溶ける月、溶けぬ声
私は太宰治が好きだ。
中でもとりわけ、『人間失格』が好きで何度も読んでいる。
陽に焼けて茶色くなったところも、大胆に折り目のついた裏表紙も、ほつれて毛羽立った枯れ葉色の栞紐も含め、全てが愛おしい。
小学校一年生の十月、初めてお小遣いをもらった。
平成二年製造の、少しくすんだ銀色の百円玉だったが、私にはとても輝いて見えた。
うれしくて、ハンカチで磨いたり、出窓に置いて月の光に当てたりした。
「もう、七瀬。しまっておきなさいよ。」
母はハーブティーをふうふう冷ましながら、少し呆れたような笑顔で言った。
「だって、うれしいんだもん!」
ああいうのを、屈託のない笑顔と言うのだろう。
ただ自分の心に真っ直ぐに向き合えていた私は思ったままの言葉で部屋の空気を弾ませていた。
「うーん、名前が書いてないから落とし物かなあ? 交番に届けに行くぞー!」
歳の離れた姉が、そう言って百円玉をつまみ上げる。
「だめー! お姉ちゃん! だめー!」
背の高い姉が自分の頭のてっぺんよりさらに高く掲げるのを、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら取り返そうとする私は、だめと言いながらも楽しくて、きゃっきゃと笑っていた。
掲げたられた百円玉と、窓の外の月とが重なり、まるで姉が月をつまみ上げているように見えたことを今でもはっきりと覚えている。
その日私は成長痛で膝が痛く、眠れずにいた。
姉は、手元の灯りだけで勉強をしている。
毎晩聴こえる、シャシャッ、サーッ、トントンという音を子守唄代わりに眠っていた。
姉の邪魔はしたくない。
枕を口に当て、昨日変えてもらったばかりのふかふかの羽毛布団を頭から被り、極力声を殺して泣いた。
シャシャッシャシャッ……トン……
カチッ。
布団をかぶっていても、部屋が真っ暗になったことがわかった。
少し間があって、ぽすん、ぽすん、とゆったりしたリズムの振動が身体に伝わってくる。
「Jupiter」を少しかすれ気味に歌う姉の声。
ふぅ…と私の呼吸が抜ける。
布団をどけると、穏やかに微笑んでいる姉の顔が月明かりでぼんやりと見えてくる。
「お姉ちゃん……」
私は姉に手を伸ばす。
白く、細い腕で私を抱き起こし、華奢な身体できゅっと包んでくれた。
「everyday I listen my heart……一人じゃない」
夜の闇に姉の声が溶けていく。
いつの間にか、声は聴こえなくなっていた。
「七瀬! 七瀬!」
「う……ん……?」
「七瀬、朝! 学校遅れるよ!」
スーツ姿の母がばさっと掛け布団を持ち上げる。
「んー……やだー! お布団返してー!」
負けじと掛け布団を取り返して再び籠城する。
「もう! 遅刻しても知らないから!」
顔をほんの少しだけ出して、左目で母の後ろ姿を確認し、再び目を閉じる。
扉は半開きで、リビングから朝食の匂いがなだれ込んでくる。
昨日の夕飯のかぼちゃのシチューの温かな甘い香り。
ぐぅと腹の虫が鳴いたけれど部屋が寒くて、なかなかベッドから出られない。
ゴロンゴロンと身体を転がしていると、
「今日のデザートは……柿だぞー! 今起きて五分で支度できたら、お姉ちゃんの分、あげちゃおっかなー!」
という姉の声が滑り込んでくる。
「え!」
柿に目がくらみ、私はトビウオのようにベッドから飛び出してお気に入りのワンピースをハンガーから外す。
寒さに鳥肌を立てながらパジャマのボタンを外し、脱ぎ捨てる。
すかさずワンピースをかばっとかぶる。
「お姉ちゃん! 何分?」
「四分六秒! 約束通り、柿を進ぜよう……」
右手をぐっと握り込んで喜んだ次の瞬間。
「もしもし、七瀬ちゃま。チミはパジャマで学校に行くのかね?」
と姉がにやにやしている。
姉の目線を追い、自分の足元に視線をやると……
ワンピースの裾からパジャマのズボンが見えている。
悔しそうにしている私に姉はこう続ける。
「不思議なことに、時間が止まっています!七瀬隊長!この隙に……」
「ラジャ!」
姉と私はおどけて各々右手をおでこに近づけ敬礼をする。
「じゃあ、私そろそろ出るね! 七瀬、しっかりご飯食べてよ! それからりっちゃん。学校終わったら、駅でね! 行ってきます!」
バタンっ!
