『殴り殴られ詩人酒場』ep.87「兄弟」
──白波立つ芒の大海原にて。
銀の星を数え尽くした王子は西瓜の車箱の中で寝息を立てていた。
その車箱を覗きこむのもまた……
紺色の影が襖を弾き飛ばした。
俺は畳の毳を叩いている。
腹の下を押し潰す闖入者の重みに背を仰け反らせ、振り落とさんともがき、呻く。
さながら逆さまの尺取虫が如く……
「朔ちゃん!」
「あれ……どちらさんで……?」
俺はのしかかる男の顔を懶く見つめる。
すると奴は寄るべなさげに、細く言った。
「大ちゃんだべ? おめェの大好きな……」
「大ちゃん……? 知らないね。」
「またかい、朔ちゃん。またおめェそうやって意地悪すんのな……」
お国訛りの烈しい愛嬌ある闖入者は目を伏した。
「冗談だ!」
隙ありと、俺はかろうじて身体の上半分だけを持ち上げた。
畳を押し込む肘が痛む。
「半分、半分だ。」
「半分?」
「大ちゃんのこたァ知ってる。おめェが大ちゃんだってのも大体はわかる。」
男の頭蓋を疑問符が満たす。
脳髄疼きて仕方なしの苦悶に満ちた表情をしている。
「でもな、俺の知ってる大ちゃんはもっとこう埃っぽ……」
「あ?」
「叩けば埃が出るような……」
「なあ、朔ちゃん? いくらなんだってそりゃあ失礼……」
「ハハ! 怒んなって。紺絣、似合うじゃねェか……どこの色男かと……」
気をよくした男は俺の髪をもみくちゃにしてしてしまうと、襟元に手を掛けた。
その時だった。
「兄ちゃん!」
五つ釦の並んだ黒衣の青年が男の手を撥ね退けた。
「何すんだ!」
「何すんだ、でねェよ! 兄ちゃんこそ何してんだ!」
青年は男の両脇に腕を差し入れ、俺から引っ剥がすと畳に転がした。
「いつものことだ! なあ? 朔ちゃん。」
「いつも? おめェいつもこんなことしてんのか?」
呆れ返った顔で彼は男を見下ろしている。
俺はか弱き乙女の如く襟を裡合わせつつ鼻を啜り上げた。
「……朔ちゃ……あの、上原さん。兄がいつも申し訳ありません。」
青年は深々と頭を下げた。
脱ぎ忘れの学生帽が落ちる。
「なんだい……朔ちゃん。いつも涎垂らして悦ぶくせに。」
何の話だ、俺がいつ涎を垂らした、そう言いかけて、幾度となくこの男に寝顔を見られている以上そんなこともあったかも知れぬと口をつぐんだ。
「ほれ、草介。このだんまりが答えだ。」
「馬鹿、よせ。」
俺は大ちゃんの頬を軽く引っ叩いたが、もはやどの行動も草介青年の誤解を解くには値せぬように思える。
棒読みの如き笑いで刻を埋めた。
俺は畳に飛び散ったインクを拭きつつ、草介君に座布団を差し出した。
彼は遠慮して座布団の隣に極力、心掛けて、小さく正座した。
一方、大ちゃんはどっかりと座布団の真ん中に尻を埋めている。
「お? 新作かい?」
「ああ。」
「読んでもいいかい?」
訊ねるよりも早く、すでに原稿を三枚も繰っているこの男を窘めんと口を開きかけた時だった。
「馬鹿兄貴! そういうのは読む前に言え。」
「誰が馬鹿だ! おめェのおねしょ蒲団、隠してやったの俺だべ?」
いや、待て。
おねしょ蒲団は隠したらまずいんじゃないか。
否、俺は眼前で勃発した兄弟喧嘩を止めるべく「まァまァ」と二者の間に身を差し入れた。
が、やはりことの顛末への想像から頬骨がぶるぶると震えた。
「あの、本当にすみません……」
草介君は恐縮しっぱなしだ。
俺は首を横に振った。
「あ、そうだ。これよかったら……」
彼は荷物の隣に置いていた丸々とした麻袋を俺の膝へと寄せた。
中には鮮烈な赤を宿した紫の芋がごろごろと詰められている。
「ありがとう。こんなに……いいのかい? この芋……ええと……」
「べにあかです。」
そうだ、べにあか。
イヨさんが自分ばっかり大きいのをとって食っていた芋だ。
俺は喰い物に対する恨めしさを眉間に浮かべた。
「どうかしました?」
