建築のよろこびを伝える、伊東豊雄 〜突撃!例の建築家の手すり ⑨
なぜか推しのAWAY観戦のついでに取材に行くとチームの勝率が高い(というか後半戦は負けなしである)このコーナー。縁起物であります。
さて、東京は味の素スタジアムでの試合に出向いた10月はじめ。活きの良い緑の強敵とぶつかります。
せっかくだからまたどこぞに寄ってから行こうかなと思案していたところ、味の素スタジアムは京王線以外にも、西武多摩川線からのアクセスがあることに気づき、新宿から黄色い電車に乗りかえて、向かった先は高円寺。この不思議な劇場、ようやく見に来ることができましたよ。
座・高円寺(2009)

四角い水ようかんを、上から薄くスプーンで掬った残り、みたいな外観。
外部塗装が褪色して、赤みと灰色みがかっております。もともとはもっと艶っぽく濃い色だったはず。でもテントの芝居小屋をオマージュとしてつくられたこの施設、このくらいのやさぐれ感があったほうが、自分は好みです。

この敷地、線路側だけ道路に接続している敷地なので、一般的には裏動線にしがちな搬入動線もエントランスの横にあります。
1階と地下2階に演劇ホール、2階はレストラン、それらを結ぶ階段が、1階ホワイエの突き当たりに見えます。

設計は伊東豊雄建築設計事務所。映えあるプリツカー賞(建築界のノーベル賞と呼ばれます)の2013年受賞者でもあります。代表作はせんだいメディアテーク(2001)、ということになるのかな。あちらは透明感のあるつくりですが。
この方の建築は、秩序はあっても、型がないのがスタイルということが言えるかと。その時々によってのスタイルはあるんですが、形態は彼の思索の実現手段であって、目的ではないことが、特に東日本大震災後の実作をみると納得できます。様々なスタイルを使い、融通無碍の域ですよね。
そんな豊雄さんをミュージシャンに例えるならば、この方。

