文豪メタモルフォーゼ
梅の実ひとつで文豪に変身できる能力を手に入れた。
みぞれ降る夜、たしかに私は谷崎潤一郎だった。
しかし、やや魔力が足りなかったらしく私は今、激しい精神汚染と体力の摩耗により布団の中で自らの未熟さを憂いている。
「今夜から明日朝にかけて、東京でも積雪となる恐れが……」
土曜日、気象予報士の表情は十五年ほど実家の開かずの間に放置されたスノードームの如く沈んでいる。
その一方、地獄の底から這い上がり、今度は幸福の海の底へと沈みゆく者も在る。
「ああ……生き返る……」
一体、天野は一生の間に何度死に、何度生き返るのだろう。
温めた自家製梅酒をすすり、今月三度目のゾンビ化を果たした。
「よもちゃんもどう? たまには飲みなよ。」
たまには飲みなよ、ではない!
忘れたのか!
私はアルコール摂取するとエルモになっちまうんだ!
それも、ブチ模様のついた可愛いげのないエルモに!
しかし、奴が透明なカップを傾けるたびに転がる一粒の果実が私を惑わせる。
「いいえ、結構よ。だってその梅酒、あなたのために仕込んだんですもの。」
「じゃあせめて梅の実だけでも……好きでしょ?」
「だめ! いけないわ。あなた、ご存知でしょう?」
「ああ、よく知っている。でもたまには……」
「いいえ、やめておくわ。」
「そうか。では、遠慮なく。」
天野は梅酒を飲み干すと、利き手の親指と中指で禁断の果実を取り出し私の鼻先に近付ける。
そしてゆっくりと、微かに唇を開く。
「紀州、南高梅」
……ロマンもクソもない!
こいつ絶対官能小説読んだことない!
私もないけど!
シチュエーションばかりが官能に寄っていき、台詞だけがコメディ全開の奇妙な夜。
奴の吐息に乗り体内に入り込むわずかなアルコールだけですでに酔い始めている。
「まあ、よもちゃんは“ほろ酔いでガチ酔い”のガチ勢だもんね!」
カリリ……カリリ……
と猫のお食事シーンのような音を立て、天野が紀州南高梅の焼酎漬けを食べている。
クソゥ!!
私だって……私だって食べたいんじゃその梅!!
でも食べるとブチブチが出て草間彌生の世界観に迷い込んだエルモになっちまうし、それだけならまだしも全身筋分解が発生して全治一週間の中規模負傷状態、かつ体臭が梅雨時のすし詰め中央線の弱冷房車のかほりになっちまうんだ!
日頃から忘れっぽい私の忘れ物癖は遺伝子レベルの頃から始まっていた。
ALDH2という名の対アルコール戦に特化した武器をどこかに置き忘れてきたのだ。
天野が梅の種をゴミ箱にポトンと落とす。
空はシャラシャラとみぞれを降らす。
「ああ……降ってきたね。」
「明日は雪かきかな。」
腰の死亡予告に震えながらも、一面の銀世界への憧れも捨てきれぬ、自分の中に残るわずかな幼心がむくむくと膨れていくのがわかる。
大人になりきれない、自分が嫌になる。
雪に心を躍らせることで深まる罪の意識に、私はため息をつく。
ふわああ……と、天野が超絶酒臭い特大あくびをぶちかます。
「クッサ!!早よ寝ろ!!」
「いや、今から録画してあるまどマギを……」
「観るな!!寝ろ!!」
私は乱暴に天野を寝室まで引っ張っていき、布団の上に押し倒した。
途端、部屋は奴と、既に眠っていた娘の寝息とみぞれの降る音のみとなった。
私はドアを閉めると一直線に台所へ向かう。
もう、心は決まっていたのだ。
固く閉ざされた琥珀色の海の蓋を無理矢理こじ開ける。
ぐぬぬ……
おのれきさま天野め……!!
と、きちんと蓋を閉めたことにより恨みを強制的に買わされる天野。
なんたる理不尽!
カパッ……
瓶の口とこすれ、少々涼やかな音と共に胸が灼けるようなアルコールの香りに包まれた。
幾度となくその香りで肺を満たしては空にすることを繰り返す。
空になるたびに身体は禁断の果実への欲望を昂らせていく。
琥珀色の海の底から果実をひとつ取り出し、皿に乗せた。
なんの色気もない台所の蛍光灯に照らされた一粒は艶かしさをたたえている。
一瞬ためらった。
とどまるのなら、今だ。
思うより早く手が動いていた。
カリリ……
脳に直接響く、猫の前歯の音!
なんという心地の良さ!
