二十億光年の朝マック
銀河売りチームに配属された夫が二十億光年の出張に出るので、いつもよりも一組多く、パンツと靴下を用意する。
出張は何度も経験してきたけれど、どれも刹那五、六ぶんほどの短いものばかりだった。二十億光年というのは長い。長すぎて、よく分からない。夫は真面目な顔つきで、テレビの画面を見つめている。
「ディスポーザー」
視聴者クイズにハツラツと解答する夫の、無邪気な横顔の頬が垂れて首との境があいまいになっている。十年前よりも顔の輪郭をうしなった夫に「おいなりさん何個入れる」弁当箱に五個詰めたところで訊くと、笑顔でふりむいて「五個入れて」リモコンを手に取りテレビを切る。
外に出ると五月晴れが目にまぶしかった。病院には九時半すぎに着けばいいと言われている。遊歩道が池を囲う中央公園を手をつないで歩いていく。
この道を、初めて夫と歩いたときのことを思い出す。たくさんの友人と出かけたお花見の帰りに、なぜふたりきりになったのかは覚えていない。並び歩いているうちに、嬉しいだの悲しいだの怖いだの、それまでは別々の瓶の中にきちんとおさまって正しく陳列されていた色水がいちじに倒され綯い交ぜにされたような気持ちになって、もう取り返しがつかないと呆然とした。夫を好きになったのだと、しばらくしてからようやく分かった。色水は今も、混じり合ったまま広がっている。夫の手を、強くにぎる。
「桜のつぼみって初夏にできるらしいで」
夫に教えると「へぇ」感心したような声をあげて、手を強くにぎり返してきた。今は誰も見上げなくなった桜の木の、青葉の隙間からこぼれる光が風にそよぐたび彼方此方であまりに瞬いているので、
「天体観測みたいや」
わらいながら夫に伝える。ほんまや。嬉しそうに私に同ずる、夫の声が近かった。夫のことを、近くにいるものだと思っていた。近いとは、どういうことだったのか。強くにぎりあう手のひらが、そこだけ別の生き物になったみたいに熱く脈をうっている。
銀河いっこ、預けとくわ。
銀河売りチームに配属されてしばらくたった頃、夫がそう言って手渡してきたのはガラスの万華鏡だった。座り込んだまま夕食に手をつけないので「どうしたん」手を伸ばして夫の前髪をそっと寄せると、光のない目で手首を掴みダイニングに押し付けて、開かせた手のひらの上に万華鏡をのせて言ったのだった。
覗いてみて。
言われるままかざし持つと、透明な花柄のモザイクが途方もなく広がっている。動かしたらあかんで。音もなく背後に回り込み、万華鏡を持つ私の手に添えてきた夫の手が、あまりに冷たくて息を飲む。
今見えてるガラ、おぼえて。
淡々とした硬い声に令されて「おぼえたで」掠れ声で従順に答えた瞬間、夫が勢いよく万華鏡の筒を回した。数えきれないほどのモザイクの花が目まぐるしく咲き狂うさまを見つめていると「四億回まわしたら、さっきと同じガラになんねんて」耳のすぐ側で知らない男の声がした。
銀河売りがどこで何を売っているのかは、銀河売りしか知ってはいけない決まりだった。夫が決まりを守っているせいで、銀河売りのことを、本当に私は何も知らない。万華鏡を手渡して夫は何も食べずに眠ってしまったけれど、翌朝には「朝マックせえへん?」お腹を掻いてあくびをしながら、何もかも忘れたように起きてきた。
「十時発のタナカです」
病院の受付で夫が告げると「タナカさんは一番線からの出発です」出張の工程表をカルテに挟んで、総務の女が渡してくれる。
光年を越える出張は、MRIから送り出される。地下に降りて鉄扉を開くと、白木のフロアタイルが敷かれた部屋の中央、巨大なMRI装置は白とミントグリーンのモダンなデザインで、部屋の隅には北欧の雰囲気によく似合うカウチソファがさりげなく置かれている。
「張り切って吹っ飛ばしますからね」
カルテを確認したエンジニアが、ベッドに横たわる夫の胸と太ももを固定ベルトで締め上げる。カウチソファに腰掛けながら、腹の上に弁当箱と下着を乗せて仰向く夫の姿を目に焼き付けていると、部屋の明かりが落とされてモーター音がし始めた。
「二十億光年は、だいぶ遠いね?」
堪らなくなってとうとう訊くと「もう預けてるから遠くない」いつもの声でおだやかに言って、夫がMRIに飲み込まれた。
エンジニアが撮影した断面図が、MRI室の壁に映し出されてネオンカラーに光っている。脳。パンツ。おいなりさん。夕立の、渇いた土の上に雨粒の跡が次々重なっていくみたいに、夫のカラフルな断片はあっという間に壁一面をうめつくした後も際限なく降り続いて、無限に投影される光が生み出したテレビの砂嵐のようなモザイクは、星が瞬いているような、花が開いているような、一瞬のうつくしい運動をいくらでも繰り広げている。
「無事にいかれました」
部屋の電気がついてエンジニアに声をかけられると、夫の姿はなくなっていた。病院を出て、来た道をひとり引き返していると小腹が減っているような気がする。中央公園の葉桜を見上げながら「朝マックは終わってるか」独りごちて、小さなくしゃみをひとつする。
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シロクマ文芸部の企画に参加させていただきました。
