イラズンバーの虎
──イラズンバー博士は自身の研究室で白衣を濡らしていた。
授賞式に向けスウェーデンへと発つ北川進氏の後ろ姿を画面越しに見送る。
その背中は誇らしげにぼやけていく。
「北川特別教授は、分子サイズの極めて小さな穴を持つ、多孔性材料と呼ばれる物質の作成に世界で初めて成功しました。」
淡々としているようで、どこか言祝ぐようなアナウンサーの声が心に空いた分子サイズの極めて大きな穴をすり抜けていく。
博士はキャスター付きの椅子に座り、目を閉じる。
まだ見ぬストックホルムに想いを馳せる。
バルト海を一望できるレストランでミートボールをたらふく食べ、
パンパンの腹のまま、本場のサウナで整える。
式典では着なれないタキシードで大真面目にスピーチなんかをする。
どうせ緊張するのだから、左の靴下の中指あたりには故意に穴を開けておこう。
「私は大真面目なことを言っているが、実は今、靴下に穴が空いていて、それも左足中指が丸出しなのだ!」
そんな事実をひた隠しにするだけで、途端に緊張は和らぐだろう。
翌日はクルーズを提案されるが、船酔いが怖いので丁重に断りを入れ、ヘルシンキまで足を伸ばしシナモンロール食べ歩き一人旅を敢行。
かねてより、やってみたかったのだ。
そこで、夢見るフィンランドガールやフィンランドボーイからサインを求められ応じる。
たったの三人、されど三人。
そのうち一人はムーミンの形をした可愛らしいメモ帳を差し出してきた。
私は、そのぷっくり丸々とした腹のところにサインを入れた。
あの青年のキラキラと輝く青い目は生涯忘れることは決してない。
私は小さなよろこびと、念願のシナモンロールとを噛みしめる。
鼻に抜けるカルダモンのピリッとした香りと、包み込むようなシナモンの甘い香りが長年の研究の日々を美しく思い出させてくれる。
北川君と、彼の地元・京都で食べた茶色い三角形の菓子を彷彿とさせる香りだ。
あの頃も今も、我々の研究への情熱は何ら変わっていない。
また、近いうちにと言って別れてから忙しさにかまけて連絡すらとっていなかった。
どうしているだろうか。
──「教授! 教授! イラズンバー教授!」
「キタガワ……サン……?」
「教授! 何寝ぼけてるんですか! 授業です、授業! もう五分も経ってますよ! 急がないと、講義ゼロ分……」
「ガクセイ、タンイ、ゲッツ。デスネ?」
「そうです、そうです! 行きますよもう!」
助手に引きずられるような形で私は講義へ向かう。
本来であれば今日は休講ないし、この前を歩くイノウエサンに代理で教壇に立ってもらう予定だったのだ。
奇しくも今日は十二月十日。
ノーベル賞授賞式当日である。
「本日のテーマは“イラズンバーの虎”です。」
待ってました、と言わんばかりに学生たちの瞳の輝きは最高潮に達している。
世界中の無影灯が私を全方位から照射しているかの如く眩しく、そして熱い!
毛穴という毛穴全てから水分と塩分が吹き出している!
ポセイドンの悪戯か、今日のバルト海は大荒れだ。
否、晴れている。
波は穏やかだ。
ならばこの音は何だというのだ。
拍手だ。
荒れ狂う波の破れんばかりの拍手だ!
ああ……
何という心地よさだろう。
私は船酔いのことなどすっかり忘れ、波に身体を委ねている。
沈み込んでいく、心地よい海の底へ沈み込んでいく。
目を開ければキラキラと、水の粒子ひとつひとつを光が貫くのが見える。
──ボンッ!!!!
「What's happened?!」
ボンッ……ボンッ……ボンッ……ボンッ……
ハッとして周囲を見渡す。
そこは当たり前のように大学の古びた教場だ。
無影灯など勿論なく、ひとつ飛ばしでともる蛍光灯ががぶら下がっているのみである。
机は中途半端に開いた扇状に並び、そこに学生がちらほら座っている見慣れた光景だ。
白衣はぐっしょりと湿っている。
マイクは足元に落ち、紙資料の束の最初の十枚ほどはヘナヘナと波打っている。
左端の学生が喉元を抑え、プルプルと震えている。
微かなガス臭が漂っている。
「ミナサン! アブナイ! ニゲマショウ!」
そう叫ぶ私をよそに、
椅子に貼り付いてしまったかの如く学生たちは動かない。
それどころか突っ伏して震え出す者、頭をかかえ目を上転させる者、ヒッヒッと呼吸を乱している者まで出てきた。
この尋常ならざる状況を打ち破ったのは、毎度中央列前方から三番目に座る学生だった。
「教授! ヨモギンスキー・イラズンバー教授。これこそが、“イラズンバーの虎”の具現です!」
いつも冷静沈着な彼女が熱と圧を帯び始めている。
「まさにこの状況が“イラズンバーの虎”……! 先生! 黒板の下を!」
黒板の下には昔、何かをしまっていたか何かの名残の穴が空けられている。
──あまりの恥ずかしさに穴があったら入りたいと願った時、運良くそこに穴があったとする。
学生は懸命に平坦な声で述べる。
「シツレイデスガ、ワタシ、イマ、ハズカシイ、ナニモナイ!」
「え?」
依然としてガスの香りは漂い続けている。
もしや……
途端に私は顔面が、妻へのプロポーズに送った百本のバラ全てを集めても具現化できないほどに紅潮しているのを感じた。
……穴があったら入りたい!