慌ただしく母は飛び出して行った。
「お姉ちゃん、どっか行く……」
バンっ!
「そうだ! 七瀬? 台所にラップの芯二本置いといたから! 使うんでしょ? それ、持ってって! じゃ、今度こそ行ってきます!」
バッタン!
カンッカンッカンッ……
「ごほん。ええー……とんだ邪魔が入りましたが! おおっとー? 七瀬選手、すでに着替えを済ませている! ということは?」
ベテランアナウンサーのような抑揚をつけながら、姉は自分の皿の上の柿を私の皿に移している。
「髪、結ぼっか。」
「うん! 今お姉ちゃんがしてるのがいい! 上半分だけ結ぶの!」
「オーケーオーケー。任せなさい!」
そう言って立ち上がった姉が、テーブルに手をつき、肩で息をしたように見えた。
「お姉ちゃん……?」
大丈夫?と聞こうとしたけれど、
「さあさ、行きますよ、お客様!」
なんて言いながら私の背中を洗面台の前まで押すものだから、背中のくすぐったさで何を言おうとしたのか忘れてしまった。
「よーし、今よりもっと可愛くしちゃうぞ!」
そう言って、ワイシャツの袖をまくり上げる。
「大丈夫?痛くない?」
生え際を抑えながら優しく髪を梳かしてくれる姉。
「さてと……魔法をかけよう……目を閉じたまえ……」
「ええ? 何? 何?」
「いいから、目を閉じるのです!」
促されるまま私はぎゅっと目を閉じた。
洋梨と、ジャスミンの混ざったような香りに包まれる。
「わあ……お姉ちゃんの匂いだ……」
「ふっふっふっ……この香りが今日一日、七瀬を守ってくれることでしょう。」
鏡越しに姉がウインクをした。
「ところで、そのワンピースでいいの?だいぶくたびれてるけど……」
私の髪を束ねながら、心配そうな顔で姉が聞く。
「これがいいの! だって、お姉ちゃんのだったから! ずーっと着るの。大人になっても!」
「ええー! なんだって? 可愛いやつめ! このこの!」
と言いながら私の前に回り込んで頬を細い指でもみくちゃにした。
「やめてよ!」
とは言いながらもうれしくて、私はケラケラと笑っていた。
「失礼しました、お客様!」
と慌てた振りをして私の後ろに回り込み、また髪を束ね始める。
「ねえ、お姉ちゃん。このゴム借りてもいい?」
それは姉のお気に入りで、紺色の、ちょうど百円玉くらいの大きさの小さなリボンとビーズでできた真珠がゴムの輪の中で隣合う髪飾りだ。
「おおー! お目が高い! ワンピースにも合うね。」
はい、と姉にその髪飾りを渡す。
キュッキュッと毛束を縛ってもらうときの地肌が引っ張られる感覚が好きだ。
「はい、でき……」
鏡越しの姉が突然上を向く。
「た、よ……」
「お姉ちゃん……?」
姉は慌ててリビングへ走って行った。
私は、鏡に映るハーフアップにまとめられた髪の少し大人っぽく見える自分と、ワンピースの紺色の袖、お腹のところで切り替えられた青いタータンチェックの広がる裾との間で視線を歩かせていた。
鏡に向かって笑いかけたり、すました顔をしたり、頬の横に手をやってみたり。
肩にかかる毛先を鼻先に持っていけば、姉とお揃いの香りがする。
しばらくして、鼻にティッシュを詰めた姉が鏡に映り込む。
心配よりも先に、その姿の面白さに反応してしまった私はつい、ぷっと吹き出してしまった。
「あー! 笑ったでしょー! もう!」
とわざとむくれてから
「七瀬が可愛すぎるからいけないの!」
そう言って、私の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「お姉ちゃん! やめてー! 髪の毛崩れるよー!」
はっとした顔をして姉はぱっと手を離す。
「お客様……大変申し訳ございません……どうか、お許しを……」
と目を閉じ、顔の前で手を合わせている。
まくりあげた袖から覗く、白く華奢な腕には夏の夕焼けのような色が不規則に並んでいる。
じわりじわりと赤く染まっていく姉の左鼻のティッシュと、一つ前の季節を手繰り寄せるような腕。
私の心臓がバクバクと不愉快なリズムで動いた。
目を開けた姉は手を洗いながら、
「さあさあ、柿が待ってるぞー!」
