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火星——赤い地平の向こう(45):第9章 火星は響くか——音楽とヴァーチャルな実在(2)

(承前)

9.3 序——音楽は物語ではない

ここで、出発点を明確にしよう。
文学と音楽は、根本的に異なる。
文学は、言語によって世界を記述する。言語は、物理的条件から比較的自由である。火星の希薄な大気を描写するために、作家は実際に希薄な大気の中にいる必要はない。火星の古代の湖を描くために、作家はその湖のほとりに立つ必要はない。言語は、物理的な不在を超えて、世界を想起させることができる。
音楽は、そうではない。
音楽は空気の振動である。演奏者は、実際の大気の中で、実際の楽器を、実際の身体で演奏する。音楽は、物理的条件に深く依存している。
ここに、文学と音楽の根本的な非対称性がある。
この非対称性は、火星という問題において決定的になる。文学は、火星をどのようにも描けた。老いた文明を描き、きえさりゆく文明を描き、テラフォーミングによって若返る惑星を描いた。
しかし音楽は、火星の物理的条件から逃れることができない。
音楽にとって、火星は物語ではない。音楽にとって、火星は物理的制約の場である。

9.4 火星の音響条件——物理的事実として

では、火星の音響条件とはいかなるものか。パーサヴィアランスが搭載したマイクロフォンが記録したデータを含め、現時点で分かっていることを整理しよう。

大気圧と音の伝播

火星の平均大気圧は約0.6キロパスカル。地球の約0.6パーセントである。
音は媒質の振動として伝播するため、媒質の密度が低いほど、音は遠くまで届かない。火星では、音のエネルギーが急速に散逸する。地球では聞こえる距離でも、火星では聞こえないことが多い。具体的には、地球で100メートル先まで届く音は、火星では数メートルしか届かない可能性がある。

音速の差異

火星の大気は主に二酸化炭素(約95パーセント)から成る。二酸化炭素の分子量は44であり、地球の大気の主成分である窒素(分子量28)や酸素(分子量32)よりも重い。音速は、媒質の分子量と温度に依存する。火星では、低温(平均約マイナス60度)と重い分子の組み合わせにより、音速は約240メートル毎秒である。地球の音速(約340メートル毎秒)よりも大幅に遅い。
さらに興味深いのは、周波数によって音速が異なる可能性がある点だ。パーサヴィアランスの観測によれば、火星の大気では低周波(100ヘルツ以下)と高周波(100ヘルツ以上)で異なる音速が観測された。低周波では約240メートル毎秒、高周波ではやや速い。これは、火星では低音と高音が異なる速度で伝播することを意味する。複数の音が同時に鳴ると、距離が遠くなるにつれて音のタイミングがずれていく。和音の響きは、地球とは異なる形で変容する。

高周波の減衰

火星では、高周波の音が特に強く減衰する。これは大気密度が低いことと、二酸化炭素分子の振動による吸収のためである。地球で楽器を演奏するとき、高音の倍音成分が豊かな残響を作り出す。しかし火星では、高音成分が急速に減衰するため、音は「こもった」ように聴こえるかもしれない。弦楽器の高音域、金管楽器の輝かしい音色、打楽器の鋭い立ち上がり。これらは、火星では大幅に変容する。

残響空間の不在

地球での音楽において、空間の残響は重要な役割を果たす。コンサートホールの豊かな残響、教会の長い余韻。これらは、音楽の美的経験の一部をなしている。火星では、屋外での残響はほとんど期待できない。大気が薄いため、音が反射・拡散するための媒質が不足している。地平線まで広がる開放的な火星の風景は、視覚的には豊かだが、音響的には空虚である。

宇宙服という壁

人間が火星の表面に立つとき、宇宙服を着用しなければならない。宇宙服は、外部の音を大幅に遮断する。宇宙服の内部では空気が満たされており音は伝播するが、その音は外部の音響環境とは切り離されている。演奏者が宇宙服を着た状態では、自分の楽器の音を直接聴くことはできない。身体の共鳴——チェロ奏者が楽器の振動を身体で感じる、あるいは声楽家が自分の声の共鳴を頭蓋骨と胸郭で感じる——もまた、大幅に変容する。
火星の音響環境は、地球とは構造的に非同型に近い。

(続く)

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(2026.4.8 noteにて公開)

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