梅の実ひとつなんて、余裕です。
十秒の命でした。
とにかくこの日は耐えきれなかった。
五年ぶりに禁断の果実、“梅酒に沈む梅”に手を出したのだった。
いや最初はひとつだけ、ひとつだけにしとこうと思っていた。
だから皿に梅を乗せたのだ。
だがあの必死こいてこじ開けた蓋を閉めなかった。
それはもう確信犯的行動である。
二つ、三つ……
身ぐるみを剥がされた天下の紀州南高梅の残骸が転がっている。
四つ……
皿には五つめと六つめが待ち構えている。
だんだんと梅の実の形が認識できなくなってくる。
ここから、記憶がない。
次に目を開けた時、私はまだ台所にいた。
逆光で真っ黒になっている人間の顔が視界を覆い隠している。
ギエエエエエエエエエエエエエエ!!!!!!
ウワァァァァァァァァァァァァア!!!!!!
「え?! 何?!」
「ああ……よかった……」
いや、何もよくないのだがどうしたんだ天野。
支えられながら身体を起こすと、そこにはおびただしい数の梅の種と、せんべいの包みが五枚、一口栗羊羹の包みが十、洋酒入りチョコレート一箱(もぬけの殻)、そして冷凍うどんの入っていたヨレヨレ袋が散乱していた。
私は絶望した。
ほぼ一瞬にして2,539kcal……
天野の一日に必要な摂取カロリーを摂取した計算になる。
そんな何も“課長代理”みたいなノリでカロリー代理する必要なんてないのに。
一口栗羊羹はもはや一口であることの意義を失い胃に沈んでいる。
それならいっそ、ひと思いに一棹食べなさいなと叫んでいる。
「こんなはずじゃなかった……んです。」
犯罪者の常套句を述べる。
ああ……
自分の声が頭に響く。
痛い……
ほんの出来心だった。
しかし、このほんの出来心がもたらした絶望はこれだけでは済まなかった。
私とともに床に倒れ込んでいた老い先短い我がiPhoneXRのおじきがその身を挺して謎の文字列を映し出している。
一夜の過ちが、我が身を滅ぼすことになろうとは。
──琥珀色の海に沈む、宝石のような果実の誘惑。
私は舌から喉、そして鳩尾と徐々に身体が熱くなっていくのを感じる。
肋骨が折れそうなほどに激しくなる鼓動。
苦しい。
苦しいのに欲しい。
口腔内の熱が冷めるのが怖くて、私は狂ったように貪り続ける。
その果実から滴る黄金の海を、一滴残らず舐めとっていく。
理性、此処にあらず。
外れたリミッターは外部刺激へと変わり、私を暴走へと導く。
意識とは無関係に動く指は、閉ざされた恍惚のヴェールを乱雑に剥ぎ取っては胃の底に落としていく。
かろうじて残された清純は、無惨にも吐き捨てられてしまう。
私はもう戻れない。
戻るつもりもない。
夜の闇、雲に隠れた月がわずかに漏らす光の下、熱に浮かされた潤み過ぎた瞳を睫毛で隠蔽する。
どうやら私はここ最近巷で囁かれる“文豪メタモルフォーゼ”と契約してしまったらしい。
そして、手始めに谷崎潤一郎に変身したようなのだ。
噂によれば、文豪に変身するにはそれぞれ定められた要素があり、それを満たす必要があるそうだ。
まず第一条件として変身者が酒に酔っていること。
次に変身先の文豪にまつわる“何か”が不可欠で、今回の谷崎潤一郎であれば「雪」が条件の一つだったのだ。
しかし、この日はみぞれ。
雪未満、つまり条件は満たされていなかった。
文豪メタモルフォーゼとしての経験が浅い私の能力は暴走を起こし、不足部分を途方もないカロリーで補完し無理矢理変身した。
つまり私はまだ魔力が不足している状態。
故に肉体を犠牲にして変身するほかなかった。
谷崎潤一郎は、私の身体に脳の浮腫んだような感覚と、猛烈に小っ恥ずかしい自身の新作小説の草案を残し去っていった。
そうだ。
文豪メタモルフォーゼは憑依型の変身システムだ。
特に、魔力の弱いうちは自身で変身先をコントロールすることは困難で変身先が変身者を選択する。
今回、私は谷崎潤一郎に選ばれたのだ。
彼は、あちらの世界で新作を書き始めたが発表の場がないことを憂いていた。
そんな時にスランプに喘ぐ私とチャネルが合致してしまい、こんなことに……
……アルコールに脳ぶっ壊されすぎだろう!
いくらなんでも!
今もまだ谷崎潤一郎の名残なのか、頭がぼんやりとしている。
身体には熱に浮かされたのちの、水中を漂うような感覚が残されている。
世間じゃそれを「二日酔い」って呼ぶんだぜ!
ひんやりとした掛け布団が、メタモルフォーゼ的きらめきを無情なまでに打ち砕く。
次の変身者は、あなたかもしれない。
【そのほかの文豪の皆様】
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梶井基次郎が有楽町駅でやらかします。
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小泉八雲、正岡子規、森鷗外トリオ。
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夏目漱石、怒らせてみた。
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