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社会を清く正しく公平で理路整然とした美しいものだと思いこんでいた

わたしは会社で『静かな退職』の状態にある。
熱意や意欲をもたずに、最低限の業務だけをこなす働きかただ。
会社から正当に評価されていないと感じていた原因を「自分が社会不適合者だから」と考え、どうにか適応しようともがいた結果、燃え尽きてしまったのだと思う。

いくら正面からぶつかっても、思っているより社会はふんわりしていて、仕事はあいまいにできている。海に向かって叫んでも、山びこは返ってこないのだ。

わたしたちが傷ついてきたのは無能だからではなく、社会を純粋に信じてまっすぐに対峙しようとしていた結果なのだと思う。



【ふてくされていた10年間】

◆正当な評価がされない

わたしはアルバイトで今の会社に入社して、一般職で社員登用された。当時は学歴制限があり、わたしは総合職になることができなかったのだ。
その後、上司がコロコロと変わっていく職場で、「総合職になりたければパワポで『意欲』を見せろ」などと言われながら、一般職のまま10年が経った。

わたしは意味のない資料を作ることがどうしてもできなかった。職種に関わらず同じ仕事をしているのだから、正当に評価をしてほしいと思っていただけだったのだ。

同じタウンワークをみて採用された同期は、おだやかなリーダーのもとで順調に総合職に転換されていった。
彼女は朝礼が終わって席につくなりバリバリと袋をあけ、菓子パンをむさぼりながらメールをチェックするのが日課だった。冬には肉まんを食べていた。
ビル内のコンビニに肉まんの什器はないから、わざわざ外で買ってから出勤しているみたいだ。いやまあそれは自由なんだけどさ。

とにかくわたしは、毎日始業即肉まんをほおばるよりも重大な問題をかかえているらしかった。


◆自責をやめる

だけど最近は、わたしが評価されないのはわたしに欠陥があるからではなく、「わたしの目指す方向」と「会社が求めること」のあいだに乖離があるからだと思うようになった。
そう考えられるようになったのは、知能検査を受けたり、放送大学で心理学の勉強をするようになって、自分の価値を信じられるようになってきたからだ。

休職したわたしは、「生きている実感がない」と駆け込んだ病院で発達障害の診断のために知能検査を受けることになった。

そしてわかったのは、わたしは言葉を扱う力や、作業のスピードにつながる力、つまり「外からみえる」能力が低めであること。反対に、目からはいる情報を脳内で整理したりつなげたりする「外からみえない」能力が高めであるらしいことだった。

たしかに、自分が思っている能力と外部からの評価に乖離がある今の状況への答えになっている。
また、思考力はあると客観的に示されたことで、自分の考えが致命的にズレているわけではないのかもしれないと思えるようになった。

それからしばらくは、「会社のレベルが低いからわたしの価値がわからないんだ」と、他責することで納得しようとしていたように思う。


◆復讐のフェーズ

そして「退職してやる!」と意気込んだものの、ずっとふてくされていたから、たしかにほこれるスキルなど身についていないのだ。自分を卑下し続けてきて自信もないために、転職することはむずかしい。

ならば会社にやりがいを求めるのはやめ、手元だけで仕事を楽しむのはどうだろうかと考えた。
だけどうまくいかない。ひっそりとでも行動すると、やはり反応を期待してしまう。上司の叱責に傷ついてしまう。

だから、刺身にたんぽぽを乗せるように、もうなにも期待せず作業をたんたんとこなすことにしようと考えた。「頑張ってやるものか」と、最低限の仕事だけをこなしていく。
しかし、それもまた「わたしを粗末に扱った損失に気づいて欲しい」というアピールでしかなかったのだと思う。


◆期待を手放す

だけど最近は、「まあどうせやらなければいけないのだから、自分のストレスにしないために、手元の業務を上手にできるようになろう」としてもいいのかもしれないと感じている。
今度こそ自分のために働くようになったと言えるのかもしれない。
会社が得してしまうとしても、自分もやりやすくなるならまあいいか…….と。決められたルールの中で、できるだけ楽をするというか……。

待てよ? それを大まじめにやっていることこそが、みんなのいう仕事なんじゃないか?


