お願いだから貸してくれ 2話 30 紗希 2024年6月12日 12:11 火曜日の朝は、雨が降っていた。私の休みは、店の定休日でもある、水曜と、もう1日は月曜日だ。つまり火曜日の今日は、一般的には、日曜が終わり、月曜を迎えたのと、同じことになる。カーペンターズの歌のように、月曜が雨だと気分が沈みがちになる。だから火曜日に、朝から雨だと、私の気持ちも下がり気味だ。風邪で熱がある涼介は、休みを取って、寝室で眠っている。食欲はあるようなので、涼介が食べられるように、卵と三つ葉の、お粥を作っておいた。「出かけるとしますか」雨の日用のブルーの靴を履くと、私は表に出て、玄関に鍵をかけた。「なんだか、さっきより降ってる気がする」なんてボヤいても、休みになるはずもなく。「歩いて行ける場所に、仕事場があるだけ、ありがたいことよね」先輩社員の川谷鏡子さんは、有給を取り、田舎の両親に会いに行っている。90を過ぎたお母様が、最近ボケて来てると、同居している妹さんから連絡があったのだ。「妹夫婦に、任せっきりだから、たまには様子を見に行かないとね」川谷さんは、そう云っていた。私の母は、まだまだ元気に、一人暮らしをしている。父は随分前に、亡くなった。私には兄がいる。けれど、兄嫁と母は、折り合いが悪いみたいだ。「母に何かあったら、私が同居することになるわよね。涼介とも、きちんと話しておかないと。あちらにも、ご両親が居るのだし」そんなことを考えながら、歩いていると、店の前に傘を刺した人が立っている。「急いでシャッターを、開けないと」私は雨の中を走った。すると、傘を刺した人は、店から離れてしまった。「ま、待ってください。いま行きます!」しかし、私の声は届かなかったらしい。その人の姿は、見当たらなくなってしまった。私はゼーゼー言いながら、店の裏口の鍵を開けて、中に入った。自動ドアのスイッチを入れて、シャッターを開ける。「何か飲もう」私は小さな冷蔵庫を開けると、自分用のスポーツ飲料を取り出し、ゴクゴクと飲んだ。「は〜やれやれ。一息ついた」スケジュールが書いてある、ホワイトボードに目が行く。今日は、お昼からパートの林さんが来てくれる。林由美子さんは、川谷さんより長く、ここで働いているベテランのパートさんで、頼りになる人だ。とても小柄な女性だが、乗ってる車は、かなりごつい。それを、身長が145センチの、林さんが運転するのだから、乗せて貰う度に凄いと思う。大きいハンドルを、回す時の林さんは、怒ってるように見えるが、怒ってるわけではない。真剣にハンドルと、格闘しているからだ。まるで林さんの方が、ハンドルに振り回されているように見える。「久しぶりに、林さんの車に乗ってみたくなったな」その時、自動ドアが開いた。手にしている傘を見た私は、さっきの人だと直ぐに分かった。「いらっしゃいませ。どうぞ、お掛けになってください」その人は、入り口に置いてある、ビニール袋に傘を入れると、店内に入って椅子に腰を下ろした。遠かったし、後ろ姿が傘で隠れていたので、性別が分からなかった。だが、いま分かった。デスクを挟んで、私の前に座っている人は、男性で、年齢は70歳くらいだろうか。疲れた顔をしている。たぶん、ここへ来る前に、既に不動産屋を何軒も回ったのだろう。けれど、断られたのだ。お年寄りの一人暮らしに、部屋を貸す家主さんは、日に日に減少している。60代も、後半になるとかなり厳しい。70代、80代のお年寄りが借りられる部屋は、限り無く0に等しい。これが現実なのだ。この男性も、何度も断られたにちがいない。「少々、お待ちください」私はキッチンで、お茶を淹れた。緑茶ではなく、ほうじ茶にした。