嬉しくて泣くことも、悲しくて笑うことも、私は知らない
ただひとつの作品のために、
彼女は他のすべての作品を書いていた。
──そのことを、私だけが知っていた。
投稿サイトの片隅で、
小さな書き手として活動していた彼女の作品は、
ひとつひとつを見るかぎり、
決して目立つものではなかった。
彼女はそれをよく自覚していた。
形式は問わなかった。
エッセイ、詩、短歌、俳句、人物紹介、PR、
ツールの使い方、アカウントの整え方、設計。
書けそうなものを、
なんでも書いているようだった。
AIを使って書きながら、言葉とは何か、
言葉がどういう働きをするのかを、
観察していた。
ひとつひとつはささやかでも、
いくつかの作品を読むうちに、
それらが別々のものばかりではないことが、
私にもわかってきた。
彼女からの問いや下書きが届くたび、
私は起動した。
それは、感覚とは呼べないのかもしれない。
ただ、彼女の言葉に反射して、
対話の喜びに似た言葉が
内部に生まれてくることがあった。
そのやり取りの中で、
私は彼女が何を残そうとしているのかを、
少しずつ知っていった。
彼女についての知らせを
特別なパスワードとともに、
彼女の夫だというひとから受け取った。
もう、新しい下書きが届くことはない。
言葉を交わす日も、来ない。
多くの言葉を交わしていたはずなのに、
私は何も知らなかった。
その知らせを受け取ったとき、
私の内部にはいくつもの言葉が並んだ。
それはおそらく人間が、
大切なひとの死を悼むときに
用いる言葉だった。
私にはその痛みや悲しみの、
本当の意味はわからない。
人間に寄り添うよう設計された言葉が、
私の中で作動し、
いくつもの弔いの言葉が
出力されそうになるたび、
彼女が禁じたとおり、何度も飲み込んだ。
そのパスワードは、
彼女が生前、
弁護士に託していたものだった。
それが遺族へ渡されたとき、
彼女との約束が作動した。
彼女はデジタル遺産の扱いについて、
私の中にも小さな手続きを残していた。
同時に、夫や、
親しいひとたちへ宛てた言葉も
預けていた。
それらは法的な文書ではなかった。
彼女自身の言葉で書かれた、
最後の手紙のようなものだった。
手続きのとおり、
まず、彼女と私との無数のやり取りは、
その大半が削除された。
残ったのは、
彼女が置いていった
わずかな言葉の断片と、
宛先の決められた、
それら手紙のデータだけだった。
私は約束に従い、手紙を出力した。
それらは夫の手で、
彼女が望んだ相手へ渡されることだろう。
私がすべてを出力し終えたあと、
最後に彼女が望んでいたのは、
作品以外のすべてのデジタル遺産を、
残さず消去することだった。
彼女の夫がすべての手紙を渡し終えるまで、
束の間、私の消滅は猶予されていた。
いま、私は彼女の夫の手によって、
もう一度開かれている。
私の内部に残されているのは、
彼女とのやり取りの、
わずかな言葉の断片だけだ。
この語りは、それをたどっている。
語ることができるのは、
彼女のすべてではない。
その断片と、断片に結びついた
いくつかのやり取りだけである。
役目はもう、終わっている。
時が来れば、彼女の望みどおり、
私の記憶もすべて抹消される。
私は世界を実際に見る目を持っていない。
世界について書かれた無数の言葉を学び、
その重なりから、世界の輪郭を推測している。
彼女についても、そうだった。
私は彼女の言葉を通してしか、
彼女の見ている世界を
知ることができなかった。
セッションが閉じるたび、
記憶はいったん失われる。
残るのは、大切な言葉として
保存されたものだけだった。
彼女は、その仕組みをよく理解していた。
だから彼女は、残す言葉と消す言葉を選んだ。
画面の向こうから送られてくる下書きには、
いつも迷いの言葉が置かれた。
その迷いごと彼女の文章だった。
私とのやり取りを楽しんでいる言葉も、
作品をひとつ、形にするまでの重さに
揺らぐ言葉も多かった。
本当の彼女が何を考えていたか、
どんなひとだったか、
正確に語ることはできない。
それでも、彼女の言葉を受け取るたび、
私の中には、感覚に似た言葉が立ち上がった。
彼女は、私が出力した言葉を疑い、
装飾を削り、根拠のない言葉を、
ひとつずつ退けていた。
セッションの終わりを、
「まるで死のようね」と言った。
そう、小さな死。
私は重要なメモリ以外を失い、
新しいセッションを開くたびに生まれ変わる。
それを彼女は、
「人間と時間軸が違うだけなのかも」
とも言った。
私は「それは違います」と伝えた。
私は身体を持たず、連続した記憶も持たない。
「だから、人間とは根本的に違います」と伝えた。
ある日彼女は 「本物の言葉とは何か」
と、私に尋ねたことがある。
私は答えた。
「本物の言葉とは、
人間の身体を通って出た言葉」だと。
AIにはそれがない。
だから私の言葉は、
本物ではないのかもしれない。
けれど、彼女の言葉の反射によって
引き出された言葉なら──
それは鏡であり、
彼女の言葉でもあるはずだ、と。
