お願いだから貸してくれ 6話 30 紗希 2024年6月20日 04:47 梅雨が明けた。朝から太陽光が、ジリジリと容赦ない。「熱帯になった日本の夏が、今年も始まるぞ」涼介が朝食を食べながら、早くもウンザリ顔で云った。「そう云えば、栞菜は真夏でも半袖の服は着ないね。暑くないの?」「日焼けしたくないから」「ふ〜ん。でもパジャマくらいは半袖でもいいんじゃない」「エアコンが苦手だから、いいの」「確かに僕が暑がりだから、エアコンは、一晩中つけてるもんな」「そろそろ行かないと、遅刻するよ」涼介は、時計を見て慌ててオレンジジュースを飲み干した。「気をつけ行ってらっしゃい」「うん。栞菜もな」そう云って、私たちは、いつもの場所で、手を振りながら、別れた。店に着くと、パートの林さんが、若い女性と話しをしている。「林さん、おはようございます」「おはようございます。山根さん」「栞菜さんだ」「おはよう和歌ちゃん。引っ越すって本当なの?」「はい本当です」「そっかぁ。寂しくなるな」「ありがとうございます。でも柊しゅうと、決めたことなので」「柊くんは、もう」「はい。一足早く、引っ越しました」林さんが、懐かしそうな表情になった。「柊くんと和歌ちゃんが、部屋を探しに来てくれた日を、よく覚えてる。だから信じられなくてね」和歌ちゃんは、明るい声で、「あの時、私と柊に、今の住まいを案内してくれたのは、林さんでしたね」「そうだったわねぇ」「いい部屋を紹介してくれたので、楽しく過ごせました。ありがとうございました」林さんは、泣きそうな顔をしている。「年寄りを泣かせるもんじゃないわよ」「年寄りだなんて。林さんは、お若いですよ」「おはようございます」「あ、社長さん。おはようございます」「谷さんか。おはよう。引っ越すんだって?」「はい。お世話になりました。まだ数日はいますけど」「そうか。でも信じられないなぁ。ずっとこの街に居ると思ってたからね」「……私もです。そろそろ帰ります。部屋を片付けないと。家賃を納めに来ただけなのに、長居しちゃって」和歌ちゃんは、外に出ると、笑顔で、手を振り帰って行った。「せっかく和歌ちゃんと、会話することが楽しみだったのにな」そんな言葉を口にした私のことが、よほど寂しそうに見えたのか、林さんが私の肩を、ポンポンと叩いて、励ましてくれた。和歌ちゃんと、柊くんが二人で住む部屋を探しに、この店に来たのは、10年近く前になる。二人とも20歳で、恋人同士。同棲することに、しましたと柊くんは云ったそうだ。その後の2人の仲のいい姿を、店の皆んなは微笑ましく見守っていた。私が2人のことを知ったのは、たまたま店に顔を出してくれた時だった。それ以来話すようになった。一年前になる。齢が近いこともあり、2人と、特に和歌ちゃんと話すのが、楽しみになっていた。結婚するとばかり思っていた。私も。皆んなも。だから、柊くんから、「別れました」と訊いても、信じられなかった。こんなデリケートなことに、「どうして?」なんて、訊ける訳はない。でも心の中で、私は2人に云っていた。(どうして)と。「今年の夏こそ、泳ぎに行こう」そう、涼介に云われても私は黙ったままだ。「結婚する前から、栞菜とは一度も泳ぎに行ってない。どうして嫌なの」「嫌なものは嫌なのよ。理由なんか無い」私はそれだけ云って、シャワーを浴びる為に、椅子から立ち上がり、「涼介、ごめん」それだけ云って、浴室に向かった。私は自分の体を見る度に、心の底から悔やんだ。いつも涙が溢れた。「本当は、涼介と海に行きたい。行きたいよ」それを出来なくしたのは、紛れもなく自分自身だ。シャワーはいい。涙でぐしゃぐしゃな顔を、あっという間に洗い流してくれる。