と言い、鏡の中で私の視線を捉えた。
「そのゴム、七瀬にあげる。」
「いいの?!」
「もちろん、似合ってるから。」
手を拭きながら言う。
私はうれしくて、その場で何度も何度も跳ねた。
「ほら、食べようって! 遅れるよ。」
もうすぐ八時を指そうとする時計に、心の中で止まって、止まって、と呼びかけながらかぼちゃのシチューとレーズンロールパンを詰め込んでいく。
「おー? 今日はレーズンむしらないんだー。」
と姉がにやついている。
「はっへ! はひひはははいんはほっ!」
口いっぱいにパンを突っ込んだせいで全く喋れない。
「だって、ま に あ わ な い ん だ も ん?」
んぐんぐと頷きながら、牛乳でパンを胃まで落としていく。
げほっげほっとむせる私の背中を
「焦らない、焦らない。」
と言いながらさすってくれた。
私が柿にありついた頃、姉は紺色のカーディガンを羽織り、マスクをする。
「お姉ちゃん、風邪?」
「ううん! この通り、元気!」
と筋肉皆無の細い腕で、筋肉隆々といったポーズをきめる。
「受験生のマストアイテムなの。」
「ふーん……」
このとき食べた柿は、少し硬くてあまり甘くなかった。
けれど、かぼちゃのシチューとレーズンパンが甘かったせいかさっぱりとして美味しく感じたのを覚えている。
全ての支度を終え、家を出たのは八時十五分。
「いってらっしゃい!」
「行ってきます!」
「お姉ちゃんも。」
「ありがとう。」
小学校と中学校はまるっきり反対方向。
姉は、私が家を出るのをいつも待っていてくれる。
この時間だと、もう姉は学校に間に合わない。
私が振り向くと、姉もこちらを向いていて手を振ってくれる。
四月にも、こんなことがあった。
私が学校に行きたくないと駄々をこねた日。
あの日も八時十五分に家を出た。
小学校の門まで送ってくれた。
「いってらっしゃい!」
そう言って私の背中をぽんぽんっと二回叩いて、元来た道を走って行った。
あっという間に小さくなった姉がたまに振り返って手を振るから、見えなくなるまで門の前で立っていた。
でも、今日の姉は歩いている。
私は走り、たまに振り返り、手を振る。
姉の姿はどんどん小さくなる。
角を曲がり、私はまた全力で走り出した。
結局その日、私はラップの芯のことをすっかり忘れていた。
十一月になり私はもう一枚、百円玉を手に入れた。
今度は平成十年製で、前回のお小遣いの時よりも新鮮な銀色をしている。
「今、私は何円持っているでしょうか!」
母は熱々のハーブティーに水を注ぎながら、もうお手上げといった顔をしている。
姉はすかさず、
「二億円!」
と返してくる。
顔の前で人差し指と中指とで「二」を作り、いたずらっぽい笑顔で言う。
まるで、写真におさまるみたいに。
「ブッブー! 二百円でしたー!」
二億、という数字が見当もつかなかった。
それに、私にとっては二枚の百円玉の方がよっぽど価値のあるものだった。
ほんの少し痩せた月に百円玉を重ねてみる。
指の隙間から漏れ出る光に見惚れていた。
「七瀬、しま……」
母が言葉を飲み込む。
私は月光浴している平成二年製の百円玉と、平成十年製の百円玉を黄色い折り紙で作った財布にしまう。
八時、私はベッドに潜り込む。
枕元に百円玉が二枚入った手作りの財布。
シャシャッ、サーッ、トントン……
この日も姉は勉強している。
いつもならこの音で、あっという間にうつらうつらしてくる。
でも、今日は目が爛々と冴えている。
シャシャッ、サーッ、シャッシャッ……
カチカチカチカチ……
「お姉ちゃん?」
「あ……ごめん! まぶしい?」
「ううん。あのね、明日……時間ある?」
この言葉が言いたくて、眠れなかったのだ。
カタン……
「え! なになに? デートのお誘い?」
姉はおどけてみせた。
「デート……?あのね、欲しいものがあるから一緒に来て欲しいの。」
「もちろん。行こうね! そうと決まれば寝坊厳禁! さあ寝た寝たー!」
そう言って、私の肩まで掛け布団を引き上げてとんとんとし始める。
ふんわりとした羽毛布団越しに伝わるこの柔らかなリズムが大好きだ。
