ラブと夏の入り口

2025年7月18日(金)
東京は梅雨からログアウトした。
そして夏にログインした。
道ゆく人が棒付きアイスをかじりだす。
これが“夏の風物詩”という言葉の解禁の合図。
リーン…リーン…と涼しげな音を響かせる風鈴の音を聴きながら
今年もこの季節がやってきた。
ラブラドールシリーズ第3弾は「ラブと夏の入り口」。
小学2年生の私と1歳になった黒いラブラドール ・レトリバーのチョコと夏休みの記憶。
↑
第1弾「ラブと枝豆」
ラブラドールの肉球とだだちゃ豆の匂いは紙一重。
↑第2弾「ラブと渦巻き」
ラブラドールの毛に染み込む蚊取り線香の匂いが好きという話。
1.世界で一番かわいいお化け屋敷
夏、我が家は世界一かわいいお化け屋敷になる。
もしカンタに
「やーい!おまえん家、おっばけやーしきー!!」
と言われたら、
「いいだろー!でーっかいまっくろくろすけでるんだから!」
と返すつもりでいたほどだ。
とにかく絵を描くのが大好きだった私は長期休暇、とりわけ夏休みになると
夜中こっそり起きて2階の自室から1階のリビングへ向かう。
一度、階段を踏み外した音で、泥棒と勘違いした母から竹刀で制裁をくらい(後にも先にもあそこまでビビっている母を見たことがない)死にかけたことがある。
だから私は脱出ゲームのレーザートラップをすり抜けるが如く慎重に移動した。
これぞまさしくリアル脱出ゲームである。
服部半蔵も顔負けの抜き足差し足忍び足で最後の一段を降りると…
グニャッ
ギロリと緑色の2つの光がこちらを照らす。
…犬踏んじゃった。
いぬ ふんじゃった いぬ ふんじゃった
いぬ ふんずけちゃっても 無反応
いぬ 無反応 いぬ 無反応
いぬ 顔あげたけど 無反応
黒い いぬは みどりの目
黒い いぬは 動かない
いぬ しーん いぬ しーん だまってる
ためいきついて あきれてる
いぬ ごめんなさい いぬ ごめんなさい
いぬ ふんずけちゃってごめんなさい
いぬ ゆるしてよ いぬ ゆるしてよ
次 気をつけるから ゆるしてよ
我が家のまっくろくろすけは夜だけペリドットの瞳。
「ごめん!ごめんね!」
暗闇で、手を合わせてウィスパーボイスで平謝り。
人間の4倍の聴覚を持つまっくろくろすけ。
彼の耳にはきっと私の謝罪は届いたはず。
大きなため息とともに、緑色の光が消えた。
「仕方ねえなあ…ったく…次から気をつけろよな。」
のため息。
きっとそう。
もう一度、心の中で「ごめんね」を言いながら
まっくろくろすけを撫でていたら、急に眠くなってきた。
このまっくろくろすけの身体からは睡眠薬が出ているのだから仕方ない。
私は当初の“絵を描く”という目的を忘れ、
階段の下で「おやすみ、チョコ」と呟いてそのまま眠るのであった。
蛍の光で読書をしたという昔の人に憧れて、
“犬の瞳の光で絵を描きたい”という夢を抱いていた私。
しかし毎回睡魔に邪魔をされ、試すことすらできなかった。
それでも、
世界一可愛いお化け屋敷で、
世界一大好きなお化けを枕にして眠る。
この瞬間、間違いなく私はこの世で一番幸せな小学生2年生だった。
2.夏休みの朝は早い、そして夜は遅い
我が家の生活はチョコを中心に回る。
母が狼煙を上げるが如く蚊取り線香を焚き始めたところで1日の幕が上がる。
父が起き抜けにぶちかます特大の屁は法螺貝の如し。
朝の散歩はAM5:00。
陽が高くなる前、ここしかチャンスはない。
さもなくば、全身真っ黒のあの犬は頼まれてもいないのに
真夏の太陽請負業者として企業し始める。
すでに黒いが黒焦げ待ったなしだ。
それに、アスファルトはBBQでもできそうなほどに熱くなる。
チョコの肉球を案ずるも、脳裏を過ぎる
“だだだちゃ豆”の香り。
“犬の肉球焼き”なんて、わけのわからない言葉を浮かべつつ、さやごと焼いただだちゃ豆の様子を想像して部屋中転げ回って笑った。
母は呆れ、チョコはため息をついた。
父は壊れたドライヤーから吹き出した火花で黒焦げになっていた。
何も燃えるのは真夏の太陽だけではない。
父も燃える。
物理的に。
夜の散歩はPM8:00。
陽が落ちて、アスファルトからBBQ感がなくなると
ようやく散歩に出られる。
