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変わりたくないカメレオン

 終わったドラマをいつまでも懐かしんでしまうように、もう跡形もなく散った恋に胸を痛め続けている。
「もう終わったことでしょ」なんて他人ひとは言うけれど、あのドラマの名台詞のように、彼の言葉がずっとつきまとう。
女の恋は上書き保存とはよく聞いたものだけど、私の場合は少し違う。
パソコンでするような、丸っきり別データにしてしまうタイプの上書きではない。
紙のノートに手書きするが如く、書き間違えたところに二重線を引いて空いているところに正しい文言を書きつけるような上書きである。
だから前のページに筆跡は残っているし、にじみもあれば、裏移りだってある。

今開かれているページにも、つい最近終わった恋、その前に終わった恋、それぞれが残っている。
共に過ごした日々の記録もあれば、一方通行のままの結末を迎えた恋もある。
そしてまた、もう真っ黒になりそうなページに新たなる記録を刻み始めている。
前までとは、少しだけ違う色のインクで。

「それは個人のこのみによりますけど……」
「ああ、まあ僕は蛍光灯より暖色系の照明の方が好きですね。」
彼の口から発せられる「好」に変換できる言葉に逐一反応してしまう。
窓口で市民対応する彼から発せられる言葉の中から、彼の嗜好をひたすら海馬に読み込ませては大脳皮質に刻み込む。
気もそぞろで私はひたすら左クリックを繰り返し、目の前のデータを上書き保存していく。
頭の中は新規作成しては少し書いて保存したような、容量を圧迫しない程度のフォルダが増殖中だ。
電話対応中だって、窓口の方が気になって仕方がない。
早く終わらないかな、なんて思っていて受話器越しの話を聞き逃すこともある。
公務員だって人間なのだ。
恋もすれば、腹も減る。
市民からのお問い合わせよりも、恋や空腹が勝ることだってある。

 時計の針は十二時ちょうどを指している。
画面の右下は「12:03」の表示。
カップラーメンひとつ分の狂いだ。
ここで自分が随分と腹を空かせていることに気付く。
つい五秒前にカップラーメンひとつ分、などと思っていたにも関わらず、今私の頭に浮かんでいるのは職場から徒歩五分に位置する蕎麦屋のカツ丼である。
サクサク食感を少し残した、甘めの天つゆがかかったカツ丼。
とろとろの卵がカツを包み込んでいて、三つ葉が彩りを添える。
卵とつゆとをいっしょくたに加熱しないのが私の好みだ。
どうにも私は悪食で、食べ物に割く脳の容量が随分と多い。
その割にここ最近、体重が二キロ落ちた。
恋煩いというものだろうか。
否、私はこれまでどんなに苦しくても悲しくても食への飽くなき欲望だけは消えたことはない。
自慢ではないが、失恋したら甘味王国へ一人繰り出し、全種類制覇コースでケーキからカレーライスからアイスクリームまで全て堪能するという豪遊で傷を癒してきた人間である。
失恋の苦しみは、物理的な胃の苦しさで埋める。
それが私の流儀だ。

「……本さん……!」
「……な……!」

肩を叩かれて、はっと我に帰る。

「もう、どうしたのそんなにぼーっとして!」
「谷本さん、休憩、入ろう。」
「新しくパスタ屋できたの知ってる?奈々も行くでしょ?」

すっかりカツ丼の口になっていた私は、一瞬敵に見つかったミーアキャットのように硬直したのち
「う……うん、もちろん!」
と答えた。
デスクの下に頭を突っ込んでバッグを引っ張り出す時も口角は上げたまま。

「んーーー……すっかり紅葉したね!」
元々すうっと伸びた背と腕を、突き抜けるような青空に向かって伸ばすのは、同期の美空みそらだ。
凛として、芯がある、自分の意見というものを持っている女性。
自分とは正反対で、うらやましいと思う。
「……そろそろ、排水管が詰まったとかってクレームが増えそうだね。」
この少々冷めた、現実的なことを言うのがこちらも同期の紫織しおりである。
新卒から数えて四年一緒にいるけれど、私のことはずっと「谷本さん」と呼ぶ。
美空のことは「美空さん」と呼んでいるけど、少し前までは「島さん」と呼んでいた。
そのちょっとした変化に、距離を感じて何となく寂しい。
彼女の気に障ることをしてしまったのではないかと不安になることもあったけれど、なるべく気にしないようにしている。

