お願いだから貸してくれ 最終話 20 紗希 2024年6月23日 13:08 古田社長が……辞める?「実は、以前から家内の体調があまりよくなくてね。検査の結果、入院することになったよ。なるべく傍について居ようと思ってね。苦労をかけて来たことへの、詫びも兼ねて」急すぎて、頭がついていかない自分がいる。この不動産屋は、どうなるのだろう。閉めるのだろうか。「それで、この店についてだが」……。「川谷くんに頼もうと思ってる」川谷さんは、椅子から立つと、私のデスクまで来た。「ひと月ほど前に、古田社長から、この話しを伺い、今日まで考える時間を貰ってました」「はい」「私のような者が、この店を引き継ぐのは、山根さんにとって、とても不安なことだろうと思っております」「そんなことありません。川谷さんなら、きっと大丈夫です」「ありがとう。山根さん」川谷さんは、そう云うと、深々と頭を下げた。「そんな。頭を上げてください」古田社長は、「僕も、ちょくちょく顔を出すつもりでいるし、急に何もかも川谷くんに、押し付けたりはしないので、山根くんも心配しないでください」そう云った。「おはようございます」驚いて振り向くと、澤田社長が入って来たところだった。「澤田社長にも、川谷くんの支えになって欲しいと頼んだんだ」「山根さんだったね。一度しか会っていないが、わたしのことを、覚えてますか」「はい。もちろんです。でも、澤田社長がこの店のことを、となれば」澤田社長は、「建設会社には、わたしの席が空くのを、首を長くして、待ってた愚息がいますからね」そう云って笑った。「だが、愚息には目を光らせて行きますよ。それは、この店の為にもなるからね」良かった。澤田社長のお陰で、住む場所を見つけることが出来た人が、何人居るか分からない。本当に、頼りになる人が来てくれて、私もだけど、それ以上に、川谷さんが安堵したことだろう。「じゃあ、川谷さんが次の社長になるわけだ」素麺を食べながら、涼介は云う。「うん。宅建の資格も持ってるし。暫くは古田社長が川谷さんと、挨拶回りをするんですって」 「そうか。慣れない間は、栞菜も神経を使うことも多いだろうが、その分ここでは、手抜きすればいいさ」「それなら夏の間は、毎日素麺でいい?」「毎日はちょっと。あ、ヤバ!」「も〜。また七味を入れすぎたんでしょう」私はブツブツ云いながら、冷蔵庫から、ヨーグルトを取り出すと、涼介に渡した。「わるい」そう云うと涼介は、ヨーグルトを掻き込んだ。少しすると、鼻を摘んでいた指を離した。「辛かったぁ〜。涙がまだ出てくる」「毎回よく同じことを繰り返すよね」「すいませんね。学ばなくて。でも」「でも?」「いや、別に何でもない」「そう云うのが、一番気になるでしょうが。最後まで話してよ」 ズルズル「ねぇってば」「僕の七味の入れすぎも、毎回だけど」「うん」「栞菜だって、蕎麦を食べる度に、ワサビを入れ過ぎてるのにって思っただけ」私は黙って素麺を啜った。部屋には、素麺をすする音だけが響いた。 ズルズル ズルズル翌朝。「栞菜、まだ7時なのに既に、32度だって!」「訊いただけで、気持ちが萎えそう」外はもう熱射地獄が始まりつつある。「お互いに、熱中症には気を付けましょうね」「そうだな。じゃあ行くか」今日も、それぞれの職場に向かう。「靴を履いてるのに、アスファルトから、熱が伝わるって、異常だと思うけど」「おはようございま〜す」「おはようございます。暑いね〜」パートの林さんも、うんざりしている。「本当ですね。いよいよ地球が我慢の限界を超えそうで。 もう超えてるのかもしれませんが」「分かってはいるけど、冷房しないと、命が危険だしねぇ。今朝もこの暑さのせいで、救急車で運ばれたのよ。清風荘の新井さんが」「え、大丈夫なんですか」「ええ。意識は戻ったそうだから」良かった。また新しい1日が始まる。気を引き締めよう。ところで、川谷さんがまだ出社してない。「川谷さんだけど」と、林さんが話し出した。「お母様が怪我をしたそうなの。妹さんからの連絡を受けて、急遽田舎に向かうことになったって。