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よかれと思ったことが、すれ違いに変わるとき

最近、あるドラマの撮影現場をめぐるトラブルの記事を読みました。

報道されている内容には、いろいろな見方があると思います。
どちらか一方だけが正しい、あるいはどちらか一方だけが悪い、と簡単に言える話ではないのかもしれません。

当事者にしかわからないこともあるはずです。
現場にいた人にしか見えていない空気もあるはずです。
報道だけを見て、誰かを裁くようなことはしたくないと思っています。

ただ、その記事を読んでいて、改めて考えさせられたことがありました。

それは、「よかれと思ってしたこと」が、相手にとっては苦しさや傷つきにつながってしまうことがある、ということです。

世の中のトラブルは、最初から誰かを傷つけようとして始まるものばかりではないのだと思います。

むしろ、本人としては悪気がない。
相手のためだと思っている。
場をよくしようとしている。
仕事を前に進めようとしている。
このままではよくないと思って、伝えたつもりだった。

そういう「小さな善意」から始まることも多いのかもしれません。

けれども、その善意が、相手の状態や背景を見ないまま差し出されたとき。
あるいは、相手が受け取れる形になっていなかったとき。
または、立場や力関係の差に気づかないまま伝えられたとき。

その善意は、相手にとって善意として届かないことがあります。

むしろ、圧力になることがある。
否定されたように感じられることがある。
自分の領域に踏み込まれたように感じることがある。
「あなたのため」という言葉の奥に、「私の正しさ」を感じてしまうこともある。

ここに、とても難しい問題があるのだと思います。

「よかれと思って」という言葉は、とても危うい言葉でもあります。

もちろん、本当に相手を思っている場合もあります。
その人のことを心配している。
もっとよくなってほしいと思っている。
このままだと苦しくなるのではないかと感じている。

そういう気持ち自体を、すべて否定する必要はないと思います。

人が人を思うこと。
誰かのために何かを伝えようとすること。
場をよくしようとすること。

それは、本来とても大切なことです。

ただ、「よかれと思って」の中には、気づかないうちに、自分のエゴが混ざることもあるのだと思います。

相手を助けたい。
でも、その奥に、相手を自分の考える方向へ動かしたい気持ちがある。

相手に気づいてほしい。
でも、その奥に、自分の正しさをわかってほしい気持ちがある。

場をよくしたい。
でも、その奥に、自分が安心したい気持ちがある。

相手のためだと思っている。
でも、その奥に、自分の不安や苛立ちを何とかしたい気持ちがある。

こういうことは、誰の中にもあるのではないかと思います。
もちろん、私の中にもあります。

だからこそ、善意は難しいのだと思います。

善意は、悪意よりも見えにくいことがあります。
悪意であれば、まだ自分でも気づきやすい。
言い過ぎたかもしれない。
傷つけようとしてしまったかもしれない。
怒りに任せてしまったかもしれない。

そう反省できることがあります。

でも、「相手のため」と思っているとき、人は自分の言葉の強さに気づきにくくなります。

こんなに考えてあげているのに。
ちゃんと伝えているだけなのに。
本当のことを言っているだけなのに。
相手のために言っているのに。

そう思ってしまうと、相手が傷ついたときに、今度は相手の受け取り方の問題にしてしまうことがあります。

けれども、言葉は、発した人の意図だけで決まるものではないのだと思います。

どんな言葉を、誰が、どの立場から、どのタイミングで、どの場所で、どのように伝えたのか。

それによって、相手への届き方は大きく変わります。

同じ言葉でも、信頼関係がある人から静かに言われるのと、立場の強い人から一方的に言われるのとでは、まったく違うものとして届くことがあります。

同じ助言でも、相手が「聞く準備」ができている時に受け取るのと、傷ついている最中に受け取るのとでは、まったく違います。

同じ善意でも、「いま話してもいいですか」と確認してから差し出されるのと、いきなり相手の内側に踏み込む形で差し出されるのとでは、意味が変わってしまう。

善意は、相手に届くまでの道のりの中で、形を変えるのだと思います。

だからこそ、よき世界を考える上で大切なのは、善意そのものを否定することではなく、善意の届け方を見つめることなのではないかと思います。

相手のために何かを言いたくなったとき。
相手の行動を変えたくなったとき。
このままではいけないと感じたとき。

その時に、すぐに言葉を投げるのではなく、少し立ち止まる。

いま、この言葉は相手に届く状態だろうか。
私は、相手の背景をどれくらい知っているだろうか。
これは本当に相手のためなのか。
それとも、自分の不安を落ち着かせるためなのか。
相手を変えようとしていないか。
自分の正しさを押しつけようとしていないか。