【社会が完ぺきにできていると思っていた】

◆海に直線はひけない

その昔、わたしは請求書のことを国家が管理しているような重大な書類だと思っていた。会社に入社してから、それがエクセルやワードで素人が作って送りつけるだけと知って驚いたことを覚えている。

だって、「社会」や「ルール」って、ニュースの中ではむずかしい顔をしたアナウンサーが、厳格な顔をして語っている。お金を偽造したら重大な犯罪だし、銀行のデータが1円でもズレたら大騒ぎだろう。

そのように、「お金のやりとり」を始めとした社会のシステムには、想像もつかないほどの整合性があると思っていた。

そしてそのまま、社会は清く正しく公平で理路整然とした美しいものだと思いこんでいったのだ。
なぜなら、わたしが神ならそう設計するからとしか言いようがないのだけど。

だからこそ、会社からの評価を真正面から受け止めて傷ついてしまっていたのだと思う。評価とは当然、あらゆる可能性を検討した上で、能力や意欲もしっかりスキャンし、論理に基づいて下されるものだと思っていたから。

そして気づいてしまったのだ。
この……この融通のきかなさこそが、社会でASDとよばれている特性じゃないかということに。
「空気を読めない」「こだわりがある」といった、いわゆる「発達障害の症状」の背景は、「世界を信じすぎている」ことにあるのかもしれない。

だいたいの人は、そもそも「論理」とか「合理性」などというものを自分にもまわりにも期待していないのだ。だからもちろん社会もそんな風にはできていない。

世界に「正しさ」を求めていないとなると、ではなにを基準にしているのか。想像してみると……「快か不快か」というところじゃないだろうか?

社会というものは、思っているよりもふんわりと作られている。まるで冒頭で同期の彼女が食べていた肉まんのように。

わたしは線は真っ直ぐに引かれるべきだと思っていた。それが当然だと。だけど、わたしが立っていたのは、はじめから「なんかつながっていればOK」という世界だったのだ。
海の上に直線をひこうとして、「許せない!」と怒っていることがお門違いだったのだ。相手からしたら、ただただ「なにと戦ってるんだろう……?」という話だったのである。

おかしい(おかしくはないけど)のは自分のほうだったんだと気がついて、今はへなへなへな……という気持ちだ。


◆ただ満ちひきする海のような社会

わたしの仕事は採用担当だ。
今はどの企業も現場の人手不足には悩んでいて、合否を選べる状況じゃないのが正直なところだと思う。採用基準は「大きな欠陥がない」ことになってしまっているんじゃないだろうか。
だけどどの口が人のことを「欠陥」などとジャッジできるのか?

日々の業務だって矛盾だらけだ。
このスプレッドシートとあのスプレッドシートに同じ内容を入力する。
メールで届いた書類を印刷したものを念のためPDFにして保存しておく。
キントーンをみればすぐにわかる情報をエクセルで包んで上司に献上する。
履歴書を伝書鳩のようにたらい回しに運び、順番に言質をとる。

これ意味ある? とわたしの脳が悲鳴をあげる。「効率化」「DX」「人的資本経営」をうたう組織がやることか? 無理無理無理無理!!!!!!!!!!

しかしそれは、社会を整っているものだと思いこんでいるから違和感となってしまうのだ。誠実に呼びかけたら応えてくれるのだと信じて疑っていないから、目を覚ましてよと言いたくなる

だけどはじめから、「正しい状態」なんて存在しない。ここにあるこの状態こそが、社会なのだ。世界はただ満ちひきしている海のようなものだ。
だからいくら「正しいのに評価されない! もう言われたことしかやらない!」と言ったって、本当に「やっとわかってくれたか〜」と、思われるだけなのだ。