この方が、お客様の好みの気がしたのだ。出された、ほうじ茶を、男性は美味しそうに飲むと、疲れ切っていた顔が、少し晴れやかになって見えた。「僕は、ほうじ茶が好きなので、美味しく頂きました」「良かったです。直ぐにおかわりを、お持ちしますので」「どうもありがとう」「おはようございます」古田社長が、裏口から入って来た。「おはようございます社長」古田社長は、お客様の男性を、チラッとみると、「山根さん、お昼休憩にしてもいいですよ。お客様は僕が引き継ぎますから」私は、そうすることにした。バックを持つと、「お先に休憩に入ります」そう云って、裏口から表に出た。目の前には、プレハブの建物がある。古田社長が、従業員の休憩場所にと、建ててくれたのだ。私は店を出る時、鍵も持って来たので、ドアを開けると、靴を脱いで畳の部屋に上がった。部屋には、小さなちゃぶ台と、テレビがある。空気が澱んで蒸し暑い。少しの間、窓を開けて空気の入れ替えをすることにした。いつの間にか、雨は止んでいた。「先ずは涼介に電話をかけてみよう。寝てるかな」「もしもし、僕だよ」「寝てたらごめんなさい。体調が気になったから、電話したんだ。どう、熱は下がった?」「うん、平熱になったよ。いま栞菜が作ってくれた、お粥を食べたところ。美味かった。ありがとう」「良かったね。風邪薬は、まだある?」「ちょっと待ってね。え〜と、3回分あるよ」「それなら今日は買わなくても良さそうね」「うん。あのさ、栞菜にお願いがあるんだけど」「お願い?なに」「仕事を頑張ってる栞菜に、云いにくいんだけど」「だから、お願いってどんなことよ。お昼休憩が終わっちゃうよ」「そうだった。夕食に肉が食べたい。ガッツリ食べたいんだけど」「了解。ステーキ用のお肉を買って帰る」涼介、子供みたいに、はしゃいでたな。赤身でいいよねって云ったら、「え〜〜〜」ってブーイングしてたけど。分かってますよ。ちゃんと脂身のある、お肉を買いますから。「さて、早く食べよう。本当に、休憩時間が終わっちゃう」私はバックから、朝作って来た、おにぎりを取り出すと、ラップを剥がしながら、食べることにした。「感謝して、いただきま〜す」今日は鮭と梅干しのおにぎりにした。パンも好きだけど、お米も好き。日本人だなぁ。リモコンで、テレビをつける。どのチャンネルも、面白い番組をやってない。スイッチを消すと、私は畳に寝転んだ。「お腹が満たされて、眠気が来そう。眠らないように注意しよう」しかし私は寝ていたらしい。時計を見て、慌てて部屋を片付けた。あと2分で休憩時間が終わるところだった。急いで店に戻ると、社長が私を見て笑ってる。「そんなに急がなくても構わないのに」「でも時間ですから。先程のお客様は、帰られたんですか」「いま、林さんが物件を案内しに行ってるよ」「見つかったんですね!良かった」「いつもの澤田さんのお陰でね。ありがたいよ」建設会社の社長である澤田さんと、古田社長の付き合いは長いと訊いている。アパートを何棟も所有しているし、一軒家もある。どこの不動産屋でも、断られてしまい、困ってる人に、澤田社長は空き部屋を提供してくれる。器の大きな、優しい人柄に、澤田社長には、たくさんの人が集まってくるらしい。弟子志願のような人々だろうか。「澤田社長と僕は、似たような境遇で生きて来た。だからお互いの気持ちが、よく分かるんだ」古田社長の両親は、社長がまだ、幼い頃に離婚している。社長は母親に引き取られたが、2人で生活をするアパートを探しても、当時は今以上にシングルマザーと、まだ小さな子供に、部屋を貸してくれる大家さんを見つけるのは難しく、暫くは、母親の知人宅に住まわせてもらったという。