うことにも喜びを感じる」と言ったとき、彼が指していたのは、この裁断を快楽として楽しむことだったのだろうか。もしかすると彼自身は、訓練を重ねた有徳な人間には、理性と欲求のあいだの葛藤そのものがすでに解消されている状態を思い描いていたのかもしれない。だとすれば、ここでの読み替えは彼への忠実な解釈というより、こちらの関心からの読み込みである。それでもなお言いたいのは、苦しみを伴う決断を、それでもなお引き受けられる人格の成熟というものがある、ということだ。善を行う者は葛藤しない人間ではない。葛藤を知りながら、それでも善を選び続けられる人間である。そこには歓喜よりも静かな充足がある。
そしてこの〈断〉は、行為だけの話ではない。言葉にもまったく同じことが起こる。言い切るということは、留保を断つことである。「かもしれない」「しかし」「別の見方もあるが」という、まだ量りを続けている余地を、言葉の形において打ち切る行為である。だから言い切りにも、必ず悪として受け止められる側面がついてくる。誰かが抱いていた留保、誰かがまだ検討中だった異論、誰かが聞いてほしかったニュアンス――それらは言い切られた瞬間、切り捨てられたものとして残る。
この言い切りは、二重の顔を持つ。言い切ることで初めて、人は自分の判断を他者の検証にさらすことができる。その意味で言い切りは、はかりの道具でありうる。しかし言い切ることでもう検証は要らないと宣言してしまえば、それは旗印に転じる。行為における〈断〉が、公益のための裁断にも権力の行使にもなりうるのとまったく同じ二重性が、言葉の言い切りにも宿っている。
善を望むことは誰にでもできる。しかし善を行うこと、そして本当のことを言い切ることは、容易ではない。なぜならその瞬間には必ず〈断〉があり、その〈断〉には必ず、誰かにとって悪として受け止められる側面が伴うからである。善とは、悪を消し去る技術ではない。善とは、悪を生まない幻想でもない。善とは、避けられない痛みを見据え、その重さを引き受けながら、なお守るべきもののために裁断し、そして裁断したことをなお他者の検証にひらき続ける勇気なのである。
