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vol.16寄稿者&作品紹介17 矢野利裕さん

ウィッチンケアには第13号以来の登場となった矢野利裕さん。矢野さんは、小誌では第7号から教育/学校に関するご寄稿を続けてくださり、それらの寄稿作は矢野さんが2022年に上梓した『学校するからだ』(晶文社)の一部として収録されまして、ちょっと一段落という感じではあったのですが...昨年の秋、私(←発行人)は矢野さんの最新刊『「国語」と出会いなおす』(フィルムアート社)や文学フリマ東京で入手した「矢野利裕のLOST TAPES」(1&2)を読んでいまして、ああ、やはり小誌には矢野さんの寄稿作が掲載されているべき(「べき」って、何様!?...「掲載できたら嬉しいなあ」に訂正。スイマセン)と強く思いまして、それであらためて寄稿依頼をしまして、今回のご寄稿に繋がったのでした。



寄稿作〈ブルーな音楽の地平──ダニエル・シーザー、カサンドラ・ウィルソン、ジョニ・ミッチェル、ときどきネオソウル〉は筆者が好んで聞いてきた音楽の共通点を「ブルー」という感覚(成分!?)で括り直したエッセイ、とでも説明すれば良いのかな? ここで矢野さんが「ブルー」だと感じている音楽とは、もう少し具体的には〝ソウルシンガーによるアコースティックな音楽〟とも言い換えられていますが、でも、それでも、ご自身基点でその地平を眺めてみると食み出すものや零れるものがあるわけで...結局、〝だから極端に言えば、国や人種にかぎらず誰かがパーソナルな心情を歌のかたちにするにあたってフォークソングという形式が選ばれている、という気がする〟という一文が、筆者に「ブルー」を感じさせる音楽の勘所なのではないか、と。

ちなみに矢野さんが名付けたところの「ブルーな音楽」ですが、私もかなり好きな分野でありまして、本作に名前の挙がらなかった、たとえばフィービー・スノウやシェリー・ブラウン、もう少し的を広げると、たとえばプリンスの「Sometimes It Snows In April」なんかもだいぶ青いのではないか、なんて思いながら拝読しましたが...既存の音楽ジャンルに囚われずに自分の好きな音楽の共通項を探してみるのは、とっても楽しい。みなさま、ぜひ小誌を手に取って、矢野さんが「ブルー」だと感じるミュージシャンとの、素敵な出会いを!


ウィッチンケア第16号(Witchenkare VOL.16)発行日:2026年4月1日
出版者(not「社」):yoichijerry(よいちじぇりーは発行人の屋号)
A5 判:272ページ/定価(本体2,000円+税)ISBN:978-4-8-6538-180-1 C0095 ¥2000E


 1990年代後半、モータウンのキダー・マッセンバーグによって仕掛けられたネオソウルというムーヴメントは〝ヒップホップ世代によるソウルミュージック〞と喧伝されていたが、それとはまた別に、同時期、R&Bをフォーク風に表現する潮流があった。それらの音楽は、ルーツであるブルースに敬意を払いながらも、デルタ・ブルースの粘っこさからは距離を取り、むしろ白人的とも言われそうなフォークソングのフィーリングを大事にしていた。さらに言うと、同時期、そのような感覚からテリー・キャリアーやリンダ・ルイス、あるいは、ブッカー・T「Jamaica Song」など70年代の音楽が再評価されていた。
 1990年代後半に音楽に興味をもち始めた自分の音楽の好みは、少なからずこの潮流によって形成されているような気がする。僕の見ていた1990年代後半の風景は、インディア・アリー、デズリー、エンダンビなどのアコースティックで爽やかなR&Bアーティストがいて、そのわきにエリカ・バドゥやローリン・ヒルがいて、さらにそのわきにディアンジェロやミシェル・ンデゲオチェロがいた、という感じである。


~ウィッチンケア第16号掲載〈ブルーな音楽の地平──ダニエル・シーザー、カサンドラ・ウィルソン、ジョニ・ミッチェル、ときどきネオソウル〉より引用~

矢野利裕さん小誌バックナンバー掲載作品:〈詩的教育論(いとうせいこうに対する疑念から)〉(第7号)/〈先生するからだ論〉(第8号)/〈学校ポップスの誕生──アンジェラ・アキ以後を生きるわたしたち〉(第9号)/〈本当に分からなかったです。──発達障害と国語教育をめぐって〉(第10号))/〈資本主義リアリズムとコロナ禍の教育〉(第11号)/〈時代遅れの自意識〉第12号〈3年ぶりの合唱──『学校するからだ』のアナザーストーリーとして〉(第13号)

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