そう問い直すことが、必要なのだと思います。

もちろん、何も言わないことがいつも正しいわけではありません。

時には、伝えなければならないことがあります。
守らなければならない場があります。
誰かの行動が、別の誰かを傷つけているなら、止めなければならないこともあります。

「相手を尊重する」という言葉を使って、必要な対話や注意を避けてしまうことも、また違うのだと思います。

ただ、そのときにも、伝え方は問われるのだと思います。

相手を追い詰めるために言うのか。
相手を正すために言うのか。
それとも、関係や場をもう一度整えるために言うのか。

同じ言葉でも、その根っこにあるものによって、まったく違うものになります。

よき世界とは、誰も傷つかない世界ではないのかもしれません。

人と人が関わる以上、すれ違いは起きます。
言葉が足りないこともあります。
相手の背景を知らずに、踏み込んでしまうこともあります。
よかれと思ったことが、相手にとっては負担になることもあります。

それを完全になくすことは、難しいのだと思います。

でも、すれ違いが起きたときに、すぐに相手を悪者にしないこと。
自分の善意だけを根拠に、自分を正当化しないこと。
相手の傷つきを、「そんなつもりじゃなかった」で片づけないこと。
一方で、相手の言動を、すぐにその人の人格全体として固定しないこと。

そこに、分断をほどく入口があるのではないかと思います。

善意がすれ違いに変わったとき、本当に必要なのは、勝ち負けを決めることではないのかもしれません。

誰が悪いのか。
どちらが正しいのか。
どちらを支持するのか。
どちらを叩くのか。

そういう方向に進むと、問題は一気に大きくなっていきます。

特に、SNSの中では、当事者の見えないところで、多くの人が怒りを重ねていくことがあります。

誰かを守るための怒りが、別の誰かを傷つける言葉になることもある。
正義感から始まった発信が、気づけば集団で人を追い詰める形になることもある。

これもまた、「よかれと思って」の別の形なのかもしれません。

誰かを守りたい。
間違いを正したい。
被害を軽く扱ってほしくない。
その気持ち自体は、大切なものです。

ただ、その気持ちが強くなりすぎると、今度は自分が誰かを傷つけていることに気づけなくなることがあります。

よき世界を考えるということは、こういう小さなところを見つめることでもあるのだと思います。

大きな理想を語るだけではなく、日々の中で、自分の善意がどう相手に届いているのかを見つめること。

誰かに助言したくなったとき。
誰かを正したくなったとき。
誰かのために言ってあげたくなったとき。

その前に、少しだけ立ち止まる。

「いま、これは本当に相手のためだろうか」
「相手は、これを受け取れる状態だろうか」
「私は、相手の話を十分に聞いただろうか」
「この言葉は、相手の尊厳を守っているだろうか」

そんな問いを持つこと。

それは、善意を弱めることではなく、善意を本当に相手に届く形へ整えることなのだと思います。

愛とは、ただ思うことではなく、相手に届く形を探し続けることなのかもしれません。

与えること。
信じること。
守ること。
赦すこと。
喜ぶこと。

この五つの愛の実践も、善意の届け方と深く関係しているように感じます。

与えることは、相手が受け取れる形で差し出すこと。
信じることは、相手には相手の感じ方や背景があると認めること。
守ることは、善意の名を借りた強い言葉から、相手の尊厳や場を守ること。
赦すことは、すれ違った相手を、過去の一言だけで固定しないこと。
喜ぶことは、誰かが少しずつ関係を整えていく姿を、静かに見守ること。

よかれと思うことは、悪いことではありません。

むしろ、人が人を思う心がなければ、世界はもっと冷たくなってしまうと思います。

ただ、その善意が、自分の正しさや不安や支配欲と混ざっていないか。
相手の背景や境界線を越えてしまっていないか。
相手が本当に受け取れる形になっているか。

そこを見つめ続けることが必要なのだと思います。

よき世界は、善意だけでつくられるのではないのかもしれません。

善意を、愛と対話によって整えていくこと。
すれ違ったときに、相手を裁くだけで終わらせないこと。
自分の正しさから少し離れて、相手の見ている景色にも耳を澄ませること。

その小さな積み重ねが、分断をほどいていくのではないかと思います。

今は、そんなふうに考えています。

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