 カツ丼モードの口から、カツ丼受け入れ態勢を万全に整えた胃にカルボナーラを落としつつ、お手本のような、いかにもなランチどきのOLといった話に花を咲かせる。
主に、美空が。
「そういえばさ、聞いた? 年金課の課長、逆パワハラで休職だって。」
“逆パワハラ”って何だ?
そう思いつつもなんとなく聞けずにいる。
「いやあ、新卒がなかなか強いらしくて! こーんなマニュアルで誰が理解できるんです? 馬鹿が作った資料じゃないですか? とかって毎日のように詰められてたって!」
「……へ、へえ……課長が……」
超大型新人の噂に、私もカツ丼受け入れ態勢万端のところにカルボナーラを投下された胃も驚きを隠せない。
「まあ、でも自分の意見を持ってるっていう点では良いと思うけどね。もちろん逆パワハラ?それは良くないけどさ。」
紫織の至極真っ当で、的を射た発言に私は撃ち抜かれていた。
私の心も的も、射抜かれ過ぎて木っ端微塵である。

 思い返せば大学一年の秋、私は大失恋を経験した。
それこそ、心も身体も木っ端微塵になったような感覚だったことをはっきりと覚えている。
あの時残ったのは、ぼてっとした身体の観光客が工芸体験で作ったような出来損ないのこけしのような姿の私だった。

 相手は二つ上の先輩で、軽音サークルに入っていた。

 入学後、さまざまなサークルが新入生争奪戦をしている中、私は初めて“奪われる”側になった。
どちらかといえば、地味で目立たない、垢が抜けたってその抜けた先も垢なんじゃないかと思うほど美的センスは皆無。
でも一丁前に、「彼氏欲しい」なんて思っていたし、小学四年生の時には同じクラスの大林君にバレンタインのチョコレートを作ったことだってある。
そのチョコレートは作った翌日の夕方、私の舌の上で溶けていったのだけど。
とても、苦かった。

 大学では心機一転地味キャラ生活から抜け出そうと当時のモテの王道、茶髪にゆるい巻き髪、ふんわりオーガーンジーのフレアスカートに耳には揺れるピアスをつけた。
『麗人百花』を徹底的に読み込んで、少し背伸びした綺麗なお姉さん、俗にいう女子アナっぽさを自身に落とし込んだ。

 新入生と、サークル勧誘の学生とでごった返す構内でもみくちゃにされながら歩く。
全方向から差し出されるチラシに、
「テニサー、きませんか?」
「落語研究会です! どうですか?」
「野球部、マネージャー募集してまーす!」
とかけられる声。
初めて自己肯定感が満たされていくのを感じた瞬間だった。
人がけたところに、すらっと背の高いほんの少しウェーブがかった黒髪の男性が立っていた。
手には分厚いままのチラシの束が残されている。
ちょっとスカした雰囲気から、小っ恥ずかしくて配りそびれたのだろうと彼のいきさつを想像した。
つい、見つめてしまった。
おそらく、自分で思うよりも長く視線を止めてしまったのだろう。
彼は視線を私の斜め上ほどに置かながら近づいてきて、
「……軽音サークル。このあと、ライブ。俺も出るからよかったら。」
と冷たい声で、温かくなっているチラシを渡してくれた。
両端が妙にシワがついている。
いつから握っていたのだろう。
無意識に、その温度が残るシワを私は握っていた。

 半ば一目惚れだった。
もちろん、ライブを観に行った。
というより、彼を観に行った。
彼はAntarctic Dogsというイギリスのロックバンドのコピーバンドで、観客から使って左側でギターよりも少し大きめの楽器を弾いていた。

“アンドク”と略していたと記憶している。
全然知らないバンド、もちろん曲も知らない。
でも、MCで
「俺、アンドクめっちゃ好きで。今年ナツソニに来るって噂があるから行きたいんだよね!」
と外で新入生を勧誘していた時とは別人みたいにキラキラと喋るから、私は帰り道、TATSUYAでアンドクのCDを棚にあるだけ全部借りた。
ついでにあのギターより少し大きな楽器の正体がベースという低音域を奏でる楽器だということを知る。