しばらくすると、部屋の空気に混じり合うように優しい歌声が耳の奥深くに届く。
「everyday I listen my heart……一人じゃない」
姉の声と一緒に自分の身体が夜の闇に溶けていく。
ずっと、聴いていたくて懸命に形を保とうと葛藤する。
不思議と、頭が再び冴えてくる。
しかし、目は閉じておく。
私が闇に溶けきるまで、姉は歌い続けるから。
「いつまでも歌うわ あなたのために」
十一月三日、文化の日。
目を開けた途端、視界の全てが姉の顔だった。
「おはよう!」
ヘーゼルナッツ色の瞳が窓から差し込むほんの少しの太陽の光を反射させ、キラキラと輝いている。
「まぶしい……」
顔に直接光が当たっているわけでもないのに、そんなことを言ってしまった。
学校のある日は、出る前からその日の夜を待ち望んでしまうくらいベッドが恋しいのに
今日は自分でも驚くほど、するりと抜け出した。
この日のために、一週間、あのお気に入りのワンピースを着ることを我慢してきた。
いつもなら、着て、洗濯してもらい、乾いたらまたすぐに着ていたけれど、姉とのお出かけの日に絶対に着たかったからひたすらに我慢していた。
姉の中学校の合唱コンクールの日、雨降り続きであのワンピースが乾かず大泣きした苦い記憶があるからだ。
もちろん、一週間前は“デート”の約束はとりつけていなかったけれど。
でもなんとなく、大丈夫だと信じきっていた。
私は鏡の前に立ち、頭の上半分の髪を束ねる。
あの、紺色のリボンと真珠とを隣り合わせにして。
もちろん、肩を通り過ぎた毛先からは姉と同じ香りをさせて。
この日は穏やかに晴れていた。
駅へと向かう長い銀杏並木はすっかり秋の顔をしている。
空に、葉の黄色がほんのり溶けている。
手を繋ぎ、ゆっくりと歩く。
写真を撮る人、立ち止まって木を眺める人……
それぞれにこの時間と空間を楽しんでいる。
ベンチに座る人の飲むコーヒーの香りが温かい。
「着いた!」
誰もが知る、中古本を売る店である。
「七瀬、本が欲しいの?」
「うん!」
「どんなの? 漫画?」
「あのね、お姉ちゃんが読んでる……」
姉はぴんときていないらしい。
読書家ゆえに、たくさん読むものだからこれでは何のことか伝わらないのだ。
「んー……どれだろう。」
「あの、“人”っていう字で始まってて……たぶん書いた人の名前が“太い”っていう……」
パンっと手を叩いて、元々大きな目が落っこちそうになるくらい見開いて
「こっち!」
と私の手を引っ張っていく。
大きな「た」のプレートが刺さった棚の前で姉が人差し指を滑らせている。
なんだかドキドキして、息を呑んだ。
「これだ!」
息を呑んだまま吐き出すことを忘れていた私はぷはっと一気に吐き出した。
半ば息切れ状態で手に乗せられたのは、私がずっと憧れていたあの本だった。
陽に焼けて茶色くなっている。
裏表紙は大胆に折れているし、枯れ葉色の栞紐はほつれて毛羽立っている。
「これ?」
少し屈んで私に目線を合わせながら姉が問いかける。
うれしくて、うれしくて言葉が出ず、カクカクと頷くことしかできなかった。
百五円の値札が貼られている。
姉の本棚にあるたくさんの本のほとんどにも、この小さなシールが真っ直ぐだったり、曲がっていたりしながら貼ってあるのだ。
さらにうれしさが積もる。
「ねえ七瀬? これ、お姉ちゃん持ってるから買わなくてもいいよ? あげるから!」
「だめ! 買うの!」
キッと睨みつける私に、すんなりと降参する姉。
何から何まで自分でやりたくて、届くか届かないかのレジにぐいっと腕を伸ばして本を置く。
「よろしくお願いします!」
とお店の方に声をかける。
「はーい、百五円です。」
折り紙で作った財布をカサカサ言わせて百円玉二枚を取り出して、またぐいっと腕を伸ばす。
百円玉二枚は、一冊の本と六枚の小銭に姿を変えて戻ってきた。
「ありがとうございました!」
お店の方と、同時に同じ台詞を言ってしまった。
それを聴いて、ケラケラと楽しげに笑っている姉の左下から見上げた横顔を、今も鮮明に覚えている。
