クセナキスを巡っての11の断章(2)
2.
伝統からの距離。
クセナキスの音楽への接近のし易さ。
技法の次元へのアクセスのし易さが大きな要因だろう。伝統的な音楽については、ときおり外部の人間からすると不自然に感じられないこともない、伝統的な和声学や対位法、楽式論などの技法の次元での知識が要求される。対象の分析の意義とは別に、そうした知識なしには、そもそもそれを評価すること自体ができないのだ。とりわけそれらがむしろ実用的な「規範」としての側面をもっていて、それを外部からみてとりだした規則ではないだけに、自分でそうした「規範」に従って曲を書くことをやってみた人間でなくては分析は困難だろう。外部の人間にとって、技術的な問題というのは、ある意味では常に存在する。
クセナキスの音楽は難解だとしばしば言われるが、実はそれはクセナキスのみに固有ではない。(音楽の聴取上のわかりやすさ、というのは無関係ではないにしても、とりあえずは別の問題だ。)いずれにせよ、どんなものでも外部の人間には近づくことが困難な側面というものが存在する。
だが、クセナキスの場合には、伝統に依拠するものが少ない分、アクセスしやすいとも言える。特にそれが数理に基づいているのであれば。クセナキスは伝統的でない方法論で作曲しているは明らか(彼にとっての参照先としての伝統は、ビザンツの、ギリシアのそれを別とすればセリーなのだ。そしてそれ以前にはさかのぼらない)だし、その方法論は、説明されている。(後は直観の部分だが、それは勿論、誰にでもある。)要するに方法論的な伝統というのがない分、接近しやすい。
勿論、クセナキスもまた(公理論的なアプローチそれ自体も含めて)環境や文脈から自由ではありえない。周囲の様々な潮流、他人の音楽、様々な実験から多くを学んでいったならば、そうした潮流を測る作業もまた、必要だろう。いわゆる文化史だ。だがクセナキスの音楽に向き合おうとした場合は、そういう意味での文脈はあまり感じられない。その方法論はある意味では数学のように、誰にでもアクセスできる。無論、同時代の人間であればこそなのだ。(自然科学ですら、歴史的文脈と独立ではありえない。)クセナキスの音楽は、自分にとって「近い」音楽だと言えるように感じられる。それは単純にクロノロジカルな問題ではない。もっと自分に近い世代の音楽が、寧ろ自分にとって疎遠に感じられることは少なくない。だとすれば、これはあくまでも個人的な問題なのかも知れないが、いずれにせよ、接近し易さというのは存在する。
(2005.4--2007.6, 2007.6.13未定稿のまま公開, 7.7改稿、2008.10.7, 10, 2009.2.28加筆, 2024.12.15 加筆・編集, 2024.12.23 noteにて公開)