 ストレートに軽音楽サークルに出向く勇気のない私は、彼の名前はおろか学科すら知らない。
知っていることといえば、自分より上の学年で、ベースが弾けて、アンドクが好きで、ナツソニに行きたい、ということのみである。
それでも、いつも彼の姿を追っていて、長身で黒髪で、それも少しうねりのあるスタイリングの人物を見かけるたびにどきどきと苦しさを覚えていた。
とはいえいつも、その人物が振り向いた瞬間にすんっと胸は静まるのだった。

 そんな風に日々を塗りつぶしていたある日、大学の食堂で彼を見かけた。
今日はスーツを身に纏っている。
新品なのだろうか、シワひとつない黒のリクルートスーツに、青のチェック模様のネクタイをしめている。
出会った日のオーバーサイズ気味のカーディガンも似合っていたけれど、こちらも相当に素敵だ。

結局アンドクの良さはわからなかったけれど、あわよくば「ああ、あの時の……」といった流れでお近づきになろうというよこしまな気持ちで、彼の視界に入るくらいの位置に陣取った。
 カツカレー定食なんて、随分といかついものを小さめの一口で口に運びながら彼とその友人との会話に聞き耳を立てる。
テニスサークルが馬鹿騒ぎしていて、時折遮られる。
その度に眉間にシワが寄るのを人差し指と中指で広げた。
もうかれこれ十一回シワを広げている。

 その時だ。
彼の口から“好きな女優”の名前が飛び出した。
今をときめく、黒髪のボブの目力強めのミステリアスな雰囲気のある若手実力派である。

雑誌の受け売りの男ウケスタイルに身を包む自分が途端に恥ずかしくなる。
思うより、指が早く動いた。
この場所から一番近くて、一番早く予約が取れる美容院を探してすかさず予約を入れた。
一時間後、私は黒髪ボブになる。
一年以上かけて伸ばした髪に未練などない。

「本当にいいんですか? こんなに綺麗に伸ばしてるのに。」
「もちろんです、ばっさり。お願いします。」
携帯電話の画面にはうれいの眼差しをこちらに向けるあの女優の姿。
その圧倒的な目力に私も魅了されている。
でも、私は彼女のようにならなければならない。

パサッパサッと床に茶色の髪が落ちる。
床に落ちる直前、一瞬止まったかのように見えた。
茶色い小型犬ほどの塊が完成すると同時に、
「できましたよ。」とラメたっぷりの瞼を細めて美容師が鏡で横や後ろを見せてくれる。
茶髪のロングヘアだった私は跡形もなく消え去っている。

理想的な黒髪ボブだ。
あの女優がこちらに向けてきたアンニュイな瞳を真似てみる。
伏し目気味にしたせいで、ほとんど自分の姿を認識することはできなかったが、なんだか“いい”気がした。
もちろん、あんなに整ってはいないけど、美少女とは呼べないけれどそれなりに、彼好みの髪色と形なのだろうと思う。

 しかし、黒髪ボブにこのふんわりした服は随分ミスマッチに見える。
彼の理想に近づいたという自信と元来つきまとう「自分なんて」という卑下精神のチグハグぶりと同じくらい合っていない。
 今度はあの実力派女優の画像を検索した。
高校生役ばかりを演じる彼女の写真はほとんどが制服姿で、なかなかに苦戦する。
「……さすがに制服は……」
必死に、検索を続けていたら目的の駅から3駅も先に来ていた。
田園都市線に乗ったはずが、半蔵門線に変わっている。
スゴロクのマスを戻るように、三駅戻る。
振り出しに戻る、ではなくてよかったと全くをもって意味不明な安心感に胸を撫で下ろした。

 降りた駅で、UNIT CROWで服を物色する。
ちょうど、彼女が白いブラウスにデニムのスカートを合わせている画像を見つけたのだ。
全く同じものはなくとも似た色、似た形ならばそれでいい。
はやる思いを抑えきれず、試着もせずにレジへ向かった。

 それから三日ほどの間に私のクローゼットはすでにすっかり様変わりしていた。
“彼女っぽい”服をひたすらに買い漁った。
だから、しばらくは一日一食のカップラーメンと水で乗り切るのだ。

 毎朝ヘアアイロンで毛先を内巻きにする。
もう、三十八mmのコテは必要ない。
ストレートアイロンで、温度は一五〇℃。
私の髪質だと、五秒で癖がつく。
巻き髪で慣らしたアイロン技術。
とはいえ内巻きボブはほんの少し勝手が違うから、入浴前はひたすらに練習に励んだ。
手の甲と指の火傷はその証である。

