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ありふれた檻

──私たちは、決めつけの檻の中から逃げ出したかった。
ただそれだけだった。
どこで間違ったのかな。
日常だったはずの檻を飛び出した時、怖いものは何ひとつなかった。
私は陽の光を集めて、どこまでもどこまでも飛べる気がしていた。

第三の被害者、大豆生田おおまみゅうだ美鳩みくの死から三日後のことだ。
相変わらず進展しない捜査状況とは裏腹に、私の身の置き場は大きな変化の兆しをみせている。

──「烏丸、悪いが…………この捜査から外れてくれ。」

本部長が重たげに口を開く。
あえて喉に詰まらせるように話しているのだろう。
私の苗字の後に吸気一回、話の核の手前で吸って吐いてを二回。
咳払いをした後は、すっかり役柄・・を忘れたみたいに流れるように言って退けた。

聴き慣れた台詞だ。
あまりの捻りの無さに卒倒しそうだった。
もし台本にコーヒーをこぼして文字が黒く溶け消えてしまっても、謝罪の言葉の背後霊はすでに演者の唇の裏にいる。
それほどまでに使い古されて来た台詞だ。

磁石がN極とS極とで引かれ合い、同極同士で押しのけ合うのと同じくらい、“春”とくれば“あけぼの”であることくらい、盛者は必ず落ちぶれるという希望的観測の如く、
わかりきっていてありふれたもの。

こんな時、これまでの自分の功績のようなものが自分の横を一発免停くらいの速度で駆け抜けていくはずだが、自分の鼓動しか感じないほどに「静」である。
左には後輩の羽鳥君、右の床には綿埃が微動だにせず、天井から真っ直ぐに落ちてくる蛍光灯の白い光を吸い込んでいる。

午前八時四十七分、重苦しい室内の空気とは無関係に時計の針は淡々と時を刻む。
ただ、今私は三秒を二.九秒として認識している。
なんとなく、居心地が悪い。

舞台は、捜査員が一堂に会する所轄におかれた薄暗い捜査本部。
部屋の入り口には仰々しく「無差別連続ばらばら殺人事件」という貼り紙がされている。
もちろん縦書き。
“殺”の字の一番最後の一筆に並々ならぬ力がこもり、それゆえに掠れている。

一人の若い刑事が本部長に呼ばれ、前に出る。
会議室内の全視線を背中で受ける彼女に、
本部長は深刻な面持ちで、深く沈み込んだ低い声でこう切り出すのだ。

「君、申し訳ないけど……」
ここに続くのはもちろん、“この捜査から外れてくれ”である。

しかし実際に聞いたのはこれが初めてだ。
それも、今まさに自分に対して放たれたのが鋳型にはめられたかの名台詞。
刑事ドラマの解の公式に当てはめるのなら、ここで悔しがらなければいけないのに、このシチュエーションに心が踊ってしまっている。

頬骨が幾度となく皮膚を押し上げんとしてくる。
私はうつむき気味に右手親指で右の、人差し指と中指で左の頬骨を必死に押しつぶす。
上がってくる口角は掌でひた隠しにした。
身体はぶるぶると震えている。
幸い、これが“悔しさと怒りに震える期待のエース”といった気分を上手いこと盛り上げることとなった。
“期待のエース、故に僻まれがち”ここまで導き出せる。
我ながら名演技だ。
もちろん、台本にはない。
アクシデントをチャンスに変える起死回生のアドリブである。

「ちょっと待ってくださいよ! 烏丸さんがこの事件にどれだけの……」
「いいの、羽鳥君。」
「でも!」

上長からの理不尽な通達に、自分よりも先に立ち向かっていく熱い部下。
そしてそれをなだめる当事者。
それでも食い下がる部下。

完璧だ。
理想的な展開に私の身体の震えはさらに小刻みになっていく。
血が滲むほどに強く下唇を噛む。
痛みすら、気分を盛り上げてくる。

「気持ちはわかるが……」
決断を曲げるつもりなど毛頭ないくせに、理解を示すポーズだけはとるのだ。
犯人以外に配備するのなら、少しの人情味を残した敵役が必要だから。
そう、犯人の残虐性が高ければ高いほど。