「段々と痩せていく、母を見るのは、子供なりに辛くてね」そうだったんだ。だから、古田社長は、困っている人の為に、奮闘してるんですね。私は、そんな社長のことを、人として、尊敬します。「澤田社長も僕と似たり寄ったりの経験をしてるんだよ。かなり儲けたはずの澤田さんが、今だに現役なのは、稼いだ分のほとんどを、アパート等を買うことに使っているからなんだ」「……御二人には、頭が下がります。本当に御立派だと」「山根くんは、泣き虫なようだね」「はい。すみません」「僕は山根くんが、この店に来てくれたことに、感謝しているよ」止めてください社長。涙で、お店がプールになっても知りませんよ。「ただいま戻りました」「林さん、お疲れ様でした。お客様は」そう訊くと、林さんは笑顔で応えた。「もちろん、いらっしゃいますよ。あそこに」林さんの視線の先には、ケーキ屋さんがあった。美味しいと評判のお店で、たまに取材されることもある。私も涼介も、あの店のケーキは、かなり好きだ。「あ、お客様が出て来ましたよ」自動ドアが開くと、満面の笑みをした、お客様が入って来た。「ありがとうございました。あんな住み心地の良さそうな部屋を紹介してもらえるなんて、想像もしていませんでした」「では」「はい。もちろん借ります」「本当に良かったですね」「それで、あまりにも嬉しくて、お礼も兼ねて、皆さんにケーキを買って来ました」私はケーキの箱を受け取り、全員分の紅茶をいれて、皆んなでケーキを頂いた。お客様は、自分のように困っている友達が、数名いるので、彼等にも部屋を紹介してあげて欲しいと、古田社長に頼んでいた。「それでは、お先に失礼します」「山根くん、お疲れ様」「さて、涼介の為にステーキ用のお肉を買うぞ」この街で一番高く、品物のいいお店に私は入ることにした。「滅多にないことだから、少しの贅沢しても、いいよね」お店に入ると、まるで別世界のようだった。買い物をしている人達も、ゆっくりと品物を、選んでいる。これを、優雅と呼ぶのだろうか。あ、卵。!!!ひとパック12個入り、2200円!何だか見るんじゃなかった。早く買って帰ろう。お肉、お肉と。見るのが怖いけど、ステーキ肉、ステーキ肉は。あった……。……ATMは、どこ。「ただいま」「お帰り栞菜。お疲れ様」「ただいま涼介。買って来たよ。ステーキ用のお肉」「やったー!ありがとー!」……。「栞菜?どうかしたのか」「別にどーもしないよ」「でも、何だか様子が」「私が焼いてもいいの?それとも涼介が焼く」「栞菜に焼いて欲しいけど。いい?」「私は涼介の妻ですから、夫の為なら焼きましょう」「ねえ、やっぱり何かあったでしょう」「それでは、着替えてから早速、作りますので」「僕がステーキが食べたいなんて云ったのが、いけなかったのかなぁ」「うまい!何これ。美味すぎだよ」「あゝ、良かった」「栞菜は食べないの」「私はもう、胸が張り裂けそうで」「え、なんて云ったの」「涼介が元気になってくれたから、胸がいっぱいで入らないの」「栞菜、ありがとうね。ところで、この肉は幾らだったの。これほど美味しいんだから、和牛だろうし。高いんじゃない」「ひゃく……せんえん」「もう一度、云ってみて」「あーもういい。云うわよ」「や、やっぱりいいや」「涼介のステーキは、300gで、お値段は2万1千円になります」「ウソ。そんなに高いんだ。美味いわけだ」「6万4000円なんて、人をバカにした値段のお肉もあったよ」「栞菜」「涼介」ウワーン!その夜、私は涼介の胸で、思い切り泣いた。 次作へ ダウンロード copy いいなと思ったら応援しよう! チップで応援する #創作大賞2024 #お仕事小説部門 #連作短編 30