 いつ、彼に遭遇してもいいように毎日彼好みの私で過ごした。
そう、その三日目、桜の花びらがすっかり散った頃。
少しだけ大学の授業にも慣れてきた。
「……隣、いいですか?」
上の方から声が降ってきた。
顔を上げると、彼だ。
急激に心拍数が上がるのを感じる。
きっと、顔も真っ赤だろうと思うほどに頬が熱い。
「……え、と、いいんですか?」
質問に質問で返してしまうくらい取り乱してしまった。
変な奴だと思われた。
どうしよう。
恐る恐る彼の方を見ると、すでに座って鞄をごそごそと漁っている。
初めて会った日の、例のカーディガンの下に着ていたシャツを着ている。
すごく華奢だ。
「あ、シャーペン貸してもらえる?」
つい見惚れていた自分を恥じる。
そして、願ったり叶ったりな提案に、私は即座に一番書きやすいシャーペンを渡した。

 私のシャーペンを細く長い指が握っている。
なんともいえない浮遊感に包まれる。
両耳を手で包まれた時のようなこもった音の聴こえ方で、教授の話など全く頭に入ってこない。

彼が出欠確認の小さな紙に文字を書き付けている。
気付かれないように横目で覗き見る。
このスリルに私はどうしようもない悦を覚えてしまった。

「3年 岸谷陸」

ついに彼の名前を知る。
“谷”の字という共通点に浮かれている。

「……何?」
横目で見ていたつもりが、思いっきり顔ごと彼の方を向いていた。
「あ……!いや別に……ごめんなさい……」

 結局、授業内容は一言一句覚えていない。
彼が三年生で「岸谷陸」という名前だということがわかったのみだ。
願ったり叶ったりな“のみ”だ。
私はこの日から自分の苗字にも入っている“谷”が誇らしく思えたし、自分の名前を書くたびにどきどきと胸が高鳴った。

 一週間経ち、再び彼と言葉を交わしたあの授業の日。
また話ができるのではないかと期待に満ち満ちて教場に入る。
ぐるりと見渡すが、彼の姿はない。
また遅刻寸前で入ってくるのだろう。
そう思いながら、先週の席に陣取る。
違う人が隣に来ないように、鞄を置いておく。

授業開始三分前、彼の声が聴こえた。
それだけで耳から頬にかけてが熱くなる。
どうも顔周りが熱くなると手足は妙に冷たくなる。
だから、冷え切った手で懸命に頬を冷やす。

「えー! 終わったら、陸んち行きたいー!」
彼の声の次に聴こえたのは甘ったるい女の子の声だった。

見てはいけない、そう思った。
でも止まらなかった。
ほとんど反射と言ってもいい。

指を絡めるように繋がれた手。
彼の隣にいたのは、茶髪のロングヘアを綺麗に巻いた女の子。
花柄のふんわりとしたワンピースに身を包んでいる。
あれは、私がつい最近処分したsnideniスナイデナイのワンピースと同じモデルだ。

 私の一方通行の恋は崩れ去った。
彼が手を繋いでいるのは、あの実力派女優とは対極のモテの王道スタイルに身を包んだ女の子。
私は自分の胸下に目をやり、巻かれた茶色い髪がない現実に打ちひしがれた。
淡いブルーのデニムは、突然の雨に打たれたコンクリートのようにまだらに色を変えている。
耳から頬にかけての熱さは消え、目と鼻と喉奥が熱をもつ。

 隣の席にあるのは、彼の姿ではなく自分の鞄である。
熱を持ったぼやけた瞳に映るのは、彼と巻き髪の彼女のみだ。
まるでこの世界に、彼と彼女と私の三人だけになったよう。
そこで自分だけが隔絶されたような身勝手な疎外感に打ち震えている。
怒りでも悲しみでもなく、ただただ痛い。

 それでも性懲りも無く次の日、サロンへ行きエクステをつけてもらった。
髪色は黒のままだったけれど。

次に会った時彼が手を繋いでいたのは、黒髪ボブの少し影のある女の子だった。

私はまたサロンへ行き、今度はエクステを外してもらった。

 こんなことを繰り返しているうちに、本来の自分を見失った。
カメレオンの如く色を変える。
誰かの好みに擬態する。

 そう、今だって、カツ丼の口のままカルボナーラを食べている。
“逆パワハラ”とは何なのか質問もできずに知ったような顔で話に流されている。
自分軸というものがないのだ。

