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長篠(ながしの)城と設楽原(したらがはら)の戦い(その4 全4回)
信長は、この天正三年五月二十一日の長篠・設楽原の戦いの時、三千丁の鉄砲を使ったという記録が残っているんだよ。
このころの鉄砲は今のとは違ってね、一発撃つと鉄砲の中に残った玉のカスをお掃除してそれからまた玉ごめをしなくちゃならなかったから、続けて撃つことができなかったんだ。次の玉ごめをしている内にやられちゃうよ。そこで信長が考えたんだ。
鉄砲を撃つ足軽は三列にならんでおく。一列目がバーンと撃ったら、横に飛びのいて一番後ろに並んでいく。並びながら鉄砲の玉ごめの準備をしておく。二列目、三列目と次々に撃っては後ろへ並んでゆく。こんな方法さ。
それと木の馬防柵がよかった。柵のこちら側から鉄砲を撃つ。とびかかってくる馬たちはこの柵が超えられない。
設楽原に出てきた勝頼軍は逃げる場所も隠れる所もなかったよ。織田軍の次々と撃ってくる鉄砲の球に当たってバラバラと倒れていったんだ。馬たちも倒れていったよ。
鉄砲の玉には槍と刀ではどうすることもできなかったよ。
この鉄砲と馬防柵のアイデアで織田徳川軍が大勝利したのさ。
『甲陽軍鑑』によるとね、勝頼勢は一万五千の内、甲斐国に逃げ戻ることができた兵はわずか三千だったということだよ。
この長篠・設楽原の戦いは鉄砲によって勝ちと負が決まった戦いだったよ。鉄砲が一番良い武器となっていくんだね。
このころから鉄砲は改良されてもっと使いやすくなったり、大型化して、大砲なんかも作られるようになっていくんだ。武器が変われば、お城の守り方も変わってくるよ。丈夫なお城にしなくちゃだ。
石垣を使ったお城づくりが発達していくのも、この長篠・設楽原の戦いからだというよ。これから戦国時代も後半へと入っていくんだね。
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