お願いだから貸してくれ 3話 20 紗希 2024年6月14日 04:19 「山根さん、私が留守した間、本当にありがとう」「いえ、たいしたことは、してないですから」田舎に戻っていた、先輩社員の、川谷さんが今日から出社したのだ。私は川谷さんから頂いた、栗饅頭を食べていた。「美味しいですね。このお饅頭。栗餡に本物の栗も入ってて」「山根さんが、そう云ってくれて、良かったわ。なにせかなりの田舎だから、銘菓が無いのよ」訊いていいものなのか、私は迷っていた。「母なんだけど、妹が云ってた通り、ボケ始めてた」迷っていたことを、川谷さんの方から、話してくれた。「そうですか……」「でもね、予想していたよりは、会話が成り立ったので、少し安心したわ」川谷さんは微笑んで、そう話した。「良かったです」「ええ。けれどこれからは、もっと会いに行く機会を増やそうと思うの。妹ばかりに任せていては、彼女も疲れてしまうでしょうし。実際、かなり疲労してたし」私は頷いた。「それはいいですね。妹さんにも、お母様の為にも」「山根さん、かなり個性的な、お客様のようよ」え?自動ドアが開いて、入って来たお客様は、若いカップルだった。「あの〜部屋を探しています」そう話すのは、髪が緑の青年。一緒にいる女の子は、髪がピンク色だ。「いらっしゃいませ。こちらへどうぞ」川谷さんが和かに、彼等に声をかけた。私は相変わらず、狭いキッチンに行くと、ガラスのコップに麦茶を注ぎ、お客様へ、お出しした。ピンクの女の子は、あっという間に飲み干して、「冷えた麦茶が美味しい。今日はムシムシしてるから」「良かった」私の言葉に、ピンクの子は、ニッコリと、可愛い笑顔を見せた。二人とも、20歳にはなってるけど、せいぜい22、3歳かな。「どのような、お部屋をご希望でしょう」川谷さんが訊ねると、緑の青年は、「部屋は2つで、陽当たりが良くて、お風呂があること」「その他には」「ガスは都市ガスがいいです」ピンクの子が、付け足した。よく調べてある。LPガスは高くなるものね。「わかりました。後はご希望の、お家賃をお聞かせください」「3万」「3万ですか」2間で、お風呂付きで3万。今はお風呂は、ほとんどの物件にある。銭湯が無くなったからだ。だが、いくら都下とはいえ、3万では、1kでも難しい。川谷さんは、ゆっくりと優しく青年に、話した。「お客様のご要望に、お応えする為には、その金額では、正直なところ、無理なのです」「あの、幾らならありますか」恐る恐る彼は質問した。「7万円でも、難しいかと」カップルは、顔を見合わせた。暫く2人は黙っていた。「出直して来ます。すいませんでした」立ち上がると、緑の青年は、そう云って頭を下げた。「こちらこそ、ご要望に添えず、申し訳ありません」川谷さんの声を背に、2人は店から出て行った。ガラスの向こうを歩いて行くカップルの足取りは、重かった。「何か訳ありな感じがする」川谷さんが、ポツリと云った。「ただいま〜」涼介だ。「お帰りなさい」「玄関までの、お出迎え。ありがとうございます栞菜さん」「いえいえ。お疲れ様でした」「違う。栞菜は僕のことなんて、見ていない」「なんでそんなこと云うの。ちゃんと涼介のこと見てるよ」「嘘だね」「どうしたのよ。いったい」「栞菜が出迎えたのも、栞菜が見てるのも僕じゃなくて」「これだろう」涼介は紙袋を掲げた。そう、今日は涼介のパン教室の日。「涼介のことも、ちゃんと見てるよ。怒ってるの?」ニヤッ涼介は笑った。「こんなことぐらいで、怒るわけ無いでしょ」と、私の頭を撫でた。「良かった」この後の涼介の言葉に私はショックを受けた。「たいしたことは無いけど、栞菜の髪、少し白髪があるね」「やだなぁ。まだ33なのに」「ヘアカラーするといい。落ち着いたブラウンとかどう?きっと似合うよ」「そうね〜」その時、前を歩く涼介が、こう云った。「ピンクとかは、止めて欲しいけど」振り向いた涼介は、真顔だった。私は、涼介の目を見つめた。「小さい頃から不思議に思ってた。涼介のこと」「どうして、何も訊かなかったの?」それは……。「いつか、涼介の方から話すだろうと思ってたから。それと、訊いてもいいのかが、分からなかった」涼介は、テーブルの上に、カバンと紙袋を置いた。そして椅子に腰を下ろした。「僕が何も云わなかったのは、怖かったからだよ」私も向かいの椅子に座った。「私が涼介のことを、嫌いになると思ったの?」涼介は頷いた。「だって、気味が悪いでしょう?僕みたいなのって」「羨ましいと思ってた」「羨ましい?」「小さい頃から、涼介の持ってる不思議な“何か”が、私は羨ましかったよ」涼介は、何とも表現しがたい表情を見せていた。意外に思ったのかもしれないし、驚いたのかもしれなかった。「母方の祖父が、そうだったんだ。それを受け継いだのが、僕だったみたいだ」「でも、祖父ほどの力は僕には無いよ。感じたり見えたりしても、全部じゃない。