元来た道を歩く。
私はスキップをして、時々姉の方を振り向き両手を広げて大きく振る。
姉は、右手を高く挙げ振り返す。
振り返るたび、小さくなる姿に
「お姉ちゃーん! 早くー!」
と両手を口の横にくっつけて叫ぶ。
少し走って、すぐに止まってしまう。
突然吹いた風に、銀杏の葉が舞い上がる。
私の視界は黄色に奪われた。
「お姉ちゃん……?」
私の家には同じ本が二冊ある。
それが、太宰治の『人間失格』である。
あの日私が百円玉二枚と引き換えに手に入れた本は、百二ページ目と百三ページ目とでほつれた栞紐を握りしめたまま勉強机の右端で眠っている。
紺色のブックカバーにくるまって。
内容なんて、実は全く理解はできていない。
何度読んだって、全然わからない。
それに、百三ページより先を私は知らない。
結末を知るのが怖いのだ。
「ようし。ゲンマンしよう。きっとやめる」
あの日の姉の声は溶け切らず、私の心の中で月のように浮かんでいる。
見えない力で、私を地上につなぎとめている。
目覚まし時計が朝を告げるより早く目が覚めた。
時計は五時を少し過ぎたところ。
外はまだ暗いけれど、駅側の空は赤らみ始めている。
しんとした部屋の空気は明らかに朝の顔をしているのに、窓の外の世界の色に脳が騙される。
朝焼けか、夕焼けか。
頭の中がかき乱される感覚が、少しだけ気持ち良くもあった。
ワイシャツのボタンをしめながら、私はかすれた声で口ずさんでいた。
「愛を学ぶために 孤独があるなら……」
カーテンから差し込む光が強くなり部屋の中の色がはっきりし始める。
「意味のないことなど 起こりはしない……」
部屋にコーヒーの香りがするりと入ってきてふんわりと広がった。
そのあとを砂糖が焦げたような、甘い匂いが慌てて追いかけてくる。
二つが混ざり合って、くらくらとした。
「ごめん七瀬! うるさかった?」
母が四角いフライパンを苦々しくにらみながら言う。
「ううん。」
「もうこれ寿命かな……油敷いてもくっついちゃって。」
そう言って、母は黙り込んだ。
私も、鼓動が一度変に力強く脈打つのを感じた。
「ああ、そうだ。ごめん、今日残業になりそうだから先にご飯食べといてね。」
「わかった。あ、私も今日バイトだ。」
「また? 無理しないでよね。」
お母さんもね、と言いかけてやめてしまった。
焦げた卵焼きを、申し訳なさそうにお弁当箱に詰める母の横で私は柿の皮を剥いた。
お弁当を詰め終わると、母は一気にコーヒーを飲み干しバタバタと出発していった。
あまりお腹が空かなくて、残りわずかなヨーグルトを器に移しもせず食べた。
柿はまるまる一つ分皿に乗っている。
一切れ目をかじる。
パリッと心地の良い音がリビングに響く。
六時五十分。
いつもならまだ、だらだらと支度をしている時間に今日はもうデザートも食べ終えた。
歯を磨きながら窓の外を眺めると、ジャージ姿の同年代や、スーツを着込んだ人、犬の散歩をする人、それぞれの生活が始まっている。
誰とも目は合わないけれど、こっちにおいでと言われている気がした。
勉強机の上の鞄を迎えに行く。
右側で眠るあの本が、目に入る。
「一緒に……行こう。」
鞄の、一番自分の身体に近い場所にそっとしまう。
タンッタンッと階段を降りる自分の足音が今日は随分と軽やかに聴こえる。
駅へと向かう銀杏並木はまだ緑色を残しながらも、少しずつ黄色く変わり始めている。
吹く風は柔らかく冷え、時折り私の髪を踊らせる。
あの古本屋はまだ、開店時間前。
私はその前を通り過ぎてから、一度振り向く。
誰もいない。
違う、微笑んでいてほしい人はそこにいない。
七時十五分。
いつもより早い電車はがらんとしている。
もちろん、座席は埋まっているけれど。
「よかったら座ってください。」
「あら、いいの? ありがとう。」
そんな会話が聴こえてくる。
穏やかな“生活”を聴きながら私は窓の外を眺める。
川って、こんなにきらきらしていたのか。
透明な水は空の青を奪い取ったかのようで、あたかも自分は空だと言わんばかりだ。
それでも、あまりに光をとらえすぎている。