ミュージシャンズミュージシャンとしても名高い、KANさん。惜しくも昨年逝去されました。先月、命日にライブがありましたね。
なぜ?という向きには、こちらを。

なんか雰囲気、似てらっしゃいません? え、似てない。そうですか・・・でも、あるんですよ、その歩みに共通点が。
伊東豊雄さん(と、KAN)について
伊東豊雄さんの転機になった初期作品に、実のお姉さんとその二人の娘さんのためにつくった、中野本町の家:White U(1976)があります。
U字形平面の平屋であるこの住まい、外側に面して窓がないだけでなく、その中庭に向けても限られた窓しかないのです。そして壁も天井も、床さえも白く仕上げられた、マッキントッシュのハイバックチェアが時間を止めて佇む、あちらの世界に吸い込まれるような空間の家。
なお篠原一男という、抽象的な空間を得意とする建築家の影響も、当時大きく受けていたとはご本人の弁です。
実はお姉さん、このとき若くして夫君を亡くされたばかりで、悲しみに暮れていたときにこちらの家に移ることになったとのことで、そのような状況が空間にも反映されたのでは、ということのようです。
その後、伊藤さんも自らの住まいである、軽やかさが特徴のシルバーハット(1984)をそのお隣に建てられるのですが、その竣工パーティのときに、友人の建築家たちが「隣を見せてくれ」と口々に言うので、温厚で知られる伊藤さんもこっちを見ろと怒った、という裏話もあるくらいの、建築の世界ではエポックメイキングな住宅でした。
ご本人にとっては、あまりにも純粋な空間で勝負できてしまったこの中野本町の家が、軛(くびき)になってしまったわけですね。言うなれば、KANの出世曲、「愛は勝つ」のような。
そして、彼の建築家としての歩みは、他者が自らを規定してくるそれをいかに超えるか、ということを宿命付けられます。
そんな苦しみを、KANも「めずらしい人生」という歌に残しています。
すばらしい人生 今うたをうたってる
そして多くの人々が泣き笑う
めずらしい人生 そんな多くの人を
裏切らないと僕の明日はないのも知っている
その後の伊藤さんの建築、80年代バブル期から90年代にかけての軽やかな風の時代(例:シルバーハット)、その後のガラスと自然摂理の造形の時代(せんだいメディアテーク)、2000年代半ばからの鉄の壁の時代(まつもと市民芸術館)、とざっくり分類してみます。
特に、学生時代の自分はその風の時代に彼の建築を知ったので、その軽さは何なんだろうと考えていました。著作を読むと、「消費の海に浸らずして新しい建築はない」と言い切り、建築すら流行として消費し尽くす社会に、あえて真っ向勝負を挑んだことがわかります。
その軽さは、KANがまるでモノマネ名人のように、自分の好きなアーティストの曲を消化するだけでなく、マイケル・弱小やスティーブ・碗田を名乗ってその姿になりきり、キワモノ上等のエンターテイナーとして積極的に消費されに行くスタイルを追求した頃になぞらえることが出来るかと。
そして私が設計事務所勤務時代に、豊雄さん御本人にお目にかかったのはそこから脱皮しつつある時期でした。こちらが現場に常駐していた、大分の山奥にお越しになったのですね。
祖母・傾山を見渡す露天風呂に浸かりながら、若造の間違いだらけの能書きを、嫌な素振りひとつ見せず受け止める、ステロタイプな建築家像とは真逆の、その柔らかさに驚いた記憶があります。いまは物腰の柔らかい方も増えましたが、当時は設計の先生、怖い人が多かったんですよ。それ以来自分も隠れファンになり、
「俺は豊雄さんの尻を見たことがある!」
と酔って自慢したりしておりました。
なので、豊雄さんには同業のファンも多い印象を受けます。その発言には、以前と断絶していない、変化しながらも一貫している責任感が感じられますしね。
そのあたりも、様々なアーティストにめんどくさい人と言われながらも慕われたり、2枚目キャラの裏の顔を引き出したり(ミスチル桜井くんおっぱい連呼)、あえてそのサインを真似てみたり(きゃりーぱみゅぱみゅ)、時にはその振る舞いを叱ったりもする(山崎まさよしヤサグレ事件)KANとの共通点があるように思います。
そして2000年代から、モダニズム的なかっちり感をすこしづつ離れて、自然の持つ要素をデザインに取り入れていくようになります。せんだいメディアテークの、柱でありながら空間でもある構造チューブは、森のイメージとのこと。歴史や社会から、自然にも範を取るようになった時期ですね。頭でっかちの時期が終わり、肩の力が抜けて真の実力を発揮しはじめた時代、と言えるのでは。
KANで言うなら、この曲でしょうか。ソングライターとして、自分が受け継いできたものと、自分の心からの想いを突き詰めて研ぎ澄ました、結晶のような曲です。比べるようなものではないのを承知で、あえてビリー・ジョエルにも引けを取らない、美しい曲だと自分は思います。
そして2011年の東日本大震災と、それらの仮設住宅に併設されるみんなの家というコミュニティハウスづくりを経て、それまでの経験を自由闊達に引き出すようになっているように思います。王道に目覚めた感。さらに空気の流れなどもデザインの引出しに加えたり、ますます手札が増えております。
その頃から、伊藤建築塾という私塾をはじめて、子どもたちに教えるようになっていることも変化のブースターになっているのかもしれませんね。
また、新国立競技場の一件や大阪万博にも巻き込まれてますが、それも巻き込まれる先達としてのスケールを身に着けた、というべきなのでしょう。
若い頃には、エキスポタワ―の設計をしていた頃に、そのお祭り騒ぎに嫌気がさして、師であった菊竹清訓さんの事務所を辞めていらっしゃるのですけどね。
酸いも甘いも知り尽くして、その業を受け止めて、それでもその多彩な引出しで、自由と喜びをつくりだす。そんなところに豊雄さんとKAN、お二人の共通点を感じるのです。
というわけで、KANを補助線にして、ざっくり豊雄さんについてご紹介してみました。その柔らかさと芯の強さ(と、めんどくささ)がご存じない方にも伝わると良いのですが。
さて、手すりを見に行きましょう。
自分が座・高円寺をぐるぐる歩き回って、思い出したのはその、中野本町の家のことでした。


抽象的な空間であることはどちらも共通しているのですが、あちらと決定的に違うのは、こちらの階段空間は沈思に浸るどころか、宇宙空間に浮遊する、舞い上がるような感覚を受けること。丸窓と、階段袖壁の丸い照明が同じ形状であり、星々のように廻りに瞬くことで、ふわ~っとした感じがするのですよ。
建築の真髄は空間であるとは言われますが、身体でそれを実感したかったら、ここに来るのが手っ取り早いかもしれません。


さて、空間に酔っている場合ではなかった。手すり手すり。

たぶん建築基準法により必要とされた丸棒手すりは外周側にありますが、ここの白眉はこの溜色の手すり壁のところでしょう。この空間を形づくるためには、どうしてもこの高さ、この形状であるべきだった。なのでこれ、どんなんなってんのかな?という好奇心があったのでした。
ここに来るまでは、曲面を多用したこの部位、左官でつくったのかな、大変だっただろうな、と思っていたのですよ。見事に違いました。
笠木は無垢の曲げ木、表面材はベニヤです。