「いや、なんでもないんだ。聞いたよ。草介君が育てたんだって? 大豊作だったとか……」
「いやいや、俺はなんも。肥料とかその辺りのことだけで。畑のことは親父たちが……」
彼は伏目がちににんまりとした。
草介君はこの春、中学を出ることや、卒業式を終えたら大ちゃんの下宿の空部屋に入ること、夏に一高を受けること、帝大に入って農学をやりたいこと、なんかを話してくれた。
俺は黙って聞き入っていた。
「だけんど毎日毎日、寝ても覚めても芋……いんや。夢ん中でまで芋でたまったもんでねェってじじいが怒りましてね……」
「そんで、末の弟がじじいの寝っ屁に火ィつけようとして、危うく家を燃すとこで……」
彼の話は止まらなかった。
そして兄と同じく、よく笑う快活な青年である。
笑うと……否。
笑わずとも、彼は見るほどに大ちゃんとそっくりだ。
俺はつい大ちゃんと話しているような気になって、彼の莫迦に丁寧なもの言いに「らしくねェな」と茶々を入れては「草介です、弟です」と言わせることを繰り返した。
「冗談だ。」
「んだよ、人が悪ィ……あ。」
「気にすんな、楽にな。」
草介君は頭の後ろを掻いた。
その足はようやくほどかれ、俺の膝の横を突く。
「お、やったな?」
俺が突き返すと笑って突き返す。
兄弟を持たぬ俺は今更ながらに弟ができたようで、少年の心持ちで彼とふざけ合っていた。
「さてはおめェ、寝てねェな?」
大ちゃんは原稿をしならせつつ、俺の瞳に自分の瞳の色を注ぎ込んだ。
「近ェよ。」
俺は大ちゃんの額を折り曲げた人差し指の継目で突いた。
草介君は見ていられないといった具合に耳朶を赧らめた。
紙を繰る音だけが響く。
十二枚目の紙が音を立てた時のことだ。
草介君は鼻をひくつかせ、部屋中を見廻している。
俺は彼の視線を追ってみた。
思い当たる節のある塊に目がぶっついた。
「すまないね、これかな。」
俺はじっとりと湿った枯草の着物を襖の隙から外へ出した。
「いえ。小説家の部屋ってなんかもっとこう……酒瓶が転がってたり、煙かったりするもんかと……」
硝子製の灰皿に入れた乾燥花の生首を怪訝そうに見つめている。
「まァ朔ちゃん、甲斐性無しだもんな。酒も煙草もやんねェし……」
「誰が甲斐性無しだ。」
「だけんど、草介。朔ちゃんはな、こっちはすげェんだぞ。」
大ちゃんは小指を立てると俺の耳に囁いた。
「アレ、あの着物。晩にこれ、来たんだべ?」
「はあ?」
俺は大ちゃんの小指を握り折り、掴み畳に押し付けた。
幸い草介君には聴こえなかったらしく、灰皿の中で紫の花をかさかさ鳴らしてはその匂いを嗅いでいた。
窓からは黄みがかった陽の光が差している。
薄く舞う埃を照らし、淡い道を形作る。
花の鳴る音、紙を繰る音、ペン先の走る音が響く室の熱は建て付けの悪い窓の隙から柔に漏れていくのであった。
誰も否定せぬのをいいことに、俺は小説家のふりで指を黒く汚していた。
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前回の上原。
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闖入者は現代にも。
国文学科の貝原瑞樹も闖入されていた。
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あなたの心に闖入します。
白石が。
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【エッセイ+レシピ】
ちょうど一年前に書きました。
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ゆきお様・解説
兄弟、それの意味するところとは。
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