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火星——赤い地平の向こう(52):終章 火星は何を映すか(2)

(承前)

10.4 部分同型性の教訓——似ているがゆえの危険

火星は地球と似ている。しかし完全には同じではない。
この「部分同型性」は、希望と危険の両方を含む。
希望の側面は明らかである。火星は地球と同型圏内にある。だからこそ、生命の存在が期待され、テラフォーミングが想像され、有人探査が計画される。火星は、人類の生存域を拡大する可能性を持つ天体として期待される。
しかし危険の側面もある。
部分同型性は、錯覚を生みやすい。「似ている」という認識が、「同じだ」という判断に滑りやすい。火星はローバーの写真を通じて見ると、地球のどこかの砂漠のように見える。しかしその風景の中に立てば——宇宙服越しに——全く異なる条件が待っている。
テラフォーミングの夢も、この部分同型性に由来する。「似ているから、改変できる」という論理。しかしその改変は、火星の固有性を消去する。
部分同型性の教訓は、「似ている」と「同じ」の差異を見失わないことである。火星は地球と似ているが、地球ではない。火星の老いは人間の老いと構造的に対応するが、同一ではない。
この「似ているが違う」という緊張を保ち続けることが、火星を思考の対象として持続的に意味あるものにする。
そしてこの緊張は、音楽においても同様である。三輪さんの「ありえたかもしれない〈音楽〉」は、「今ここで鳴る音楽」と「ありえたかもしれない音楽」の間の緊張を保ち続ける。その緊張が消えたとき、音楽は別の何かになる。

10.5 想像力の縁——火星が与え続けるもの

文学は、火星を様々に描いてきた。老いた文明、幽霊の星、きえさりゆく種族、テラフォーミングによって若返る惑星。
これらは、科学の進展によって修正されてきた。ただし消去されてはいない。
ブラッドベリの火星は、マリナー以後の科学的知見と細部では乖離している。今でも読まれる。それは、ブラッドベリが「老い」と「きえさり」という火星の本質的な構造を、細部の正確さではなく、構造的な正確さにおいて把握していたからである。
光瀬龍の火星は、現実の地形とは対応していないアルベド地形に基づいている。今でも独特のリアリティを持っている。それは、光瀬龍が「古代性」と「喪われた文明」というモチーフを、火星の本質的な時間構造と一致する形で描いたからである。
ロビンソンの火星は、現在の惑星科学の知見を徹底的に取り込んでいる。それだけではなく、「改変と固有性の喪失」「人間の変容」という、部分同型性から論理的に導かれる問いを正面から扱っている。
科学の進展は想像力を修正するが、消去することはない。それは想像力の縁を移動させる。縁は常に前進する。しかし縁は消えない。
火星は、想像力の縁に位置する実在である。
そしてこの縁の位置こそが、火星を継続的に刺激的な対象にしてきた理由である。火星は、完全に理解できるほど近くはなく、想像力が届かないほど遠くもない。理解と想像の中間地帯。既知と未知の境界。その縁の位置に、火星は留まり続ける。
私はマリナー計画の時期に生まれ、子供の頃にヴァイキング計画の成功を経験し、そして近年のローバーやオービターによる探査の成功にも立ち会い、更に可能性としては生命の存在の確認や有人探査の成功にも立ち会えるかもしれないという、とてつもなく幸運な世代に生を享けている。
しかし同時に、火星についての問いが完全に答えられる日は、少なくとも私が生きている間には来ないかもしれない。サンプルリターンは実現するかもしれないが、その結果が何を示すかは分からない。有人探査は実現するかもしれないが、その過程で何が分かるかは分からない。
この「分からない」という状態こそが、火星を「想像力の縁」に留め続けている。
火星は、答えを与えない。火星は、問いを与え続ける。

(続く)

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(2026.4.17 noteにて公開)

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