お願いだから貸してくれ 4話 23 紗希 2024年6月16日 00:52 (お名前、木下右京さんと仰るんですか)(はい。両親が2人共あの人気ドラマのファンなもので。全く人の気も知らないで。お恥ずかしいです)(恥ずかしいですか? 私もあのドラマは好きで、毎週録画して観てます。杉下と木下。センスいい)(センスいいって、変わってますね。山根さん)(変人ですから私。あはは)(お聞きしたいのですが、山根さんの、名前はなんて読むんですか?)(栞菜かんなです。読むの難しいですよね)(でも、可愛いと思います)(ありがとうございます。嬉しいです。木下さんは獣医学部なんですか)(はい。子供の頃から動物が好きでした。それで)(“動物のお医者さん”ですね)(あの漫画、面白いですよね)(はい。全巻持ってます。大好きだから)(同じく。はははは)「木下さん、家賃の滞納はないわよね」「木下さんの家賃は、ご両親が毎回振り込んでますから。彼がどうかしたんですか?」「う〜ん」川谷さんが難しい顔をしている。「大学に行ってないみたいなの」「行ってない」「そう。それに同じマンションの人たちも、ずっと見掛けないし、階下の人も、両隣りの人も、何の音も聞こえて来ないって云うのよ」林さんが、オヤツのプチシューを摘みながら、「そんなもんじゃない。同じマンションに住んでいたって、顔も見たことが無い人っているもの」と云った。川谷さんは、考え込んでいるようだ。「林さんの云ってることも、分かるんだけど、上の階に住んでる人の音って、たまに訊こえたりしないかな。ギシッとか。それで『居るんだ』って分かったり」「私の家の上に住んでる人は、かなり大きなくしゃみを連発するから、訊こえないと、逆に心配になりますね」私の意見を訊いた、林さんと川谷さんは、笑いながら、「花粉ね。間違いなく」私が初めて木下さんと、会ってから、まだ半年も経っていない。例の、名前の話しをした時だ。木下さんが、ここでマンションの契約をした頃は、私はまだ、この不動産屋で働いてはいなかった。あの日は、たまたま木下さんが、頂いたというGODIVAのチョコレートを持って、ここに立ち寄ったのだった。甘い物が苦手なんですと云って、わざわざ届けに来てくれた。「GODIVAのチョコレートなんて、高級なので、私も2、3回くらいしか食べたことが無いですよ。凄い物を頂いたちゃった」と、そんなたわいも無い会話をしたくらいだ。動物が好きで獣医学部で学んでいる木下さんに、いったい何があったのだろう。「心配した学校側が、木下さんの携帯にかけたらしいんだけど、出なくて。それでご両親に連絡をしたらしいの」「ご両親は、何て?」林さんが、最後のプチシューを食べ終えると、川谷さんに尋ねた。「心配はしてるみたいだけど、お父様が入院しているので、付き添っているお母様も簡単には来れないんですって」「木下さんの実家は、遠いんですか」空になったプチシューの容器を、林さんから受け取ると、私はゴミ箱に入れながら、そう訊いてみた。「かなり遠いのよ。八丈島だもの」「八丈島。それじゃあ簡単には、出て来れませんよね。ましてや、ご主人が入院してるなら、なおさら」川谷さんは、そうなのよ、と云い、困った様子だ。「ただ、お母様は、もう少し待ちたいと仰るの。あまり騒ぎになって欲しくないからって」その時、裏口から社長が入って来た。「だが、何かあってからでは遅いだろう。川谷くんと山根くん。明日彼の部屋の様子を見に行ってください」「はい。分かりました」「他人の部屋に、黙って入るのって、なんとなく嫌な感じがする。仕方ないけど」私は半額になっていた、お寿司を食べながら、不満と不安を口にした。「まぁね。栞菜の気持ちは最もだけど、これも仕事の内だからな。仕方がないんじゃないか」涼介は、ネギトロの軍艦巻きを、醤油につけて、ポイっと口に放り込んだ。「あ、あ〜!」「な、なんだよ。驚かせて」「そのネギトロは、最後に食べようと、とっておいたのに」涼介は、ニヤッと笑い、「食べたい時に食べるのが、美味しいの。残念でした」と、憎まれ口をきく。「いいわよ。なら、これは頂くわね」「や、止めろ!穴子は僕の」「ん〜美味しい」「ヤな性格だな、栞菜は」「どっちがよ」私たちは、暫く黙って食べることにした。「その大学生、何もなければいいな」「うん……」翌朝、1番で川谷さんと2人で、木下さんの住むマンションへと、車を走らせた。「学生さんでマンションって、凄いですね」「山根さんは、初めて行くんだったわね。マンションっていっても、3階建ての小さな建物なの」「そうなんですか。安心しました」「どうして山根さんが、安心するの?」「ん〜。