空白の襟元
──拝啓 小村憲一郎教授
「憲」の字が、真っ黒く潰れてしまった。
大きな黄色の日傘の下、露草がへばっている。
他の下宿人たちが竹の節に引っかかるそうめんに大笑いしている傍ら俺は筆をとる。
──まるで朝も晩も関係のない季節と相成りました。
こちらは夜にも太陽が月の下で笑うております。
先生のことですから、まだ書店あたりにてあちらへお持ちになる書物をさがしておられるのでせうね。
さて、先生。
まず謝らねばならないことがございます。
あの日、研究棟の藤の花が満開だと教えてくださいました。
しかしながらあの時分、小生は大変神経を弱らせておりましたから藤の花など見た日には垂れ下がる蔓にて首を括り、醜き藤色と化し季節の移り変わりと共に朽ちていく、そんな未来すら描けぬほどでした故。
どうぞお許しください。
いかんせん、貝ひもで天を目指した男です。
こんなことを申し上げておいて、実はあの日初めてカフェーといふ処へ行っ……
リーン……リーン……
甘辛いつゆの香りで風鈴が揺れた。
文字のうわずっていくのに気付く。
小さな文字がこぼれ灰の焼け穴の如く広がっていく。
引き攣る咽喉で逆流する苦みを飲み下した。
──ったのです。
キャンバスに乗る憧憬ばかりの巴里の街並みの眩しいこと。
豪商たちのデカ腹も思ひ返せば面白く、あのステッキにて突けば内から水素の破裂が聴こえたやもと想像を逞しくしているところでございます。
学生の身ながら、一端に珈琲など嗜んでみたのです。
幼少の時分、こっそりと小豆の茹でこぼしを舐めてみましたが、いかようかその面影を思い出しました。
黒水面 映せし天の硝子房 いたけき舌に渋きことかな
人目もございました故、格好の一つもつけたく痩せ胸に痩せ我慢を強い、角砂糖喰ひし学帽の横、気づかれぬよう瞳を白やら黒やらに変えておりました。
と、書きますと「珈琲の苦味に辛抱す」の意味するところと語学の猛者に叱咤されるでせうか。
とはいえ、あの日は舌に麻酔でもかかったようで味はございませんでした。
我が舌は名もなき猫でございますから。
万年筆が繊維でつまずいた。
俺は鳩尾を抑えてうずくまる。
記憶が臭気を帯びて、逆流し始める。
珈琲にウヰスキー、それにバニラ、バタ、コマギレのビフテキが頬骨の裏で燻っている。
いやに素直な唾が奥歯を溶かさんとする。
──吾輩は二十一である。草煙は好かん。
しかし、煙草といふものへのほのかな憧れを捨てきれずにおりました。
絵描き物書き、カキモノには燻らす煙が不可欠と言わんばかりに皆、こぞってその口元から白灰の狼煙を噴き上げるではありませんか。
物思ひに耽る時、思案にフケを撒き散らす際にも。
小村先生も、また同じだったことと存じます。
春の初め頃、小生の無礼なる歌の隅が焦げておりました。
ここで、顔見知りの男が別卓にて一丁前に燻らせてお……
首を振る。
あの頃の俺はまだ妄想に取り憑かれながらも生き延びていた。
「死」を意識する「生」にしがみついていた。
時が経つとは傷を癒すこと。
そんな甘い囁きすら今は信じられず、癒えるどころかこの身を滅ぼそうとしている。
本当はこのインクだって、万年筆だって、俺は怖いのだ。
心臓にペン先を突き立て、その色で便箋を染めていく。
それほどまでに俺は怖いのだ。
インク壺に尖端を浸す時、喉頭隆起が肺に落ちるような不気味な感覚に襲われる。
──りました。
彼の襟元では季節外れの桜が咲いておりました。
小生はただただその姿を眺めるばかり。
珈琲に咽せび、砂糖舐め齧りしその男は一丁前に煙草を吸って見せました。
隣の学帽は我が指に捩じ込みし煙草の灰になりゆくを見て言うのです。
「おめえ、小説書きなら軽く吸って見せてみろ。」
無茶でせう。
所詮、小生に吐けるものといえば言の葉の他ございません。
煙を吸ってしまった日には、タールにまみれた焦がし文字しか吐けぬやうになってしまいます。
ともすれば、いたけき少年の声はいかがしましょ。
赤子の泣き声は。
子犬のじゃれ転がる声は。
頽廃の香る少年も赤子も子犬も、小生は嫌なのです。
ああ!
