「希望」あるいは「災い」の兆候
今さらなのだが2022年に放送されていたテレビドラマ『エルピス』を一気見した。かなり衝撃を受けた。
こんな優れたドラマが民放でやっていたのか、ということに。観終わって、こんな優れたドラマを情熱と覚悟、気概をもってつくれるひとたちが日本にいるのか、ということに。
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基本的に日本のテレビをほぼNHKしか見ないうえ、ドラマは大河とか朝ドラ以外は海外ドラマしか見ない。それなので、『エルピス』放映当時に非常に話題になっていることをネットニュース等で知ってはいたが、だからといって観てみようと思うことはまったくなかった。今回、配信でお薦めにしつこく出てくるので観てみた。最初、非常に気軽に。しかし、冒頭で『エルピス』の意味について説明があったと思うのだが、
タイトルのエルピス(Elpis)とは、古代ギリシャ神話で様々な災厄が飛び出したとされる「パンドラの箱」に残された「希望」あるいは「災い」の兆候のことである
私は残されたものがふたつあるとは知らなかった。「希望」が残されている、というのはよく耳にしていたが、『「希望」あるいは「災い」の兆候』とは。つまり、希望と言えなくもないが災いに転じる可能性もある、それらを含むものの、兆候、ということだろうか。ここでぐっとつかまれて、「これはすごくうまいフックの作り方だな」と感じた。
主人公たちはマスコミ勤務の会社員であるが、その職種に理解がなくともドラマ自体に入り込むことはスムーズにできる。しかし、自分もいっときマスコミの中にいたことで、主人公がだんだんと真実をのみこんでうわっつらの情報だけを面白おかしく操作して届けることに自己免疫疾患のようにして飲まれていく、体と心を病んでいく様子はものすごくものすごく理解した。
毎度番組の打ち上げシーンが登場するが、あれらの様子など本当に自分が知っている世界そのままであり、「なんでここまでリアルなんだろう?」と思って調べてみた。プロデューサーの佐野亜裕美氏だ。
経緯や私がその経歴の過程から類推したことを文字にするのは、なんとなく佐野さんへの冒涜になりそうなのでここはただ出典先を記しておきたい。だけどその経歴、過程を知ってすべて腑に落ちた気がした。
このドラマの白眉は脚本だ。なんという巧さであろう。何度も何度も、胸を突かれるようなセリフがあるし、日常の描写についても男と女の問題についても、信条や感情についても、はっとさせられる連続だった。近頃こんなセリフに遭遇したことはない。絵づくりにおいてもそれは該当し、長澤まさみの信じられない美しさと、その彼女が胸のうちを訴える演技とセリフの巧みさを盛り上げる背中からの光の入りかた。演者の演技を最高に引き立てるシーンの巧さにこれまた何度も帽子を脱いだ。
物語も当然面白く、これを配信で一気見できて幸いだなーと思った。連ドラで毎週待たされるなんてたまらん!とすら思った。
鈴木亮平演じる斎藤がまたよかった。斎藤と浅川(長澤まさみ)の関係やそれぞれのキャラクターが動かす物語性、あそこまで明確に愛より才能を迷うことなく選べる斎藤という人間の生き方にもうならされる。愛より己の才能を選んだのではなく、正しくは才能に殉じたことで愛情生活がこぼれおちていく。ドラマでは流しだされると言っただろうか。二択にすらなっていないのだ。斎藤という人間の宿命的な生き方だ。
ーー私は斎藤を好きになりすぎていた というモノローグがあったが、普通であればその状況は「大好きだ」とか「好きでたまらない」といった表現になろうが、「好きになりすぎていた」。これは深い。浅川が斎藤を愛することへの躊躇、ためらいがあった過去がわかるし、どこかで線を引きながら自分で愛情をコントロールできると思って踏み込んだのではないか。
とにかくこういう記憶に残るセリフが多い。
演者はみんな素晴らしかったし、こういう作品に出逢えて本望だったのではないだろうか。
脚本の渡辺あやさん、プロデューサーの佐野さん、この方々がつくるドラマを今後はぜひチェックしたいな、と思った。
一気見したこともあって、まるでドラマの進行に合わせて自分も同じ時間を生きたような気分になっており、「エルピス」というパンドラの箱の最後に残った「希望」あるいは「災い」の兆候という、絶妙なグラデーションの「ある何か」を、自分も共有したような気持ちである。