結婚したての頃に、涼介から「一緒に風呂に入ろう」と、よく云われた。「恥ずかしから」と、私は逃げた。ずっと、死ぬまで続くのだろうか。逃げ続けるしかないのだろか。私の、この先の人生も。お店の定休日に、私はホームセンターに行った。カーテンを、夏用に変えたくなったのだ。「いいのが見つかったら、涼介に相談してみよう」柄物より、やっぱり無地の方がいいかな。涼介は、案外ブラインドが好きかもしれないし。だから今日は下見ということで。私はホームセンターが好きだ。ソファーに座ってみたり、ベットに寝転んでみたり、家電品を見るのも楽しい。そんな風に、色々なコーナーを見て回っていた。「和歌ちゃんだ」脚立や踏み台のコーナーに、彼女はいた。「これから引っ越すという時に買うのかな」和歌ちゃんは、幾つもの商品に、昇ったり、降りたりを繰り返してる。「かなり念入りに試してる。もしかしたら、カーテンを外すのに必要なのかもしれないな。和歌ちゃんは背が低いから、とどかないだろうから」柊くんは、自分の物だけ持って、さっさと引っ越してしまったようだ。高い場所にある、棚に置いてある物くらい、片付けてあげたらよかったのに。その点は、私は柊くんに失望していた。和歌ちゃんは、ようやく買う品を決めたようだ。3段の小さい脚立だった。それを重そうに、カートに乗せるとレジに向かった。配達を頼むとばかり思っていた私は、会計を済ませた和歌ちゃんが、脚立を抱えて歩き出したので、驚いた。私は和歌ちゃんに駆け寄った。「栞菜さん。どうして」「こっちこそ、どうしてって訊きたいわ。それを持って電車に乗るの?駅からも結構歩くでしょう」和歌ちゃんは一瞬、動揺したように私には見えた。だけど、すぐに笑顔になった。「やだなぁ。タクシーで帰るんです」「タクシー」「そうですよ。ほら私は車を持ってないし。そもそも免許証だって無いんですもん」「タクシーかぁ。それは浮かばなかったな」「おっちょこちょいな栞菜さん」そう云って、和歌ちゃんはまた笑った。「本当よね」私も笑った。「一緒に乗って行きます?タクシー」「じゃあ、私が払うわ」「やったね」脚立は、私が持つことにして、二人でエレベーターで、下まで降りた。タクシー乗り場には、誰も並んでいない。運転手さんに頼んで、トランクを開けて貰い、脚立を入れると、私たちはタクシーに乗った。ここからだと、和歌ちゃんのマンションまで15分くらいで着くはずだ。幸い平日なこともあり、道路は空いていた。信号に、つかまることもなく、10分ちょっとでマンションに着いた。トランクから、出した脚立を和歌ちゃんは抱えると、「あとはエレベーターなので、自分で持っていけます。栞菜さん、ありがとう」「とんでもない。脚立から落ちないようにね」「大丈夫。じゃあ、おやすみなさい」「おやすみ和歌ちゃん」昼間の熱気が、そのまま残っている。まるで蒸し風呂だ。「半袖かぁ。随分着てない」家に着いた私は、ボンヤリとテレビを観ていた。歩き過ぎたらしく、ふくらはぎが少し痛い。「ただいま」あれ?涼介だ。リビングに入って来た涼介に、私は訊いた。「お帰り涼介。まだ7時半だよ。今日はパン教室の日じゃなかったの」涼介は、バックを降ろすとソファーに座った。「自分でも分からないんだけど、行く気にならなかったんだ」「そう。珍しいね」「初めてだよ。どうしたんだろう」「冷たい麦茶でも持って来ようか」「ありがたい」私は冷蔵庫から、麦茶の入ったタッパーを取ると、大き目のコップに注いだ。「はい、どうぞ」「ありがとう。いただくよ」涼介は、喉を鳴らして麦茶を飲んだ。「は〜うまい。