私は今一度振り返る。
穴が、ある!
──それが“虎穴”だったとしたら、あなたは入りますか、それとも入りませんか?
彼女は言い終わり、しかし抑え込もうとした熱狂と興奮が抑え切れないのかその小さく整った生真面目そうな鼻を膨らませている。
「あまりの恥ずかしさに
穴があったら入りたいと願った時、
運良くそこに穴があったとする。
それが“虎穴”だったとしたら、
あなたは入りますか、それとも入りませんか?」
これが私の長年の研究テーマであり、シュレディンガーの猫と同様、思考実験の「イラズンバーの虎」である。
これは、幼少期より気になっていた
“人間のやたらと穴に入りたがる習性”を元に始めた研究であった。
やましいことをしては穴を掘り墓を作り、
徒党を組んで悪だくみしてはムジナに風評被害を与え、
恥ずかしいことがあれば穴に身を隠し、
虎の巣穴に好機有りと信じ込み虎に迷惑をかけ、
金銀財宝に目が眩んで穴におむすびを落として身を滅ぼす爺さまがいたり……
そして極め付けは日本文化を徹底的に学んだ際に知った“竪穴式住居”。
入りたがるも何も、もはや家が穴、穴が家。
穴に住んでいた。
穴で生まれ、穴に育ち、、穴から出勤し、穴に帰る。
「イラズンバー教授!」
急かすような彼女の声に少々苛立つ。
例の穴を見つめる。
「コノ、アナノナカニ、トラノコ……」
……いるわけあるかい!
誰だよ、ヨモギンスキー・イラズンバーって!
ところで先日、私が書店爆破未遂事件を起こしたことを覚えていらっしゃるだろうか?
……そうだ、それだ、その件だ。
馴染みの書店で爆音の屁をかましたアレだ。
それこそあの時、穴があったら入りたい……どちらかといえば穴に入るまでもなく“消えたい”といった気分ではあったがそこは気持ちを捏造してだな。
穴があったら入りたかったということにしておこう。
でだ。
のっぴきならぬ事情があり、本が必要だった私は恥を忍んで例の書店へ出向いたのだ。
……他に選択肢がないからな、本屋の。
なんだか現場に戻ってきた爆破事件の犯人の気分でドアを通過するのがはばかられた。
刑事が張っていないことを確認してから入った。
物陰であんぱんを貪っている人間がいたが、どう見ても刑事のツラをしていなかったからな。
タイヤ付き椅子でぶら下がっているおもちゃを蹴飛ばしながら貪っていたぞ。
それはさておき、二週間と少々ぶりの店内は、相変わらず人もまばら。
レジには……
あの日のスキンヘッドベレー帽!(の店長)
エスプレッソボイス!(の店長)
今日も深みたっぷりの
「いらっしゃいませ」をデミタスカップになみなみと。
書店で爆発的な屁をこき屁の音波で壁に穴を空けんとした私。
脳内であの深みのある「いらっしゃいませ」のフレーバーを味わい尽くそうとすればするほど恥ずかしさという雑味が際立ってくる。
「あまりの恥ずかしさに
穴があったら入りたいと願った時、
運良くそこに穴があったとする。
それが“虎穴”だったとしたら、
あなたは入りますか、それとも入りませんか?」
今なら即答できる。
入りません、と。
どちらかといえば、この恥を多孔性材料の全穴に吸収させたい。
……やめろ。
北川進氏の功績をおのれの尻拭いに使うな!
キタガワサン、オメデトゴザイマス。
カナラズ、ワタシモアトニツヅキ……ツヅク?
シマス。
イラズンバー教授は式典の翌日、バーサ博物館で沈没船を観て、
帰国の前日までには研究室の学生たちにお土産のサルミアッキを購入するのであった。
【イラズンバーの虎】
班超による“虎穴に入らずんば虎子を得ず”に由来する思考実験。
〈内容〉
穴に入りたいほど恥ずかしいと思った時に運良く穴があったとする。
しかしその穴は虎の巣穴で中には虎の子がいる。入れば恥は隠せるし、虎の子(大きな成功)も得られるが親の虎に噛み殺される危険もある。
あなたならどうする?
いや、そもそも私は
「虎穴=虎のケツの穴」だと思って生きてきた。
この故事に対して、
「なんか臭そうじゃね? 絶対入らんわ、うん。」
とか、
「うんこまみれになってまで手に入れる成功なんて欲しかねえよ」
なんて言っていた。
それこそ、穴があったら入りたい!
何はともあれ北川進特別教授ならびに研究室の皆さま、受賞おめでとうございます。
今後はぜひ、“モバイル恥吸収装置”の開発及び実用化をよろしくお願いします。
……図々しいにもほどがある!
人様の偉業を私利私欲に用いようとしている私は今こそ穴、それも虎穴にダイブして親の虎と対峙すべきだと屁っ放り腰で弱々しく呟くのであった。
↑
童謡を空耳してラルク化し、妙な世界観の中で泣いていた日々。
あれも穴に入りたい案件である。
【参考資料】
イラズンバー博士の涙でぼやけた映像はこちら。
◽︎読売テレビニュース
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はーい!
何が好き?
ポテトチップスよりも
お・ぬ・し