抱えた頭にしがみつく毛髪はない。
仕方なしに後頭部で手を組んでこう叫ぶのだ。

「ひとまず君たちは持ち場につくように!」

私と羽鳥君との間を本部長の指令がすり抜けていく。

捜査員たちはばらばらと散らばっていく。

背中に突き刺さっていた視線の刃は一本、また一本と引き抜かれていく。

「あいつ終わったな……」
「出しゃばるからだよ」

高卒のくせに、現場経験少ないくせに、女のくせに……
三秒の言葉の中には、溶かしきれないほどの言外の意味が乗せられている。
もはや意味をなしていないメッキの如く、言外の意味の方がザラザラと脳に直接的に流れ込んでくる。

傷口には塩。
泣けば蜂が飛んでくるように、当然のことのように出る杭は打たれる。

それが世の常でしょう。

「部長、これを。」

私はずっと書き溜めてきた捜査ノートを本部長に渡す。

建て替えられたばかりの庁舎の窓から差し込む光が、一冊のノートを介してつながる本部長と私の手を照らす。

「……ご苦労さん。」
一瞬だけ視線がぶつかる。

その視線は安堵と懐疑と牽制で武装して私の網膜を貫いた。
丸腰の私の視線は無抵抗に砕かれ床に落ちている。

形はどうであれ、枕詞の如き“申し訳ない”から導き出された本部長ご所望の正解の行動を私はとれている。
だがしかし、ドラマ的には不正解だ。
否、刑事ドラマの解の公式としてはまだ不十分だ。

それに、捜査本部を表す貼り紙はA4サイズの紙に印刷された少し大きめの丸ゴシック体。
壁を傷めないようにと緑色の養生テープで貼られている。
そこはせめて、もっと色々なことに無頓着な無骨な茶色の布ガムテープじゃないといつまで経っても公式は解けない。
そんなことを考えていたら、捜査本部に向けて一礼するのを忘れてしまった。
羽鳥君は律儀に両腕を体側にぴったりとつけ頭を下げている。
遅れることおよそ八秒、私は彼の尻に、羽鳥君は捜査本部に向かって頭を下げている。
悔しさに打ちひしがれても、礼は欠かない。
ひとまずワンシーン、悲劇の主人公を演じきった。

午前九時二十二分。
窓が陽射しで温められている。

「なんでもっと食い下がらないんすか!」
「決まりは、決まりでしょう?」

私は五本目のスティックシュガーを溶かしている。

「らしくないじゃないですか! 烏丸さん、言ってくれましたよね? 必ずホシをあげようって。」
羽鳥君は相変わらずドラマの中の刑事像のお手本の如く振る舞っている。

私は窓越しの十二月某日をぼんやりと眺めた。
散々捜査会議で日付けを聞いたはずなのに、なぜかその記憶だけが抜け落ちている。
否、どこか遠いところに飛ばされてしまったかのような感覚がある。

二羽の鳩が羽を大きく広げ、睨み合っている。

……らしくない?
確かに、らしくないかもしれない。

私が捜査を外されたからといって捜査が滞るなんてことはない。
だって、これは現実だから。
私だけが犯人を知っていて、もう犯人の潜伏先までわかっている。
しかし、なんとなく決め手に欠けるから確固たる証拠を探している。
という状況ならまだしも、もちろんそんな状況ではない。

ドラマの中の刑事はファンタジーだ。
私は刑事ものはファンタジーとして楽しんでいる。
だってそうでしょう?
犯人の痕跡が都合良く自分の行きつけの店に残されていることはまず、ない。
そもそも捜査権もないのに首を突っ込むということはまず、ない。
だから情報をポロッとこぼしてくれる捜査員というものもまず、いない。
よって、普段は敵対しているのにいよいよ主人公が手詰まりになるとポロっと口を滑らせる捜査員というものは存在しない。