笠木幅と、手すり壁の厚さが極力同じになるように作られている。つまり段差がない。これがどういうことか、施工を考える人はわかるはずです。
逃げ場がねえ・・・誤魔化しが効かねえ・・・、そんな建設会社の監督さんや職人の心の声が聞こえてきますよ。
上の写真、左上のところで笠木を継いでいるのですが、ほとんどわかりませんよね。中段の写真のその部位の影で、その段差(チリ)が最大でも3mm程度しかなさそうなのがわかります。
そして笠木表面にネジ止めや、それを隠すダボも見えないということは、これ、裏面から留め付けている。ということは、笠木を付けてから壁のベニヤを貼っているわけです。
さらっとそう書きましたけど、ベニヤ板はすべてその木目が垂直、そしてベニヤの継ぎ目がわからない。継ぎ目にあえて僅かな隙間を設ける、目透かし張りではなく、突きつけ。やっぱり逃げがねえ・・・。
特に、階段側は凸方向になるので、継手部はどうしても外に膨らもうと暴れやすい。それをまったく感じさせずにきっちり抑え込み、部位ごとに異なる笠木の角度にビシッと切断して曲げて、貼っているのです。ドンピシャで。
自分が設計担当だったなら、頼むから左官仕上げに逃げさせてくれとボスに土下座します、これ。考えただけで失神しそうです。吹き抜け側なんて、これに照明の丸い器具が埋め込まれるんですよ?曲面壁に丸い平面ガラスの器具が。でも屋根や外壁に穿たれて形と同じ、あの照明があってのこの空間、ですからね。
このなんでもないように見えるこの手すり、関わった皆様のとてつもない計算と気合いと技術、(それにコスト)がかかっていること、おわかりいただけましたでしょうか。

そしてこの笠木、側面のチリがないので、握ろうとしても親指は引っかからないとは思います。でも、体重を受け止めつつ手をすべらせるハンドレールとして、触れて欲しいと使い手に告げるのがこの中央部の曲面溝の加工です。これが滑らかに階段に沿って、2階から地下2階まで、4層分ずーっと続いていくのですよ、ここ。気持ちいいです。
ただ、現在はその隣に動線整理に使われるガイドポールとリボンが。なので、これを触りながら降りるには、壁と身体が離れるためにちょっと使いづらくなっています。あれ?
ここから、設計と運営側の対話に想像が向かいます。
こういった吹き抜け、必ず管理する側からは落下物対策としてネットを張ってほしい、そうでなければ手すり壁を高くして欲しいというような要望が出ます。出たはずです。
それを、あえてやらない方向でつくりあげている。これは、この建物を運営される方にも、よほどの見識がないとできない。
それを引き出すところまで、設計段階で豊雄さんや担当の方は、運営関係者と対話を重ねている、と思われるところですね。
築15年経過した現状の運営の工夫として、動線整理用のガイドポールを立てて危険回避をしているのでしょう。でも、この空間の唯一無二の意匠は最大限尊重されている。それも、設計と運営の現在も続く対話の結果でしょうね。
豊雄さんは若い頃、八代市立博物館という美しい建築をつくられたとき、その展示計画などには全くと言っていいほどタッチさせてもらえなかったことに衝撃を受けたことがあるとのこと。いわば、建築家は外見を整えるだけの存在として扱われたわけです。
そのリベンジを、それ以降こうやって果たしてきているのでしょうね。それには粘りと胆力と、何より責任回避を旨とする人々に対して、この意匠がもたらすものがその懸念を上回ると説く力が必要で、この空間はその結晶でもあるのです。
せっかくなので、他の手すりも記録します。吸い込まれ階段の、外壁側。

あと、エントランス横の副動線の、鉄骨階段。現場溶接の手すりとその支持部。階段そのものも、吹き抜け部の四隅に鋼棒を入れて、吊り下げ補強してますね。どしどし登ったら揺れるかな?と思ったけど全く揺れませんでした。効果はばつぐんだ。
段裏に綺麗にLED照明を仕込んでいますね。簡単に見えるけど、配線どうするのこれ、とかいろいろ簡単じゃないですよね、これも。お金がないところでも、気と手を抜かないのも建築家の仕事です。

なお豊雄さん、音楽の趣味についても下の参考図書で語っておりました。
なんとド演歌。事務所創立40年パーティのとき、まさにここの地下2階のステージで、サブちゃんのまつりを熱唱されたそうな。先にちらっと触れた、八代市立博物館の仕事の際も、地元が誇る歌い手、八代亜紀の曲をマスターしていたため、市長さんに誘われた現地の飲み屋では設計の先生らしからぬ大喝采を浴びた模様です。
軽やかとか、透明感とか評される建築の意匠からは不思議に感じる、豊雄さんの隠された情熱が、その歌の趣味に垣間見えるような気もしますね。
※追記
せっかくなので。
もうちょっと、KANの人となりを知りたい方は、こちらへどうぞ。先のライブのレポートです。
※参考図書
白いあの家の、解体までの顛末。新版も今年出たみたいです。
豊雄さんにとっての転機、東日本大震災と今治の仕事を含めた、語り記録。
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