中途半端な能力なんだ僕の場合は」「それでもいいじゃない」「本当に、栞菜は気持ち悪くないの?」「もちろん。涼介には本当の気持ちしか私は云わない」良かった……。「ところで、今夜のお土産は?」「おっと。そうでした」「またクロワッサン級のカロリーのパン?」涼介は、笑いながら私の前に、お土産の入った袋を置いた。「今日のは安心して食べられる系だよ。たくさん食べたら、ダメだけどね」なんだろう。ワクワクしながら、袋から取り出したのは。「マフィンね!」「そう。イングリッシュマフィン」「最初に食べた時、甘くもないし、粉っぽい感じで、あんまり好きではなかったの。今は好きだよ」「メープルシロップを、たくさんつける人っているよな」「いるね。食べていい?」「もちろん、どうぞ」涼介の作ったマフィンは、サクッとしたマフィンで、私は美味しく食べることが出来て、嬉しかった。「あの若いカップルだけと」「視えてるんだね」「うん。ぼんやりだけど」「どうなるんだろう。住むところは見つかるのかなぁ」「……複雑な何かを、抱えてる気がする」「うん。そんな感じだね」「これが祖父なら、もっとハッキリと分かるんだろうけど。ここが僕の中途半端なところなんだ」「今夜は、このくらいにしておいた方がいいよ、涼介。結構疲れるってテレビで、観たことがあるから」「確かにね。僕もマフィンを食べようっと」「水分が欲しいな。涼介の分も持ってくるね」「サンキュ」何のことか、分からないけど、あの2人は“勝つ”みたいだよ。“勝つ”って云って来てる……。翌日、川谷さんと私は、昨日のカップルのことを、古田社長に、話してみた。「川谷さんの云う通りで、事情があるみたいだな。連絡先は、訊いてあるの?」「はい。彼の携帯の番号を」「そうか。紹介出来る部屋が出て来るといいがな」川谷さんも私も、頷いていた。「おはようございます」林さんだ。「おはようございま〜す」私は彼女にも、このカップルの話をした。林さんは珍しそうに訊いていた。「3万ねぇ。ちょっと難し!あそこはどうかな。え〜と、[カワセミ庵]。ここはかなり安かったと思うけど」「確かにあそこは安かったわ。空いてるか調べてみる」川谷さんが、パソコンに見入った。「空いてる。家賃はと。わ、安い」「山根くん。彼に電話してあげて」古田社長に云われ、私は直ぐに緑の青年に電話した。「もしもし。わたくしは昨日の不動産屋の山根と申します。お客様にご紹介できる物件があるかもしれません。お越しになれますか?」「直ぐに来るそうです!」ただ、彼には訊かなければならないことがある。それは彼も分かっているだろう。20分後、勢いよく彼が入って来た。「ありそうなんですか」汗も拭かずに彼は云った。「先ずは座って落ち着きましょう。飲み物を持って来ますね」「ありがとうございます」「随分、早く来れたのね。近くに居たの?」「電車から降りたところでした。二駅前の[藤野台駅]です。電話をもらって、慌てて飛び乗ったんです」青年は、買って来たミネラルウオーターのボトル握ると、一気に飲み干した。「西野さんとは、お話しすることが、いくつかあるけど、観たいでしょう?物件」川谷さんに訊かれ、「観たい。観たいです。その前に、妹を呼んでもいいですか」「妹さんだったの。もちろんいいわよ。お名前は何て云うの?貴方も妹さんも」「オレは西野流風るか。妹は、西野桃香ももかです」流風さんは、妹の桃香さんに電話をした。「急いで来るそうです。30分もかからないはずです」兄の勘はすごい。30分経たずに、桃香さんは、やって来た。「行く前に、少し説明しますね。ご紹介する物件は、平屋になります」「すげえ」「ただし、建物はかなり古く、築40年近くになります。それを頭に入れておいてください」「はい」「じゃあ車を回して来ます」林さんが駐車場に向かった。西野さんは、不安気に私に訊いて来た。「すごいボロ屋とかですか?」「ボロ屋って。築年数が経ってますからね。あちこち痛んでるとは思います。けれど、同じ平屋が、近くに3軒ありますが、皆さんの評判は良いですよ。住み心地がいいって」「お兄ちゃん」外には林さんが車を停めて、待っている。「行って来ます」「行ってらっしゃい。納得がいくまで、よく観て来なさいね」川谷さんの言葉に、流風さんと桃香さんは、「はい」と返事をすると、表に飛び出し、車に乗った。1時間後。「ただいま戻りました」林さんの後ろから、兄と妹が入って来た。2人とも、興奮状態だ。「すっごく良かったです!絶対に住みたい」「本当に気に入りました。見かけは古いけど、家の中は、想像してたのと違って、きれいなので、びっくりしちゃいました」「大家さんが、しっかりした人なの。住む人が、少しでも快適に暮らせるように、気配りが出来る人」「でも……」「家賃のことね」「はい。だって3万ですよ。払える額」川谷さんは、笑顔で答えた。「カワセミ庵の、お家賃は、28500円に管理費が500円。