どうしてでしょう。学生さんには、余り贅沢はして欲しくないのかも」川谷さんは、クスッと笑った。「何か変なこと云いましたか。忘れてください」「笑ってごめんなさい。なんかね、それが山根さんの本心なら、何となく昔の、母親みたいだなって思ったの」「昔の」「そう。贅沢したいなら、自分で稼げるようになってからにしなさい。私の母のセリフだけどね」「アハ。そうですね。なんとなく、分かります」「さあ、着いたわ」川谷さんは、マンション専用の駐車場で車を停めた。私はドアを開け、表に出た。「このマンションですか」「そう。小さい建物でしょう?ここの3階に、木下さんが住んでる部屋があるの。行きましょう」「はい」私は川谷さんの後に着いて、マンションに入った。「3階建てだから、エレベーターは、無いですね」川谷さんは、頷き階段を昇り始めた。結構、段差があるので、昇って行く内に、脚が疲れて来る。「301号室。ここが木下さんの部屋よ。中に入るわね」そう云うと、川谷さんは、持ってきた鍵を、鍵穴に入れて、左に回した。カチッ小さな音が、廊下に響く。「何回入っても、気持ちのいいものじゃないわね。山根さんは初めてだから、緊張するでしょう」「は、はい」「私が居るから大丈夫。では入るわよ」カーテンが閉まっているせいか、昼間なのに部屋は薄暗かった。川谷さんが、壁のスイッチを押すと、パァッと部屋が明るさを取り戻した。これだけでも、気持ちは、だいぶ違う。部屋の印象は、男の子らしい感じはしたが、たいして、散らかってはいない。木下さんは、案外、綺麗好きな性格なのかもしれないなと、私は思った。川谷さんは、もう一つの部屋に入ろうとした。だが、急に脚が止まった。「川谷さん?」振り返った川谷さんの、様子が変だ。顔色も悪い。「山根さんは、ここに居て」「何でですか。私も行きます」「だめ!」その声に、私は一気に緊張感が、高まった。「とにかく、そこに居てね」訳が分からず、私は返事をするのも忘れていた。チッチッチッ目覚まし時計の秒針の音が、やけに大きく聴こえる。川谷さんが、なかなか出て来ない。隣の部屋は、どうなってるの。まさか。ううん。そんなはず無い。木下さんは、そんなことを、するはずが無い。だって憧れていた、動物のお医者さんが、すぐ近くまでやって来てるのだ。自ら、命を断つようなこと。木下さんは絶対にしない。とにかく川谷さんが、中々戻らない理由を私は考えていたが、何も浮かばない。川谷さん、私はもう限界です。そっちに行きますから。私は、隣りの部屋を覗いた。「!!!」「山根さん!来てはダメだと云ったでしょう」どうしたんだろう。声が出て来ない。私は、後退りした。私と川谷さんが、目にしたことは。「あれ?外の電気も点いてないや。栞菜は帰ってないのかな」涼介はドアを開ける。家中、真っ暗だ。急いでキッチンへと向かう。「キッチンも常夜灯すら、点いてない。キッチンだけじゃなく、家中が闇に飲み込まれているみたいだ」栞菜の姿がない。「栞菜?帰ってないの?」そういえば、今日は姿を消した、大学生の部屋に行くと云ってたな。嫌な予感がする。「栞菜、栞菜。居るなら返事をしてくれ」その時、窓の傍で座っている、月に照らされた、人間のシルエットが目に入った。「栞菜、どうした。大丈夫か」黙ったままの私に、涼介は近づいた。私は床に座って、膝に顔を埋めていた。涼介は私の隣に、座った。「泣いてるの?何があったのか、話しは出来そうか?」私は、ゆっくり顔を上げて、涼介のことを見た。「今日、木下さんの部屋に入ったの。そしたら、そしたら」「落ち着いて。ゆっくりでいいから」川谷さんと私が見た光景は、異様だった。【山根栞菜】そう書かれた紙が、部屋中に貼ってある。あちこちに、私の名前が書いてある紙が、貼り付けてあったのだ。何枚も何枚も。それは貼られていた。何枚も何枚も。思い出した私は、涼介にしがみついた。「よしよし。怖かったね。僕が、ここにいるよ。もう怖がらなくてもいいんだよ」私は、いつまでも、涼介に抱き付いたままだった。「あの日、木下さんは、山根くんに一目惚れしたんだろう」社長は、そう云った。「自分の気持ちを、どうしたらいいのか。彼は分からずに、栞菜の名前を書いた。そして壁に貼ったんだろう」「涼介、寒いよ」私は云った。涼介は、私を思い切り、抱きしめてくれた。「木下くんは、もう直ぐ姿を見せるだろう。そんな気がする。だから安心していいんだよ、栞菜」涼介の云う通りに、それから2日後に、木下さんは、友人のところから、戻った。 次回へ ダウンロード copy いいなと思ったら応援しよう! チップで応援する #創作大賞2024 #お仕事小説部門 #連作短編 23 4