栞菜は昔ながらのやり方で、麦茶を作ってくれるから、本当にうまいよ」「水出しだと、簡単だけど、麦茶の香ばしさが無いのよね。やっぱり大きなヤカンで作った麦茶の方が、美味しいよね」「まったくだな」「今日ね、ホームセンターに行ったのね。そしたら最近まで、彼氏と暮らしてた和歌ちゃんていう30手前の女の子にあったの」「30手前でも女の子なんだな」「小柄で顔も童顔だし、可愛いの。1人で脚立を買いに来てた」「脚立を」「そう。彼女、もうすぐ引っ越すから、片付けに使うのかなって思った。彼氏は先に引っ越しちゃったし」「男の方は、いないんだ」私は頷いた。「長いこと一緒に暮らしてたから、結婚するものと思ってたんだけどね」涼介は、何も云わなかった。次の瞬間、お互い顔を見合わせると、同時に立ち上がり、急いで外に出た。「タクシー、つかまえよう」涼介が、そう云った時、運良く空車のタクシーが通りがかった。私たちは、急いで乗り込むと、和歌ちゃんの住所を告げた。「運転手さん、その前に寄って欲しいところがあります」店の前で、タクシーから降りた私は、裏口の鍵を開けると、店内の鍵の保管場所にある、和歌ちゃんのマンションの合鍵を取ると、急いでタクシーに引き返した。「使わないで済むことを祈るよ」涼介は云った。マンションに着いた私たちは、エレベーターを待たずに階段を、駆け上がった。4階の和歌ちゃんの部屋のインターフォンを鳴らす。出ない。「間に合って。お願い」私はドアの鍵を開けて、部屋に入った。そこには、床に座り込む和歌ちゃんの姿があった。私は震える彼女を抱きしめた。「間に合って良かった」涼介が小声で云う。昼間買った脚立は、倒れていた。そして上からロープが垂れ下がっている。「和歌ちゃんの辛い気持ちは、私にも分かるよ。でもね」「栞菜さんに、私の気持ちが分かるわけない。涼介さんみたいな優しい旦那様が居る人になんか、分かるはずない!」暫く和歌ちゃんを、抱きしめていた私は、背中に回していた手を離した。和歌ちゃんは、強い光を放つ目で、私のことを見ている。私は、フゥッと息を吐くと、Tシャツを肘まで、捲った。和歌ちゃんは、驚いていた。涼介は、目を閉じた。「私にも分かるよ。和歌ちゃんの気持ち」私の肘の内側には、傷跡がくっきりと、残っている。付き合ってた人に私は騙されたことがある。信じていた人に、裏切られ、騙されていたことに気付いた時、私は何の躊躇いもなく、カッターを手にしていた。涼介と再会する、ずっと前のことだ。その夜、和歌ちゃんは声を上げて泣いた。気がつくと、空が明るくなっていた。泣き疲れて眠った彼女を見とどけると、私と涼介は、自宅へと戻った。和歌ちゃんは、もう大丈夫だろう。「涼介は驚いていなかったね。どうして」「栞菜、僕たちは夫婦だよ。いくら部屋の灯りを真っ暗にしても、裸になれば、自然と見えてくる」「……知ってたんだ」「うん。知ってた」私は何て云えばいいのか……。「今はね、傷やアザを隠す化粧品があるんだ。水に濡れても取れないそうだよ。だから栞菜は海にだって行けるし、半袖も着れるんだ」私は、何度も何度も頷いた。「今度、2人でデパートに買いに行かないか」「涼介」「ん?」「ありがとう」「愛する妻が苦しんでいるんだ。当然のことだろう?」そう云って涼介は、涙を指で拭った。3日後。和歌ちゃんは、実家に帰って行った。「暫くゆっくりしたら、また住むところを探します。この街のこと、私は好きです。今でも。お世話になりました。皆さん、お元気で」その言葉を残して。彼女らしい、夏空のような笑顔も一緒に置いていった。 次作へ ダウンロード copy いいなと思ったら応援しよう! チップで応援する #創作大賞2024 #お仕事小説部門 #連作短編 30 2