合計29000円です」「う、そ」「本当です」「借ります!借りたいです」流風さんが身を乗り出す。「お気持ちは分かりました。その前に、西野さんには、いくつか、お聞きしなければなりませんが」流風さんは、神妙な面持ちになっていた。「分かってます」川谷さんは、一つずつ西野さんに質問した。先ずは、流風さんの仕事はバーテンダーで、月給は手取りで20万。妹さんは、保育士の専門学校に通っている。コンビニでアルバイトをして、学費に当てているそうだ。本当なら、もう少し家賃を出すことも出来る。けれど先々のことを考えて、3万にしたそうだ。中々、堅実な考えの持ち主だと、私は感心して訊いていた。2人は、1年前に両親から離れる為に、家を出ていた。流風さんが、先に一人暮らしを始めた。それから妹の桃香さんを、呼び寄せたそうだ。ただ、桃香さんも同居をしていることは、大家さんにも不動産屋にも、黙っていた。「それはまずいでしょう」林さんの意見に、流風さんは「はい。よくないことを、してしまいました。だから」このことを知った、大家さんは、激怒してしまい、出ていけと云われてしまったそうだ。流風さんは、次の住まいが見つかるまで、居させて欲しいと、泣きながら懇願し、大家さんは、仕方なく流風さんの頼みを訊いてくれた形になっている。「その為には、一日も早く引っ越し先を、見つけないといけないんです」店内は、静まり返っている。口を開いたのは、川谷さんだった。「そこまで、ご両親との家には、戻りたくない理由があるんですね」流風さんが、話すまでに、少しの時間が必要だった。「オレたちの母親は、4回も離婚してるんです。いま母と暮らす男も僕らには、赤の他人なんです。少なくとも父親なんかじゃない」彼はギュッと、握り拳に力を入れた。【大嫌い】と聴こえて来そうに。桃香さんは、終始下を向いている。全身が小刻みに震えていた。彼女もその男が、大嫌いなのだろう。ひょっとしたら兄以上に……。そんな妹の様子を、兄の流風さんは心配そうに見ている。桃香さんのことを、兄が守っているように見えた。あの男の全部が嫌い。特に私を見る、その目が嫌。そういうことなのね……。それじゃ一緒になんて、住めるわけがない。可哀想に。「あとは、保証人のことですが。なってくれそうな人は、いますか」川谷さんも、訊くのが辛そうに見えた。「……いません」「ご親戚も、無理ですか?」「はい」店内に、重たい空気が充満している。それを払拭したのは、社長だった。「僕が、大家さんに直接会って、話してみよう。2日待ってくれるかね」西野くんは、「はい。待ちます。宜しくお願いします」そう云って社長に頭を下げた。大家の徳田さんは、合気道の道場を構えて、子供たちに教えている。男気のある、熱い男性である。古田社長から、話しを訊くと、今回だけ、特別に保証人無しでも構わないということだった。ただし。期限は3ヶ月。その間に、出来ることは、何でもやってみること。それが徳田さんから流風さんへの課題であった。そのことを伝えると、西野さんは、電話の向こうで泣いた。そして、「必ず、この3ヶ月の間に何とかしてみせます」キッパリと、彼は云った。「血の繋がりが、あってもなくても、自分の親を好きになれないのは、辛いですね。私も父のことを、尊敬したかった」社長も、川谷さんも、黙って訊いていた。そして流風さんは、顔も見たくないほどの嫌悪感を抱いている男性と、面と向かって話しをした。アンタがオレらを、子供だなんて思っていないのと同じで、オレと桃香も、アンタを親だなんて、死んでも思わないだろう。それから、桃香の心に深い傷を残したことを、オレは決して許さない。このことを、アンタは一生、覚えておけ。流風さんは、男にそう言い放ったのだ。睨むように男は、流風さんを見ていたそうだ。そして遂に、流風さんが働くBARのマスターが、保証人を引き受けてくれることになったそうだ。3ヶ月になる、ギリギリに、徳田さんとの約束を、見事に守る結果となった。「お見事。青年、頑張ったな」「顔も見たくない男に、よく自分の想いを、伝えられたよね」「何事も逃げてちゃ、一生そのままだもんな。勝てたのは、自分にってことか」「うん、そうだね」「しかし、栞菜のとこの社長さんは、凄い人だよね。たまに栞菜から話しを訊いてたけど、本当にすごいわ。その徳田さんていう大家さんも、かっこいい人だね」「……」「寝てるの?疲れたよね。だけど栞菜、悪いけど起きてくれないか。きみを背負って寝室まで運ぶ自信が僕には無い」「え〜」「良かった。起きてくれた。寝室に行くよ」「涼介、おんぶ」「何が、おんぶだよ。先に寝室に行くよ」「待ってよ。一緒に行くから。あ〜っ!照明を消して行った。ひどい」「物価高騰中の為、電気代節約」「涼介の、鬼〜!」 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