1年勉強してわかったことなど
わーだいぶ時間が空いてしまった。過ぎゆくあっという間の日々、少し心のメモをしておかなければと焦る。
去年、教育ローンを組んで学校に通い(オンラインだが)1年間にわたってコーチングを学んだ。新規で始めた仕事と同時期になってしまったことで、去年は本当に時間との闘いに明け暮れた。そして、学校が終わって半年強、答えらしきものを得た。
「学費を払って時間を費やして学んだ結果、自分に特にコーチングは必要ではなかった」ということだった。もちろんここで注釈は必要で、コーチングは素晴らしいメソッドだと信じているし、自分自身、コーチングを受けた側の経験からしてもブレークスルーを呼び起こせた稀有なコミュニケーションスキルだと思う。
ただ、「うん。理解した。私はいいや」という確信を得られたことが、高い授業料を払って私が到達した答えであった。ある意味で無念でもある。
私はコミュニケーション領域の仕事をしているので、長年の経験にコーチングのスキルを体得することは深みをもたらせると考えていた。そして、自分に不足している何かを得られる手だてにもなるんじゃないか、なんて期待して。
コーチングを否定しないどころか素晴らしいメソッドであることは、学んでみてさらに理解した。ただ、私の好むコミュニケーション技術ではなかった、ということ。でももしかしたら、基本をおさえつつ熟達していけば、人間的個性を併せ持って独自の体系化はできるものなのかもしれない。そういう狙いで学んだものなので、なんだか資格取得をしなくてもいいんじゃないかな、と思った。高い学費を出したので、資格取得くらいしておかないと無意味になってしまうんじゃないか、そう思っていたのだが、最近になって「そっか、もういいんだな自分」と、つくづく納得していることに気が付いた。
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今月の半ばを過ぎてから、亡父の納骨式を行う。子どものころ、長女の姉はよく「私が家を継ぐ」と宣言していた。そこには長子の誇りすら感じられた。私はできるだけ風来坊のように、たんぽぽの綿毛のようにしてあちこち自由に飛んでいきたいと子どもの時分から思っていたもので、「そりゃ好都合!」と思っていたのをよく覚えている。けれど結果的に、気づけば私が家を継いでいる。やむなくであるが。
納骨式のあとは盛大においしい食事をみんなで楽しもうと思う。宗教的儀式とは無縁な宴だ。だって、ここ5,6年ほど晩年の父は、あれほど愛した大勢で飲み食べ騒ぐという宴と無縁だった。父は本当に、気心の知れた人達や家族と和気あいあいと食事をすることが好きだった。
だから、私の大好きなお店に休日にも関わらず店を開いていただき、縁者に集まってもらうことにした。めいっぱいおいしいものを食べて、父に届けて挙げたいと思う。
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最近思う。この先の延長戦、ではなく、思い切った転換を図る必要がありそう。キャリアの話。ほんのちょっとだけど、それを思うとワクワクもするのだった。