 あくまでも私の経験則のみで言えば、高校一年生までに一度でももてはやされたり、性別や性的嗜好がなんであれ誰かしらとお付き合いしてこなかった人間は恋愛に関して自己肯定感を得られずに大人になるのではないだろうか。
それが、恋愛面のみならず人生そのものが他人軸になってしまう。
要するに、自分という存在に意味を感じられなくなってしまう。
そんな気がしてならないのだ。

「ねえ、奈々? 聞いてる? 奈々ー?」
「谷本さん、大丈夫?」
「え?」

 結構食べた気がしていたけれど、まだ半分以上カルボナーラは残っている。
二人の皿にもまだ半分以上のジェノベーゼとペスカトーレが残されている。
 随分と長いこと過去の失恋を懐かしんでいた気がしたけれど、そう思っているのは自分だけだったのかもしれない。

「でさ、今の課長補佐が課長代理でしばらくやってくらしいんだけど…」
「戦々恐々、不安の色隠せず、なんでしょ?」
まだ逆パワハラの話は続いていた。

結局、カルボナーラを食べ終わっても私の口はカツ丼モードのままだった。
逆パワハラも私の中では未解決の謎のままだった。

 午後は、本来の業務とくだんの彼がいる窓口から聴こえる会話と、依然として残る「岸谷陸」にまつわる記憶のせいで自分だけが繁忙期だった。
どうやら彼は今日の夜、テレビで放送される映画を楽しみにしているらしいことを知る。
そして、とある事情から録画をして日曜日の夜に観るということも。
今日は金曜日。
さっさと仕事を切り上げて、コンビニでカツ丼と、二十一時からテレビで放送される映画を観る時に食べるポップコーンを買って帰ろう。
何の映画かは知らないけれど。

 もう、気力もないので定時で仕事を切り上げてコンビニへと向かう。
あいにくカツ丼は売り切れている。
仕方がないので親子丼を手に取る。
ポップコーンは、塩味からキャラメル味、トリュフ風味まで揃っている。
彼ならきっと、安牌なところを選ぶだろうと塩味の大袋に決める。

 大学生と思しきレジスタッフに「岸谷陸」と手を繋いでいた茶髪の彼女の面影が重なり、セルフレジで会計を済ませた。
親子丼と塩味のポップコーン、それも大袋を買っているという事実を知られたくなかったのだ。
後ろめたいことなど、対外的にはないはずなのに。
このあと摂取するであろうカロリーと同様に、見てみぬふりをすれば済む話なのだがいかんせん今日は心をかき乱され続けている。
もうこれ以上の乱れは、食傷もいいところだ。

 レジ袋を買い忘れ、ポップコーンは剥き出しで運ぶはめになったが幸い職場から自宅まで徒歩十五分、コンビニから徒歩五分なので気にせずに歩く。

 カツ丼の口のまま、まだカルボナーラが残る胃に親子丼を放り込んでいく。
昼間ほどの衝撃はないものの、どうあがいても叶わない現実の不条理を感じずにはいられない。
たかだか、カツ丼が食べられなかったというだけのことで。
とはいえ、とろとろの卵と、味の染みた玉ねぎとぷりぷりとした鶏もも肉の組み合わせは絶品だ。
叶わぬ願いも、悪いことばかりではないと食べ物から教わる。

 二十時四十五分から十分もの間、ポップコーンを皿に出すか、袋のまま食べるか葛藤していた。
彼ならどうするだろう。
おそらく皿に盛る。
ならば、私も。
と食器棚の大皿に手をかけた。
しかし、フゥッとひとつ息を吐きその手を引っ込めた。
冷蔵庫から缶ビールを出し、ガラス製の楕円のセンターテーブルにコンっと置く。

映画開始の五分前、ポップコーンを開封する。
缶ビールのプルトップを引っ張る。
プシュッと軽快な音が響く。
部屋の電気を消して、それらしい雰囲気を作ってみる。

 ポップコーンを抱え、無心でぽんぽん口に放り込んでいった。
映画は人気の魔法ものの続編で、そういえば映画公開当初はやれ興行収入がどうした、前作に登場した俳優が出る出ないと巷は騒に騒いでいたことを思い出す。
実はファンタジーにはそそられないタイプである。
しかし、彼が楽しみにしているという作品なのだから…というどうしようもなくしょうもない理由で画面にかじりついている。