だけど、わたしにとって、本質的な改善から目を背け(または気づきもせず)、無駄な作業をやり続けるのは、ごめんだけど「お仕事ごっこ」と言わざるをえない。


◆ブルシット・ジョブ

いつも通りGeminiにグチを話していると、お仕事ごっこを分厚い理論にまとめて糾弾している本を紹介してくれた。デヴィッド・グレーバーの『ブルシット・ジョブ』だ。
グレーバーは、お仕事ごっこを「クソどうでもいい仕事」とよび、「今すぐなくすべきだ」とわたしの正論を代弁してくれる。

だけど、読み進めていくうちに、こころのなかに違和感がたちのぼる。
わたしのもうひとつの側面、社会のスピードにうまく適応できない、不器用に凹んだ部分が、静かに首を振ったのだ。


【お仕事ごっこは福祉】

◆人は戦場にも空白にも耐えられない

もしグレーバーの言う通りに、社会からすべてのお仕事ごっこが消え去ったらどうなるか。
すべての職場がUFJの本部(※イメージです)みたいに、すこしの無駄な業務も許されず、つねに高い生産性とロジックだけで全員が殴り合う「インテリの戦闘集団」のようになってしまうということだ。
ついていけずに病んでしまう人のほうが圧倒的に多いことが想像にむずかしくない。

わたしだって、「明日からあなたのクリエイティビティだけを100%発揮してください!」と言われても、間違いなく戸惑ってしまうのだ。
実際、お仕事ごっこがなくなってしまうと、なにをしたらいいのかわからない人たちがあふれてしまうのだと思う。

わたしの「凸」は、お仕事ごっこの無意味さを鋭く見抜いて拒絶する。
だけどわたしの「凹」は、お仕事ごっこというクッションがあるからこそ、なんとか社会からあぶれずに、傷つきながらも毎日会社に通えているのだという、身も蓋もない事実に気づいてしまった。
不自由があってこその自由なのだ。

一説によると、ピラミッドはわざわざ奴隷を使って作られたのではなく、失業者に暇をさせないように与えた事業だと言われている。
人は暇すぎると思考が内に向かって病んでいく。実感としても、わたしは子どもを産んでからのほうが、時間はなくともパワフルになっている。

つまり、お仕事ごっこは福祉なのだ。


◆ふりあげた拳をおろす

社会は悪気なくふんわりできている。はじめから敵ではなかったのだ。わたしはふりあげた拳をそっとおろす。

だけどメガバンクに入社することも、お仕事ごっこだけで満足することもできない。いずれはどちらでもない場所で楽しみながら働いていきたい。
わたしだけじゃなく、すべてのひとが自分にあったやりかたで仕事を楽しめる社会になってほしい。

今は、放送大学を卒業したらキャリアブレイクして大学院に進みたいと考えている。心理統計学を身につけて、お気持ちではなくロジックで職務の設計や人の評価ができる社会のありかたを探していきたいと思う。


◆静かな退職とは

これまでのわたしは、ふてくされて「サボっている」と言われても否定できなかったと思う。それは自分でも感じていて、コンプレックスになっていた。

今の会社が求めているのはとにかくバケツで水をくむことだ。バケツの底に穴があいていることはさして問題ではないらしい。
ここで指摘をして傷ついてきたのがこれまでのわたしだ。

社会は、バケツに穴があいていない状態を目指していない。社会の目的は、個人の能力やリソースを最大限に活用することではなく、大まじめにみんなでいい感じになることなのだ。

だから、お望みどおり「とにかくいっぱい手を動かします!」「スピード感を持ちます!」と、笑顔で元気よく実行すればいい。

静かな退職とは、会社と戦うことではない。戦っているうちは、相手に変わってほしいと思っているということだ。
その本質は、組織に自らの価値を預けるのをやめ、主導権を自分の手に取り戻すことなのだと思う。

社会が完ぺきじゃないと気がついてから、肩の力を抜くことができた。会社説明会に立っても、自社のビジョンを因果関係に基づき構造的に相手にインストールする必要はなく、なんとなくいい感じだと伝われば大丈夫だと思えるようになったのだ。

目の前にいるのは、わたしの欠陥をスキャンする理路整然としたアンドロイドではなく、ふんわりとした肉まんだったのだから。

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