せいぜい、困り果てた時に壊れかけの穴あきボートくらいをだしてくれる奴がかろうじているかいないかくらいだ。

羽鳥君は私のこの諦めに似た感情を読み取って、らしくないなんて言っているのだろう。
きっと、理不尽にも立ち向かっていく強い人だと思ってくれているから。

彼の中の私もまた、ファンタジーなのだ。
だって、現に私はもう捜査権を手放したのだから。

「そうだね。」

私は、らしくない甘ったるいコーヒーを口に含む。

「でも、これチャンスじゃないですか? 時間ができたんですよ! せめて独自に捜査……」

どれだけ羽鳥君が熱くなっても、冷めたコーヒーが温まることはない。
私は奥歯でジャリジャリと溶けきらなかった砂糖を噛む。

「そんなのドラマの中だけの話でしょ。やめてよね、一週間以内に画面の上の方で羽鳥くんの名前見たくないから私。」
「いやなんで俺だけなんすか? その時は烏丸さんの名前も並びますからね! なんなら烏丸さんの名前の方が先に出るんじゃないですか?」
「はあ?」
「先輩だし。」
「ああ……」
「あいうえお順でも烏丸の“か”と羽鳥の“は”なら“か”が先だし。」
「何それ。」

羽鳥君の、このよくわからない理論でボケながら論破してくるあたりを実は買っている。
引っかかりがあるとき、当たり前のことをさも重要なことのように言われると途端に現実に引き戻される感覚があるのだ。

つい最近であれば、被害者でありながら、コメンテーターにすらこき下ろされた浅木椋の交友関係を洗っていたとき。
あれは強烈だった。

遺留品の黄色のスニーカーと、「生」から「死」へと向かわせる装置としての総武線、警告を与えられなかった無力な存在としての黄色い線。
全てを黄色に責任転嫁した推理。

羽鳥君には申し訳ないけどこれを聞いたとき私、心の底から笑えた。

「ちょっ!! 烏丸さん! そんなに笑わなくても!」
踵に重心をかけ、前屈み気味になりながら唇を尖らせている彼の姿がまた私の横隔膜を泣かせる。

「烏丸さん! 笑ってる場合ですか?」
「え? ご、ごめん。また思い出し笑い……」

また怒りが再燃してしまった羽鳥君は、前歯の裏側と舌との間で言葉をすり潰そうとしている。

窓の外の二羽の鳩は羽を撒き散らしながら上下反転を繰り返している。

「どうしちゃったんですか? 本当に……らしくもない……」
「らしくもないついでにずっと言いたかったこと、言ってもいい……?」
「え?」
「黄色を愛し、黄色に愛された男! 黄色に生き、黄色に散る……」

何を言っているのだろうか。
何を笑っているのだろうか。
でも、私はもう逃げも隠れもするつもりはない。

私は羽鳥君が、死者への冒涜はやめろとかなんとかって持ち前の熱血刑事の如くたしなめてくれることに期待していたけどどうにもそれは叶いそうもなかった。

一羽の鳩が、もう一羽の首元にくちばしを突き立てている。
平和は誰かの絶望の上に成り立っているのだろう。
わかっていたつもりだが、改めて突きつけられるともうその感情に説明を施す気力は残されていない。

──「これ、朱雀ふみかさんの勤務先のインスタグラフに寄せられたDMのリストです」
「それならもう、悪意のありそうなのは調べ済みだよ。読んでないの? 資料。」

鑑識の鴻森こうのもりは視線を前方の紙束へ向ける。
目には光がない。
五分まで安置室で眠っていて、何かの拍子に蘇って、ちょうど今持ち場に着いたところといった様子の彼に私は容赦なく続ける。