こんなのは強がりだ。
この声帯がもう穢らわしいのだから。
いたけき少年にも、赤子にも戻れはしない。
子犬のような無垢な叛骨もなし。
その実俺だって、悩ましげに頬杖ついて咥え煙草の前歯の横から煙を吐き吐き、世間の毛細血管までもを湧き上がらせる一文を書きつけてみたいのだ。
蚊取り線香の煙で清らかになった肺で次の一文を始める。
──その男と小生は今年の桜の数より多くを語ろうたと思ひます。
先生もご存知でせう。
春であろうが、夏であろうが、秋であろうが、霜柱立つ冬であろうが桜の堂々たる襟元を。
我が襟元など小鳥群がりて啄みて何も残らぬといふのに!
違う! 違う!
右側の腐れ知らずの青き春を生き延びさせている彼らの笑い合う声を聴きながら頭を掻きむしる。
左眼球のもっと奥の方、極めて脳の近くが乳白で染まるような重い重い睡気に似た感覚に視界が一段落ちる。
書きつけたはずの文字が虚ろに浮かんでいる。
小鳥は飛び去った。
桜は瞳に貼り付いた。
小生だなんていきがる俺はその男の煙を浴びて息絶えている。
悩ましやかな顔すらさせてはもらえない。
激しい悶絶、醜い足掻き、そして憔悴。
額を心許ない掌で覆えば、左手首の藤色が熱をなくし、浮き上がっていた。
震える気道でかろうじて生きている。
──あの男は卑しい桜を見せつけてはあれやこれや誘惑めいた甘い言葉を囁きました。
小生は馬鹿げた蝶。
その甘きを吸い上げひらひらと飛んでおりました。
気づいた時にはもう遅かったのです。
小さき狭き虫籠の中……
光のない黒い目玉に捕らえられ、羽を奪われた。
あの日、幾重にも重なった絶望の中の一つが蘇る。
解放された身体は……
「朔ちゃん! あんたそんなとこで難しい顔してんなら豚に渦巻き食わしといて! マッチ、仏壇!」
声の出どころを探して首ごと彷徨った視線は、西瓜割りの男どもの足元の豚の形の蚊遣器の瞳とぶつかった。
思うよりも早く右の足が駆け出して、取り残された左腕がその膝を追い抜いたとき、俺の身体はビー玉入りの小瓶の如くひっくり返る。
打ち付けた左肩を庇う右の手首の疼き。
横倒しの世界で、西瓜と、豚と、濡れ硝子とが割れている。
尽きた後の菊の灰の香りが鼻の奥をつねっていって、睫毛はただただ豪雨の下で佇んでいる。
藤色の空に憧れて、つま先立ちの俺の唇は何か囁いた。
見上げた先、濃紺に薄灰の着物裾が浮かんでいる。
「君、研究棟の藤の花は見ましたか? あれは今見頃でね。」
薄紫色が頬を撫でて下駄の落ちていくのが見える。
揺れる白き足。
示趾の長いその足は間違いなく俺だ。
依然として虫籠から出られないまま紙の中の肉体と消息不明の魂と。
滲み紙は夜風で乾いていった。
新月の前の晩のことであった。
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この頃の話。
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本編はこちら。
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ど偏見で生きている。
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不定期連載。
ゲスオペラです。
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ゆきお様・作
内省したくても、韻を踏みたい俺。
悪態つくのはやめたいけどやめられない俺。
面白さの中に葛藤がある、そんな作品。
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