レインな僕、キャンディーな僕
※今回は「日記」でシロクマ文芸部に参加させていただいてます
「三月は」から始まりそうな風景を頭の中に広げ始めたところで、自分がこの言葉を、関西の抑揚で読んでいたことに気づきました。
わたしの中で「三月」の抑揚って、
●標準語 → たんぽぽ
●関西 → いもむし
なんですよ。正確にいうと若干違うんですけど、でもまあ、おおむね「いもむし」みたいな抑揚。
それで、試しに標準語の抑揚で「三月は」って読み直してみたら、言葉が連れてくる風景というか、立ちあがろうとする小説の「感じ」が全然違う。
ああこれすごい。なんだこれ。何現象?
と、なんかもう大興奮してしまって、勢いでこの記事書き始めてるんですけど、
これ誰か伝わる人いるかな。(いなくても、もう止まらないけど)
◇
抑揚をめぐっては、つい最近、自分的に大発見したことがあったんです。
それが表題の「僕」について。
「僕」の抑揚って、
●標準語 → 雨
●関西 → 飴
だと思うんですね。これもデフォルメして言ってるだけなので、実際はちょっと違うし、地域というより個人の癖によるところが大きそうですけど。
で、わたしは小説で「僕」という言葉を読むときに、それが標準語を話す人物であったとしても、まあまあな割合で「飴僕」読みをしてることに気づいたんです。明らかに標準語の文脈なら「雨僕」で読んでるんですけど、すきあらば「飴僕」。
例えば、大人の男性が話す、
「僕ね」とか「僕のほう」とか「僕は、見たことないです」
とかだと、もう100%「飴僕」変換案件。
(※3個目については「ないです」の部分まで勝手に抑揚を関西にしてたりする)
で、これ読み手の立場のときだけじゃなく、書き手の立場のときも発動してたことが分かって。
標準語を話す人物なのに、わたしは無意識でところどころ、「飴僕」の抑揚でセリフを書いてたんですよ。そのことに気づいてから、小説で使われてる全ての僕を「雨僕」で読み返すと、ところどころニュアンスが違ってくる。
いやいやいや、待って。ここは「飴僕」やから良いのであって、それが「雨僕」になるとか聞いてへん。そっちがその気なら、こっちはそうやな、とりあえずこのセリフから「僕」抹消するわ。なぜならば、ここで「雨僕」は誤解しか生まないから。
◇
言葉の抑揚と、言葉の認知って、ものすごく繊細に関係しあってるのかもなぁと思った一件でした。
ちなみにわたしが勝手に「飴僕」で読もうとするのは出身地というより、
なんかそっちのほうがかっこいいから。
っていう超個人的な癖(へき)と、ヘアピンカーブ級に角度ついた認知の歪みによるものだと思います。
これからは最初からおとなしく「雨僕」で書こう。
ちなみに「たんぽぽ三月」と「いもむし三月」は、この記事書いてる間に完全に霧散しました。
これも、また今度書こう。
<1166文字>
シロクマ文芸部の企画に参加させていただきました。
2026.3.9 追記
週刊シロクマ文芸部にて、『タイトルにグッときたご参加記事』ということでご紹介いただきました!
とても嬉しかったです。ありがとうございます。
