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備忘:マーラーの作品を分析するとはどういうことか?(2024)(1)

 これまで様々な角度から、様々な手法でマーラーの作品について分析を試みてきたが、そもそも自分が何を目指して、何をしているのかについて、改めて整理をしてみることにする。予め先回りしてお断りしておくならば、それは既に実際に達成できる水準を以て測ろうというのではなく、あくまでも、実際の達成がその目標からは程遠く、千里の道程の最初の一歩に過ぎないとしても、到達すべき目標は何かを再確認することが目的である。

 分析をするきっかけをシンプルに言えば、それは対象に強く惹き付けられたからで、この場合の対象はマーラーが作曲した具体的なあれこれの作品という人工物である。端的な言い方をすれば、自分が魅了されたのは、その作品の持つどういう特徴によるのか、そして翻って、このような作品を創り出した人間とはどのような人間なのか、どのようなやり方でこのような作品を生み出したのかを知りたいと思ったというのが出発点となるだろう。

 ところで作品とは一体何だろう。それを考える上で、マーラーに関連する脈絡で2つの参照先が思い浮かぶ。一つは「作品」は「抜け殻」に過ぎないというマーラー自身の言葉。妻のアルマ宛1909年6月27日の書簡で「作品」についてマーラーはこう語る。

…われわれが後世に残すものは、それがなんであれ、外皮、形骸にすぎない。『マイスタージンガー』、『第九交響曲』、『ファウスト』、これらはすべて脱ぎ捨てられた殻なのだ!根本的にはわれわれの肉体以上のものではない!もちろんそうした芸術的創造が不用な行為だというわけではない。それは人間に成長と歓喜をもたらすために欠かすことのできないものだ。とくにこの歓喜こそは、健康と創造力の証(あかし)なのだ。…

アルマの「回想と手紙」原書1971年版p.356, 白水社版酒田健一訳p.398

 「抜け殻」とは言っても、「不用な行為」ではないのは、それが「人間に成長と歓喜をもたらすために欠かすことのできないもの」だから、という。マーラーが創造した作品の聴き手、受け取り手である私はつい、それを受け手の問題であると決めつけてしまうが、それが「健康と創造力の証(あかし)」であるとするならば、その歓喜は、第一義的には作り手であるマーラーその人の「創る喜び」とする方が寧ろ妥当なのかも知れない。勿論、聴き手は単にそれを受動的に受け取るだけではなく、それに触発されることで成長し、喜びを感じる…というように考えることもできるだろう。

 その一方で「抜け殻」であるというからには、それはそれを作り出した人間そのものではないにせよ、その「痕跡」であるという見方も導かれうるだろう。そこで思う浮かぶもう一つの参照先は、シュトックハウゼンが、アンリ・ルイ・ド・ラグランジュのマーラー伝に寄せた文章の以下のような件である。

もしある別の星に住む高等生物が地球人の性質をごく短期日のうちに調査しようと思うなら、マーラーの音楽を素通りするわけにはゆかないだろう。もっと幅のせまい音楽ならば――あらゆる情緒的世界において――どこででも聴くことができるだろう。たとえば雅楽、バリ島の音楽、グレゴリオ聖歌、バッハ、モーツァルト、ヴェーベルンの音楽などがそうである。こうした音楽は、《より純粋》で晴朗だといえるかもしれない。しかし地球人の特質、その情熱の――もっとも天使的なものから、もっとも獣的なものにいたるまでの――全スペクトル、地球人をこの大地に縛りつけ、そして宇宙の他の領界についてはただ夢みることしか彼に許そうとしないところのもの――そうしたすべてを知ろうと思うなら、マーラーの音楽にまさる豊かな情報源はないだろう。
 この書物は、異常なまでに多くの人間的特徴をただ一個の人格のなかで統合し、そしてそれらを音楽という永遠の媒体のなかへ移植することのできたひとりの人間の生涯と音楽についての証言である。その音楽は、人間が人間を個々の部分に分解し、しかもそれらをおそろしく奇怪な変種へと再合成しはじめたようとするまえの、古い、全的な、《一個体としての》人間による最後の音楽である。マーラーの音楽は、おのれ自身がじっさい何者であるのかもはやわからなくなっているすべての人びとにとってひとつの道標となるだろう。

Karlheinz Stockhausen, Mahlers Biographie, ≪Musik und Bildung≫ Heft XI, Schott, 1973, 酒田健一編『マーラー頌』所収, 酒田健一訳, pp.391-2