 ポップコーンとビールはあっという間に姿をくらました。
物語はまだ起承転結の“起”の半分あたりだと思われる。
しかし、自分で勝手に作り出した繁忙期ですっかり疲労困憊していた私の瞼は勝手に落ちてくる。
何度も塩まみれの指でこじ開けたが、相当早い段階で力尽きたようだ。

 気付くと部屋は朝の陽射しで満たされていた。
映画の内容は、全く覚えていない。
タイトルすら、正しく言えるか怪しいほどである。

 まだ七時くらいだろうと思い時計に目をやるとすでに十時半を回っていた。
窓の外の澄み渡る青に惹かれて、私は外へ飛び出したくなった。

空になったビールの缶をすすぎ、ポップコーンの空袋をゴミ箱に放り込む。
顔を洗い、手近なところにあった上下灰色スウェットに着替え、日焼け止めを塗り、マスク、キャップを装着する。
不審者極まれり、といった具合だが私は一刻も早く外に出たかった。

 どこからともなく酸っぱいような、何かが腐ったような匂いがしてくる。
強烈な秋の匂いは、マスク越しにもはっきりとわかった。

どんぐりをたどるが如く、銀杏をたどり、行き着いたのは職場前の公園だった。

 銀杏広いに熱狂する老夫婦や、レジャーシートを広げサンドウィッチを頬張る家族連れ、初々しい中学生くらいのカップルでそこそこ賑わっている。

 鞄はおろか、財布もスマートフォンも部屋に置いてきた。
手持ち無沙汰であることに気づいてしまった瞬間、途端に疎外感を覚える。
銀杏を拾う老夫婦の姿はぼやけ、楽しそうに笑う子どもの声は遠くに聴こえ、初々しい中学生のカップルの姿は忌々しい棘の如く心を突き刺してくる。

 嗚咽の少し手前で踏みとどまる私の目に止まったのは、穏やかに微笑む彼の姿だった。
私の視線の先には彼がいる。
しかし、彼の視線の先にいるのは私ではない。
微笑む彼に、無邪気にケラケラと笑いながら駆け寄る三歳ほどの女の子。
彼は駆けてきた女の子を、勢いごと持ち上げた。
「たかいたかーい!」と響く彼の声と、きゃあきゃあとうれしそうな声を上げる女の子。
二人の声の混ざり合った音が、不思議と心地よかった。

 二人の視線が互いをしっかりとらえ合っていることを見届けた私は空を見上げる。
突き抜けるように青く、それでいて優しい色をしていた。

 この恋が、叶わなくてよかった。
強がりではない。
心の底から、そう思った。

 上書きを始めたあの日、私は願ったのだ。
「この恋が、叶いませんように」と。

これでようやく、ペンを置くことができた。
今回の恋は、秋の青空色のインクだった。
裏移り、にじみ無し。

 大きく息を吸うと、秋のひんやりとした空気の中に金木犀の温かな香りが混じっていることに気づく。

 さあ、次のページを開こう。
まっさらだけど、裏側に書かれた恋の筆跡を感じる新しいページを。
これまでの記憶はどうしても引きずらずにはいられそうもないから、せめて次はきっと、自分の色で上書き保存できますように。

(9601文字)

憧れのナル様の「片想い文芸部」、ついに参加できました。
かねてより参加したかったのだ。
ついにだよ。
4ヶ月越しくらいだろうか。
書いては消し、書いては消し…
「やはり俺に恋愛ものは書けん!」などとイマジナリーペンを折るなどしてきたが、
持ち前の気持ち悪すぎる妄想スキルを発動したら
書けた。
(書けたとか思っているのは自分だけで実際には“書けていない”おそれもある。)
そんでもって、奇跡的に締め切りに間に合った。

今の感情を一文字で表すと、
「幸」である。

気持ち悪すぎる妄想スキルで、気持ち悪いタイプの片想いを書きたかったんじゃ。

これは完全にイメージです。

なんかこれ以上やると、言い訳みたいになりそうで見苦しいから黙ろう。

というわけで、「色にまつわる片想い」でやんした。
ナル様、お題に感謝です。


「変わりたくないカメレオン」に出てきたクズは、「二子玉川心中」の岸谷陸である。


主人公・谷本奈々は
奈落の底からあいさつしてくる人である。

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よもぎ よもぎちゃーん! はーい! 何が好き? ポテトチップスよりも お・ぬ・し

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