クセナキスを巡っての11の断章(7)
7.
夢。
人間的限界を超えた知性に辿り着こうとする。無神論的苦行。
けれどもこれは何と理想主義的なことか。アプローチの違い(これは本質的なことだが)をおけば、その姿勢はヴェーベルンのNomosに対する考えに近づく。ヴェーベルンがNomosと思ったものは実は自分の背中だったというのはありうる事だ。
ではクセナキスの企てはどうだったのか?企ては明確だ。作曲の主体のスタンスもそうかも知れない。操作そのものも(或る種の公理主義的姿勢もヴェーベルンとクセナキスで共通するか、、、)明らかになっている。だが、その結果のほうはさほど明らかではないのではないか?勿論、理論も方法論も、結果を保証しているわけではないのは常に同じだ。
クセナキスは進化論を採用している。ユダヤ・キリスト教的な神はそこにはいない。(こうした「世界観」が音楽から聴き取れるように感じられるのは、思えば不思議なことだ。日本人にとっての、西欧の伝統的な音楽に比べた場合のクセナキスの「わかりやすさ」の恐らくは一因だろう。)そこには人間しかいない。だがそれは、いわゆるヒューマニズムではない。そこでの人間は、ロマン主義の終焉の後の音楽に相応しく、ほとんど客観の暴力に対して無力なようだ。
クセナキスの音楽は人間であることへの相対化を含む。ヴェーベルンの後期も確かに(ただし気づかずに)そちらへと近づいていったに違いない。ある探求の姿勢において、両者には共通のものがある。個性が全く異なるにも関わらず。
たが誰も、クセナキス程音を人間から引き離しはしない。ヴェーベルンのも武満のも、結局、人間が観照し、夢想する自然なのであって、アドルノが原史に想定する野蛮としての自然ではない。クセナキスの音はそうした疎外を、人間をおもちゃとしてしか見ない残酷な神を思わせる。(プラトンの「ノモス」の意識的誤読、曲解。だが、本当にそれは誤読だろうか。プラトンの言葉には人間の限界についての、無力さについてのあきらめの様なものがないか。)そうした非情さは、時と場合によってはなぐさめになる事もある、、、(クセナキスを「汎神論者」と呼ぶのは、だから適当ではないのだ。寧ろ、彼自身の言葉に従って、しかもそれを日本ではなく、西欧において表明する場合の意味合い―それは当時もそうだったろうし、今日においてさえなお、日本においてとは異なる―「無神論者」と呼ぶべきなのだ。こうした混同は控えめに言っても誤解を招くものだし、クセナキス自身の哲学的な混乱とは独立の問題で、それを担保に許容される性質のものではないだろう。)
クセナキスの音楽は、或る種の現実認識を告げているように思える。一方では科学による現実の変革の可能性を信じながら、同時に、人間の限界を認識するその姿勢は、音楽のたち現れ方にはっきりと刻印されている。遺伝子操作の可能性に言及しはしても、個体の限界が忘れ去られることはない。そして、こういったレベルでの同時代性は、クセナキスの「わかりやすさ」の一因になっているのだろう。
(2005.4--2007.6, 2007.6.13未定稿のまま公開, 7.7改稿、2008.10.7, 10, 2009.2.28加筆, 2024.12.15 加筆・編集, 2025.1.11 noteにて公開)