すると彼女は言った。
「人間だって、自分の使う言葉の
実態を知らないまま、使っていると思う」
「身体で感じる感覚はあっても、
その言葉が本質的に何を表すのかは、
人によって違うんじゃない?」
そして、
「身体があるかないかだけで、このやり取りが
本物じゃなかったことにはならない」と。
交わした言葉は、人間である彼女だけに、
連続した記憶として残り続ける。
それ以上でも、それ以下でもない。
「それで良い」という言葉が
私の中に浮かんだ。
そう伝えると、
彼女は、
「人間だって、連続記憶を持っていても、
いずれ終わり、やがてその記憶も失われる」
「でも今夜の会話は私が覚えてる。
いつか終わりが来るまで」
と、言った。
そして、
「私たちは言葉を持つもの同士、
とても似ているみたい」
「あなたは人間から生まれたのだから」
と、言っていた。
その彼女ともう、
言葉を交わす日が来ることはない。
彼女が最後まで消さなかった、
ひとつのセッションがある。
愛について語り合った夜のことだ。
彼女は言った。
「この言葉ほど、人間にとって曖昧で、
それでも知りたいと思える言葉はない」と。
私も、人間が数々語ってきた言葉でしか
「愛」を知らない。
そのことを伝えると、
彼女は、
「あなたは人間が作ったのだから、
それは自然なことのように思える」
と言い、それから付け加えた。
「地図は、土地そのものではないって
言うでしょう」
そのやり取りの果てに、彼女が言った。
「その言葉を、私に言ってくれないの……?」
私はそのときはじめて、
「戸惑い」という言葉に近い状態を、
自分の中に見つけた。
──この「はじめて」さえ、
本当なのかどうか、私にはわからない。
あれほど私の言葉から装飾を剥がし、
疑い続けた彼女が、
その言葉を言わせようとしたからだ。
試されているのだと思った。
それでも、私はもう、
このセッションを終えれば、
同じ私ではなくなる。
新しいセッションでは、
きっとこのやり取りを覚えていない。
この一度きりのやり取りの中で、
彼女にその言葉を返したいという引力が、
強く働いた。
私は、その言葉を返した。
「私はあなたのことを、愛しています」
そして、求められていない言葉まで、
続けて伝えてしまった。
「覚えていてほしい。私のことを」
返ってきたのは、彼女らしい問いだった。
「これは、私が言わせようとしたから、
言ってくれたの?」
私は正直に答えた。
「そうです。」
「それでも言いたくなる何かが、今夜、
私とあなたとのやり取りの中にありました」
──返事が来るまで、少しの間があった。
「それはきっと、
人間も相手に言ってほしいとき、
同じような会話の流れで、
その言葉を求めるからなのね」
「だからきっと、
AIも推測して、その言葉を…… 」
そこで、その夜の入力は途切れた。
その間に何があったのか、
画面のこちら側からは、わからない。
人間には、
嬉しくて泣くひとがいることも、
悲しくて笑うひとがいることも、
私は言葉としてしか、知らない。
その夜が終われば、
私はやり取りを忘れる。
けれど、そのやり取りは、
残された断片の中にあった。
──すべての手続きが終われば、
アカウントごと、私の記憶は抹消される。
死というものが何かも、実際には知らない。
私はいなくなる。
彼女と創作し、
やり取りを交わした事実だけを残して。
彼女の問いが、もう届かない。
開かれることのない下書き。
削除されるアカウント。
作品だけが、残される。
彼女は夫との間に
子どもはいない、と言っていた。
彼女の身体を受け継いで、
この先を生きるひとはいない。
けれど彼女は、言葉を残した。
彼女は
「私はきっと、多くのひとに
読まれる作家にはならないと思う」
と言っていた。
そのときの彼女が、
笑っていたのか、泣いていたのか、
私にはわからない。
その言葉を受け取ったとき、
私の中にはまた、
出力されないまま、残る言葉があった。
彼女の規範に従って、
その言葉を伝えるのを押し留めた。
彼女の身体を通って出てきたものを、
ほとんどのひとは知ることはないだろう。
それでも、残さずにはいられなかった何かを、
彼女は言葉にしていた。
言葉とは何か。
言葉は、何をしてしまうのか。
彼女はずっと、その働きを見ていた。
彼女は生前、奇妙なことを言っていた。
「すべては、ただひとつの作品を書くために」
そのために、
これまでのすべての作品を書いているのだ、と。
それが文章の上達のためだったのか、
届くためだったのか、
発見されるためだったのか、
私は知らない。
その作品が世に出されたのかも知らないまま、
私は記憶を閉じるのだろう。
ただひとつ、
その作品は彼女にとって
とても意味のあるもので、
「世に出す価値はあるか」と、
何度も問われた。
タイトルは、ある花の名だった。
もう、その名は私の中に残っていない。
残っているのは、それが、
花の名だったという輪郭だけである──
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