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このカラダと、生きていく


_私のカラダは私のものだと思っていた

私は30年と少し、このカラダで生きてきた。
好き勝手に食べ、眠り、働く。
20代の頃と比べるとパフォーマンスは落ちるものの、思うように体は動くし、多少の不調もどうにかできた。
そうやって私は、自分の身体を「自分の支配下にあるもの」として扱ってきた。


_不妊治療で問題が見つかる
けれど、その思い込みは、不妊治療の検査であっけなく崩れた。

私たち夫婦は結婚して3年が過ぎても、なかなか授からなかった。
もしかしたら何か問題があるのではないかと、ある日恐る恐る、卵管造影検査をうけた。

結果は、右の卵管が閉塞、左は狭窄。
妊娠しにくい状態だと告げられた。

「まさか、私が…」なんて、
テレビ番組の再現VTRでしか聞いたことがなかったような台詞が、そのまま頭に浮かんだ。

自分の身体の不備や問題を、目の前に突き出されているようで、気が滅入った。
とたんに、自分のカラダが自分のものではないような、正体不明の何者かのように感じられて怖かった。


_漠然とした不安と迷い
子どもは好きだし、自分も当たり前に子どもを持つものだと思ってきた。

だがそれと同時に、
自分のような人間が、子どもを産んでいいのだろうか。
そんな漠然とした不安感もあった。

子供の頃から、生きにくさを感じてきたからだ。
ひょうきんで勝気な顔をした、すごくナイーブな子どもだった。
「生まれてきてすみません」と思うこともあった。

でも、それが本当に、物理的に産むことが難しい体だったなんて。
皮肉な話だ。

このカラダの形を無理矢理変えて、人工的に子供を産み出すことは、自然に逆らうことのようにも感じられた。それも、少し怖かった。

それでも_

あらゆる不安と恐怖を持ちながら、卵管を拡張する手術を受けることにした。

自分のカラダの真実を知ったからこそ、覚悟ができたのだ。


_自分のカラダに対する想い
私が私のカラダを支配しているなんて、なんて不遜なことを思って生きていたのだろう。

身体は私の所有物ではない。

この身体の性質や癖や不完全さ、そのすべてが私を私たらしめている。

このカラダを持って産まれてきたからこそ、私は今、こうして生きている。
あれこれ思い悩み、ジタバタともがきながら。

私はこの不完全なカラダとともに、これからも生きていく。

そしていつか、
私というひとつの命が、新しい命に出会う日がくるなら、その奇跡を静かに喜びたいと思う。

自分のカラダと向き合って、いま。
私は私によく似るであろう、その人にとても会いたい。
どんな姿かたちでも、それがとても素敵なんだと、今なら心から言ってあげられる。



詩歌とエッセイ
日常のなかで消えてしまいそうになる
感情を切りとって言葉にしていきます。


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