マーラー自身の言葉を敷衍するならば、シュトックハウゼンは、マーラーの音楽のことを「古い、全的な、《一個体としての》人間」の「抜け殻」であり、それは「ある別の星に住む高等生物が地球人の性質をごく短期日のうちに調査」するために恰好の情報源であると言っている。更に言えば、「ある別の星に住む高等生物」ではないにしても、「人間が人間を個々の部分に分解し、しかもそれらをおそろしく奇怪な変種へと再合成しはじめたようとする」後の時代に生き、「おのれ自身がじっさい何者であるのかもはやわからなくなっている」に違いないこの「私」にすれば、それが少なくとも、その作品を創り出した「人間」に関する情報源であり、自分自身にとっての「道標」であるということになるだろう。シュトックハウゼンが参照する他の様々な音楽との比較の妥当性、是非についてはもしかしたら異議があるにしても――ここで思い浮かぶのは、ド・ラグランジュのマーラー伝刊行後しばらくしてからの1977年に打ち上げられたボイジャー計画の探査機に収められた「ゴールデンレコード」のことで、そこにはガムランやバッハは含まれても、マーラーが取り上げられることはなかったことは書き留めておくべきだろう――、とりわけ、それが人間を「この大地に縛りつけ、そして宇宙の他の領界についてはただ夢みることしか彼に許そうとしないところのもの」についての情報源であるという点については躊躇なく同意したいように感じている。

 ただし、そうした人間の限界というのは人間固有のものであって、それが「ある別の星に住む高等生物」に共有されることは些かも自明なこととは言えまい。(技術的特異点(シンギュラリティ)が絵空事とは言えなくなった今日なら宇宙人の替わりに人工知能を持ってきても良いだろうが、人工知能を道具として、(かつて)「人間」(であったもの)が分析をすることはあっても、人工知能が「主体」の分析というのは、少なくとも現時点では、未だ空想の世界の話に過ぎないだろう。)他方において、シュトックハウゼンの言葉には、自分が帰属する社会の文化的遺物であるマーラーの音楽が、それ以外の社会の「人間」をも代表しうるという暗黙の了解が存在するように思われるが、実際にはそれすら凡そ自明のこととは言えないだろう。とはいえ、一世紀の時間の隔たりと、地球半周分の地理的な隔たりを通り抜けて、マーラーが遺した「抜け殻」は、極東の島の岸辺に辿り着き、そこに住む子供が或る時、ふとそれに気づいて拾い上げ、壜を開けて中に入ったメッセージに耳を傾けた結果、それに強く惹き付けられるということが起きたこともまた事実である。そこに数多の自己中心的な思い込みや誤解が介在していたとしても、その子供はそこに、自分をこの大地に縛りつけ、そして宇宙の他の領界についてはただ夢みることしか許そうとしない、同型のものを見出し、共感し、そこに自らが歩むための「道標」を見出したことは、少なくとも主観的には間違いない事実なのである。或る時マーラーは「音楽」について以下のようにナターリエ・バウアー=レヒナーに語ったようだが、それがこの私の寸法に合わせて如何に矮小化されたものであったとしても、創り手が語った通りのものを、私もまたその音楽に見出したのである。

「音楽は、常にある憧憬を含んでいなくてはならない。それは、この世界の事物を越え出ようとする憧れだ。すでに子供の頃から、音楽は僕にとって何か謎のような、僕を高みに連れていってくれるようなものだった。でも僕は当時、想像力によって、音楽の中になどまったくないような無意味なものまで、そこに押し込んだのだ。」

ナターリエ・バウアー=レヒナーの回想録(1984年版原書p.138, 1923年版原書p.119, 邦訳『グスタフ・マーラーの思い出』, 高野茂訳, 音楽之友社, pp.301-2

 そして彼がそこに見出したのは、単なる耳の娯楽、美しく快い音響の系列ではない。これまたシュトックハウゼンが指摘している通り、その音楽は極めて幅の広いスペクトルを有しており、時として醜さや耳障りな音すら敢えて避けることはなく、寧ろそれは作品を創り出した人間が認識した「世界」の複雑さ、多様性の反映なのである。更に言えばそれは、標題音楽、描写音楽の類ではなく、寧ろ、(ネルソン・グッドマン的な意味合いで)「世界制作」の方法であり、その音楽をふとした偶然で耳にして魅惑された子供は、その音楽を通じて、「世界」の認識の方法を学んだというべきなのだろう。第3交響曲作曲当時のマーラーの以下の言葉はあまりに有名だが、それは肥大した自己に溺れたロマン主義的芸術家の誇大妄想などではなく、文字通りに理解されるべきなのだ。

僕にとって交響曲とは、まさしく、使える技術すべてを手段として、ひとつの世界を築き上げることを意味している。常に新しく、変転する内容は、その形式を自ら決定する。この意味から、僕は、自分の表現手段をいつでも絶えず新たに作り出すことができなくてはならない。僕は今、自分が技法を完全に使いこなしている、と主張できると思うのだけれども、それでも事情は変わらない。

ナターリエ・バウアー=レヒナーの回想録:アッター湖畔シュタインバッハ1895年夏の章(原書p.19, 邦訳『グスタフ・マーラーの思い出』, 高野茂訳, 音楽之友社, p.62