「これ! これ見てください!」
「見ない! 見ません!」
「見てください!」
「見ない!」
「見て!」
「見ない!」
「見ろ!」

鴻森はなかなかに難攻不落だ。
互いに息が上がっているのがわかる。

だが鴻森、こちらには切り札がある。

「……百人いたら千人がかわいいって言う女の子を見ろ!」
私は例の、人を疑うことを知らない朱雀ふみかの屈託のない笑顔を印籠の如く胸の前に突き出した。

鴻森が身体ごとこちらを向く。
……よし。
陥落させた。

「お前らしいな……」
「え?」
「目的達成のためなら手段を選ばない。」

鴻森の視線は朱雀ふみかを通り越し、私をとらえている。
「数式だって捻じ曲げちまう。百の中に千は入らねえよ!」

なぜこうも正論というものは人を苛立たせるのだろうか。

「同期のよしみで、とかなんとかそれくらいのこと言ってみせろよ。」

私からしてみれば、“同期のよしみ”なんかで覆される捜査方針の方がよっぽど問題である。
絶対に言ってたまるかと鴻森を睨みつけた。

「お前らしいな……」
繰り返される鬱陶しい言葉に私は混乱している。
同時に激しく苛立っている。

私らしさって一体なんなのだろう。
私利私欲のために数式を捻じ曲げるところ?
それとも、同期のよしみという響きに居心地の悪さを感じてしまうところ?
それとも都合が悪くなると黙って睨みつけるところ?
こんなに可能性を指摘して、墓穴を掘るところ?

自分で掘った墓穴の中でうずくまる私を放ったまま鴻森はパソコンに向かっている。
違うな。
私が墓穴を掘っていることにすら気づいていない。

手元の捜査資料の朱雀ふみかの笑顔に魅入る。
全てを諦めたような、苦虫を噛み潰したことを平然と隠蔽したような、そんな笑顔だ。
憂いを磨き続けて来たのだろう。

捜索願いの中ですら、彼女はひたすらに輝いていた。
掲示板に貼られたポスターの写真を撮っていく者を何人も見た。
私はその度に食道を逆流してくる熱さに耐えかねていた。

「探さないで」
なぜ聴こえない?
なぜ彼女の声を聴こうとしない?

自分とは正反対の小さな身体で精一杯の叫びを放つ朱雀ふみかに、なぜ誰も気づかない?

──今、私は冷たい薄明かりの部屋にいる。
またあの日のように胸焼けしている。

でも、吐こうとしたところで何も出ないことはわかっている。
どうせまた、喉が切れたように鉄の臭さを感じるだけ。
気休めに胃薬を漁りにいく。

胃のあたりがおかしいと妙に頭はクリアになる。
今日で、大豆生田美鳩の死から五日目だ。

街はまたすっかり平和ボケしている。

パタパタと高い音の足音が聞こえる。
「ママー! お花! お花欲しい!」

「待って、待って、止まって!」
という声が不規則なバタバタという先ほどよりも低い足音とともに近づいてくる。

「だめ! このお花は……だめ!」
忌々しいとでも言いたげだが、それはあまりにも曲解し過ぎだ。
頭ではわかっている。

「このお花はね、死んじゃった人のなの。だからね……」

死んじゃった……?
大豆生田美鳩は死んじゃってなんかいない!
死んだ・・・のだ!

自分でもよくわからない。
叫んでいた。
頬が濡れて、かゆい。
頭が痛みで包まれて、音がぼやける。
行ったこともない、深海の底に沈み込んだような感覚。
不思議と怖くはない。
ただ、柔らかく重い。

大豆生田美鳩の殺害現場が奇しくも私のアパートから目と鼻の先……否、地続きの隣り合った場所だったから。
それが捜査本部を外された表向きの理由だ。

気付けば大豆生田美鳩の最期の場所に立っている。
私が置いた、季節外れのハナニラの花は姿を消している。

先ほどの声と足音が去っていった方向を、伏目のまま睨みつけ舌打ちをする。

──この檻は非日常。
重くて冷たい、非日常。
あの日渇望したはずの、非日常。
ねえ、ミク。
あなたは何になりたかったの?
私はまた、見失った。

怖いんだ。
何かになれた先に、また別の檻が平然と待ち構えているであろうことを知っているから。

私たちはあといくつ、自分の手で選び取れるのだろう。

冷たい風が、爪を冷やしながら月の方へとすり抜けていった。



前編はこちら。

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