だから今日は、休むと連絡があったわ」そんな……。「訊いてください!」緑の髪の流風くんが、飛び込んで来た。「どうかしたの」「2年前から、妹の桃香と2人で、路上ライブをしてるんですが」だからこの髪色だったのか。「一昨日、音楽関係者の人に、声をかけてもらったんです」「それって、もしかして、CDを出すとか、デビューするとかの話しなの?」林さんが、訝しげに訊いた。「スゲェ。林さんのいう通り、うちからデビューしないか。CDを出すからって云って貰えたんです。夢のようで、まだ実感が湧かないんです」林さんは、私を見た。たぶん私と同じことが林さんの頭をよぎったのが、伝わってきた。「どうしたんですか。山根さんも林さんも。オレと桃香がメジャーデビュー出来そうなんですよ」「……おめでとうって云ってあげたいけど」「けど、なんですか林さん」私が流風くんに訊いた。「お金を要求されなかった?」「要求って言うか、CDを出す前に色々プロモーションが必要だからとは」「幾ら払ってと云われたの」流風くんはムッとした表情にになった。「50万です。でもデビュー出来るならそれくらい」「まさかもう相手に渡したの?50万」林さんの声が大きくなった。「まだですけど。次の給料が入ったら、貯金も降ろして払う予定です」「まだ渡していないのね!」林さんの声が、1オクターブ上がった。「そうですけど。何なんですか。オレ、嬉しかったから、最初にこの店の人達に報告しようと思って。だから来たのに」流風くんは、明らかに失望したようだった。「あのね流風くん」私の言葉も今の流風くんは、訊きたくない気持ちが、見て取れた。「それは詐欺よ」林さんが云うと、流風くんは「もういいです。喜んで貰えると思ったオレが馬鹿だった」それだけ云って、彼は店から出て行った。林さんは、「店に来てから、まだ何にも仕事してないのに、疲労困憊よ」川谷さんのことと云い、本当に大丈夫なんだろうか。私の気持ちにも、暗雲が立ち込み始めていた。小さな、ため息を付き、私は椅子に座った。どうして心配ごとは、いっぺんに、やって来るんだろう。電化製品が、壊れる時みたいに。「皆さん、おはよう」低いけど、よく通る声の澤田社長が店に来た。 私たちの顔を見て、澤田社長は、苦笑している。「不思議だよね。悪いことに限って、重なるって」「澤田社長、大丈夫でしょうか。こんな状態で、やって行けるのか。怖くなって来ました」澤田社長は頷き、そして云った。「船はもう出航したんだよ。山根さん。海は多少荒れているようだがね」「……」「何かを始めようとすると、必ずと云っていいほど、高波がやって来るものだ。わたしも何度か経験したが、古田社長も同じだろう」「はい……」「何とかなるものだよ。山根さん」「もし、何とかならなかったら」「何とかならないなりに、何とかなるだよ。おちょくってるわけじゃないよ。経験上の話しをしているんだ」「あの。入っても構わないですか?」「いらっしゃいませ。どうぞ、おかけになってくださいませ」林さんに云われて、50代と思われるその男性は、ホッとした様子を見せた。「狭いから余計に暑いのよね。このキッチンは」冷えた緑茶を湯呑み茶碗に、と思ったが、ガラスのコップに代えた。こっちの方が、たくさん入る。この暑さの中、来てくださったのだ。お客様も喉が渇いているだろう。「よし!行くぞ」澤田社長にも緑茶の入った、コップを置いた。「お、ありがとう山根さん」私は笑顔で社長を見た。「覚悟が出来たようですね」「もう港には引き返せません。それに、何とかならなくても」「それなりに、何とかなる」そう云って、澤田社長は笑った。今夜は、どんなパンをお土産に、涼介は帰って来るのだろう。楽しみを一つ、見つけた。「いらっしゃいませ。暑いですね」緑茶の入ったガラスのコップに、真夏の陽射しが当たって、虹色に光った。「どのような、お部屋をお探しでしょう」 了 ダウンロード copy いいなと思ったら応援しよう! チップで応援する #創作大賞2024 #お仕事小説部門 #連作短編 20 4