 それは彼が認識した世界の構造を反映していると同時に、彼の認識の様態をも反映している。第3交響曲に後付けされた挙句、最後には放棄された素朴な標題が告げているように、作曲者はそこでは寧ろ世界「が語ること」に耳を傾け、自らが楽器となって世界が語ることを証言する、いわば霊媒=媒体の役割を果たすことになる。同じ時期にアンナ・フォン・ミルデンブルク宛の書簡に記した以下のマーラーの言葉は、そのことを雄弁すぎる程までに証言している。

さていま考えてもらいたいが、そのなかではじっさい全世界を映し出すような大作なのだよ、――人は、言ってみれば、宇宙を奏でる楽器なのだ、(…)このような瞬間には僕ももはや僕のものではないのだ。(…)森羅万象がその中で声を得て、深い秘密を語るが、これは夢の中でしか予感できないようなものなのだ!君だから言うが、自分自身が空恐ろしくなってくるようなところがいくつかあって、まるでそれはまったく自分で作ったものではないような想いがする。――すべては僕が目論んだままにもうすっかり出来上がっているのを僕は受け取るばかりだったのだから。」

1896年6月18日付アンナ・フォン・ミルデンブルク宛書簡に出てくる作品創作に関するマーラーの言葉(1924年版書簡集原書153番, pp.162-3。1979年版のマルトナーによる英語版では174番, p.190, 1996年版書簡集に基づく邦訳:ヘルタ・ブラウコップフ編『マーラー書簡集』, 須永恒雄訳, 法政大学出版局, 2008 では180番(1896年6月28日付と推定), pp.173-4

 それでは一体、そうした作品を分析するとき、私は何をそこに見出そうとしているのか?なぜ演奏を聴くだけで事足れりとはせず、楽譜を調べ、楽曲分析を参照し、或いは自作のプログラムを用意して、MIDIデータを用いたデータ分析を行うのか?

 対比のために、耳に心地よい音響の系列の分析を考えてみると、この場合の分析の目的とは、なぜそれが耳に快いのかを突きとめることになるだろうか。西欧の音楽であればバロック期の作品や古典期の作品の多くは(勿論、モーツァルトの晩年の作品のような、私にとっては例外と感じられる作品はあるけれども)、そうした捉え方の延長線上で考えることができるだろう。或いはまた蓄積された修辞法(クラングレーデ)に基づく風景や物語の描写、或いは劇的なプロットの音楽化から始まって、ロマン派以降の作品のように、情緒的な心の動きや繊細な気分の移ろいや感覚の揺らめき、雰囲気の描写を行うような音楽もあり、そうした音楽にはその特質に応じてそれぞれ固有の分析の仕方があるだろう。では上記のようにシュトックハウゼンが規定し、創り手たるマーラーその人が語るようなタイプの作品についてはどうだろうか?

 端的な言い方をすれば、所詮は音響の系列に過ぎないものが、どうしてそれを創り出し、或いは演奏し、聴取する「人間」についての情報源たりえるのか?どうしてそれが「一つの世界」の写し絵たりうるのか?「世界」の認識の仕方の反映たりうるのか?ということになるだろうか。それは(勿論、一部はそうしたものを利用することはあっても)特定の修辞法に基づく描写ではないし、主観的な情緒や印象の音楽化に終始することもない。そうした事情を以て、人はしばしばマーラーの音楽を「哲学的」と呼んだりもするが、それが漠然とした雰囲気を示すだけの形容、単なる修辞の類でなく、少しでも実質を伴ったものであるとしたならば、一体、単なる音響の系列が、どのような特徴を備えていれば「哲学的」たりうるのか?

 上記の問いは修辞的、反語的なものではない。つまり実際には「哲学的」な音楽など形容矛盾であり、端的に不可能であって、「哲学的」な何かは音楽に外部から押し付けられたものであると考えている訳ではない。それどころか、私がマーラーの音楽に魅了された子供の頃以来、その音楽には「哲学的」と形容するのが必ずしも不当とは言えないような何かが備わっていると感じて来たし、今なおその感じは変わることなく続いているのである。そしてそれを「哲学的」と形容すること是非はおいて、マーラーの音楽には、それを生み出した「人間」の心の構造を反映した、或る種の構造が備わっているのではないかと考え、そうした構造を備えている音楽を「意識の音楽」と名付けて、その具体的な実質について少しでも理解しようと努めてきたのであった。勿論、マーラーの音楽だけが「意識の音楽」ではないだろうし、マーラーの音楽の全てが同じ程度にそうであるという訳でもなかろうが、私がマーラーの音楽に惹き付けられた理由が、それがそうした構造を備えているからなのではないかという予想を抱き続けてきたのである。

(続く)

(2024.8.16 初稿, 8.21, 28追記, 12.19末尾に追記, 2025.9,5 noteにて公開)

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