夏休みの夜というのは、街明かりが少し減るものだから
真っ黒けのチョコは夜の闇と同化する。
1時間の散歩の間に5,6回は見えなくなる。
緑色の2つの光が見えたらチョコがこちらを向いているサイン。
私はその瞬間が、一番誇らしかった。
3.インドア派の犬
チョコは犬でありながら、インドア派だ。
いや、別に犬だからといってアウトドア派でなければならない理由などどこにもない。
多様性だ。
彼はあまり散歩が好きではないらしく、
溶け始めたソフトクリームのようにふてくされた顔をしてノソノソと歩く。
帰る頃にはコーンから落ちてどろどろになったそれのようになっていた。
ただ、夏の朝晩の散歩だけは違う。
我が家に来た次の朝から、天に昇る年の夏まで、
夏祭りのラムネのように跳ねていたことを思い出す。
楽しげに、軽やかに。
チョコが跳ねるとついでにバッタも跳ねていた。
学校がある日はぐったりしているのに、
休みになると元気になる自分とそっくりじゃないか。
夏休みの間、私もまたラムネだった。
4.犬ソファ
無限に時間を溶かす。
日がな一日黒いラブラドールと過ごす夏は最高だ。
チョコに寄りかかり
紙とインクと不穏な匂いがする
「ジャングルはいつもハレのちグゥ」を読む。
外は晴れ、チョコのお腹はグゥと鳴る。
相変わらず蚊取り線香はもくもくと、
私たちを包んでいる。
テーブルの上では麦茶入りのコップが大汗をかいている。
3時間前、チョコは床に琵琶湖を作っていた。
“よだれの海”なんて呼んでいたが、あれは湖だ。
ごはんのたびに、いろいろな形の湖ができる。
今思えば、note毎日投稿の予行演習のような
“毎日絵日記”の何日分かはこの
よだれの海改め“よだれの湖”観察記録であった。
よだれの形だけ自由帳にスケッチを残しておく。
宿題の絵日記というものには匿名性がない。
だからこそ“父の屁が法螺貝”だの“アスファルトで肉焼いてみた(焼いてない)”だのという名誉毀損まがいの内容や意味不明なものは書いてはいけないと幼いながらにも思っていた。
よってネタの取捨選択をすると、
ネタ切れではないけどネタ切れと言ったダブルバインド的なものをくらう。
その時のためのよだれスケッチだ。
…今思えば、この頃から下書きという名の屍を生み出していたわけだ。
でもこの日はもう、下書きも何もなく、
「家の中に“琵琶湖”ができました。」
で決まり。
漫画の中ではグゥが風呂の湯を飲み干して、彼女の腹の中に住む人々が溺れていた。
絵日記のネタを決めたことで
積み上がる宿題に手をつけていないことへの罪悪感を軽くする。
カランと音を立て、空になったコップの中の最後の氷が溶けた。
薄くなった麦茶を飲み干す。
罪もコップもすっかり軽くなっていた。
「はい、大人2名、子ども1名、犬が1頭…大型犬です、はい。ラブラドールです。あ、空いてますか。良かったです。はい、ではよろしくお願いします。」
母が旅行の予約をしている。
“犬が1頭”…
チョコも一緒にいけるんだ。
私はチョコに駆け寄って、
「一緒に行けるね」と抱きついた。
いわゆる“目に入れても痛くない”とはチョコのことだ。
しかし、毛のせめぎ合いに顔を埋めて目に彼の毛が入った時は死ぬほど痛かった。
“目に入れても痛くない”はさすがに嘘だと思った。
ことわざや慣用句は字面のまま受け入れてはいけないことを知った。
少し背伸びをしたキラキラの指先で目をこする。
まだ夏の入り口だというのに、
人間の夏バテはとうに進んでいて
我が家の食卓から米もパンも姿を消していた。
チョコだけはいつも通りしっぽをふりふり、もりもりドッグフードを食べていた。
いや、吸い込んでいた。
どちらにとってもそれは日常だが、
この旅行予約の電話が非日常を連れてくるきっかけとなったことは言うまでもない。
いまだ痛む目を薄く開けて、
窓の外のひまわりの黄色を見つめた。
その場所に、今ひまわりは咲いていないけれど。
【参考資料】
◽︎じゃらん観光ガイド
超密室 リアル体験型脱出ゲーム
◽︎PETKOTO
犬の聴覚は人間の何倍?聞き取れる周波数や距離など、耳の構造について紹介
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