あまりにも擬態が下手くそだ。
しかし、それが愛おしかった。
足元に、赤と緑が半分ずつのもみじの葉が落ちてきた。
校舎の扉は開いているけれど、生徒の姿はない。
七時三十五分。
こんなに早く学校にきたのは初めてだ。
下駄箱で自分の上履きよりも先に、左の一番上に目をやった。
「朝田さん……まだ来てないんだ。」
もう十月だと言うのに朝田さんとは、まだ一度も話したことがない。
何となく、お互いに避けている節がある。
理由はない。
ただ、触れてはいけないような近づいてはいけないような言葉では到底説明のつかない力が働いているように思う。
普段なら、彼女は私が扉を開ける時にはすでに自席についていて夢中で本を読んでいる。
私は、いつも教室の片隅で本を読む朝田さんがうらやましかった。
凛としていて、素直に本の中に生きているような姿に憧れていた。
一人きりの教室はとても広く感じられた。
窓を開け、冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んでから、ロッカーに座った。
誰一人として席についていない。
不思議だ。
強いられることのない“ひとり”は、こんなにも穏やかなのか。
紺色のブックカバーにくるまった本を開く。
百二ページと百三ページの間にあるほつれた栞紐が目に入り、慌てて一枚分戻る。
心臓がギュッと締め付けられる気がして苦しい。
ガラッ……
遠慮がちに教室の扉が開く。
一瞬、時が止まった。
朝田さんが、身体の左側だけを私に向けて
「……おはよう。」
と言った。
自分に向けられた彼女の声を聴くのは初めてだった。
「……おはよう。」
本のページは開いたまま、膝に乗せる。
本当は、彼女の方をしっかり見てもっと気の利いた「おはよう」を言いたかった。
勇気がなくて、膝の上の紺色のブックカバーを視界に残したままになってしまった。
朝田さんは自分の席について支度をしている。
緑色のブックカバーがかけられた本を手に取る彼女の後ろ姿。
私はなるべくゆっくり、百一ページを読んでいる。
開け放った窓から、足音や笑い声が入り込んでくる。
途端に寂しくなる。
ガラガラ、バンっという音と共に笑い声がなだれ込む。
「誰もいないじゃん!」
その言葉の直後から全く音を感じなくなった。
ただ、百三ページと朝田さんの後ろ姿との間で私の視線は行ったり来たりを繰り返す。
百三ページまで行っては、百一ページに戻る。
「ようし。ゲンマンしよう。きっとやめる」
恐らく騒がしいであろう教室の、その一番後ろで私は姉の声を聴いている。
……一人じゃない。
私は太宰治が好きだ。
姉の本棚で眠る、彼の作品は全て読んだ。
中でもとりわけ、『人間失格』が好きで何度も読んでいる。
百三ページまで。
何度読んでも理解できない。
彼の世界は、私の中に溶け切ることはない。
姉との時間を閉じ込めた、本そのものが好きなのだ。
陽に焼けて茶色くなったところも、大胆に折り目のついた裏表紙も、ほつれて毛羽立った枯れ葉色の栞紐も含めて全てが愛おしい。
その全く理解できずに溶けきらない世界が傍にいてくれることが幸せなのだ。
私は、『人間失格』を完全に理解できる日が来ることを恐れている。
それでも、姉が愛した世界を知りたいとも思う。
教室の席はすっかり埋まっている。
笑い合うクラスメイトたちの表情とは裏腹に、私の耳の奥は静まり返っている。
また、百二ページと百三ページがほつれた栞紐を抱きしめている。
私はまだ、透明になった姉の姿を探し続けていた。
「everyday I listen my heart……一人じゃない」
その夜は満月だった。
バイトの帰り道、私は空に手を伸ばす。
親指と、人差し指で、月を摘むようにして。
道ゆく人の靴の音、風が落ち葉をさらう音、少し遅い夕ご飯の香り。
秋の夜に、私も、みんなも、じんわりと溶けていった。
↑
天気予報で透明になってしまう朝田みどりちゃんはこちらです。
いいなと思ったら応援しよう!
よもぎちゃーん!
はーい!
何が好き?
ポテトチップスよりも
お・ぬ・し