クセナキスを巡っての11の断章(9)
9.
他性。
他者(他人ではない)とともにある音楽?
逆説的にクセナキスこそそうだろうか?クセナキスの場合には、端的に暴力に満ちた客観がある。そこには他人(他者ではなく)はいないだろう。それは主観の相関項なのだが、ここでは主観はないのだ(あるいは手前、あるいは向こう側にある)。そこには法則がある。だが、主体は安全ではない。そして(連帯すべき?)他人は、やはり手前、あるいは向こう側にいるのだろう。主体は孤独で、自力で客観の暴力に立ち向かわなければならない。まるでその都度賭けが行われているかのようだ。「世の成り行き」に対する「別の仕方で」の関わりとして、クセナキスを考えることができるだろう。
ヴェーベルン、フランク,、シベリウスは独我論的、武満も独我論的のように思える。マーラーやショスタコーヴィチは両義的だろう。一般に自我の音楽は独我論的だろう。また自我の解消を目指す音楽も。自我と世界との関係の記述であるような音楽においては、関係の破綻が楽曲において、あるレベルでの表現の対象たりうる。破綻は形成自体には起こらない。破綻が形式化されるのだ。カオスや相転移が記述されるように。
だが、クセナキスにおいてはそれは「破綻」ではない。カオスも相転移も実在の「普通の」構造なのだ。印象主義の極北。表現主義の到達点。
(2005.4--2007.6, 2007.6.13未定稿のまま公開, 7.7改稿、2008.10.7, 10, 2009.2.28加筆, 2024.12.15 加筆・編集, 2025.1.15 noteにて公開)
