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「400回の再検査」その後――鉄道模型甲子園は、失敗を資産にできるか

先日、私はこんな記事を書いた。

「鉄道模型コンテスト――400回の再検査は誰の失敗なのか」。

ありがたいことに、この記事は思った以上に多くの方に読んでいただいた。

そして公開後、いろいろな話を聞く機会があった。

もちろん、ここで書く話のすべてについて、私自身が一次資料を確認できているわけではない。

人から聞いた話は「聞いた話」として扱うし、そこから考えたことは「推測」として扱う。

その前提で、前の記事を書いた時点では見えていなかったものが、少しずつ見えてきた。

そして私は今、こう思っている。

あの「400回」は、大会の失敗を示す数字であると同時に、とてつもなく貴重な資産なのではないか。


400回「失敗した」だけではない

まず、前の記事から一つ視点を追加したい。

約400回の再検査が行われた。

これはやはり異常な数字だと思う。

しかし、考えてみれば当たり前のことがある。

その多くは、最終的には直ったのではないか。

そうでなければ、コンテストそのものが成立しない。

不具合が見つかった。

直した。

再検査した。

また問題があれば直した。

そして最終的に作品をつないで、大会を成立させた。

だとすれば、約400回という数字は、

「400回も不具合が発生した」

という数字であると同時に、

「現場がそれだけの不具合に対応した」

という数字でもある。

ここは、もっと評価されていい。

現場のボランティアやスタッフが頑張ったから、大会は成立したのだろう。

しかし、だからこそ私は思う。

来年も現場の頑張りで400回直せばいい、ではいけない。

現場が優秀だからシステムの問題が見えなくなる。

これは組織ではよく起きる。

私はこれを「属人的補償」と呼んでいる。

人間の頑張りによってシステムの欠陥を吸収し続ければ、表面上は成功する。

しかし、その人たちは疲弊する。

そして、いつか吸収できなくなる。

だから次に必要なのは、

「なぜ400回必要だったのか」

を調べることだ。

ベースそのものが変わっていた?

公開後、興味深い話を聞いた。

以前、共通支給されるレイアウトベースは、木工業者による完成品だったという。

それが近年、参加校自身が組み立てる、より簡易な方式へ変更されたという話である。

そして、その組み立てに失敗した結果、寸法などがおかしくなってしまった学校があったとも聞いた。

繰り返すが、私は現時点でこの話について大会側の資料などで確認を取れていない。

ましてや、

「400回の再検査の原因はベースだった」

などと断定するつもりはない。

何件がこれに該当したのかも分からない。

しかし、もし事実なら重要な変数である。

完成品として供給されていたものを組立式に変更すれば、当然ながらそれまで製造側が負担していた工程の一部を、参加者が負担することになる。

つまり単に、

「ベースが安くなった」

では済まない。

組み立てるための時間も必要になる。

正確に組み立てる技能も必要になる。

組立精度を確認する工程も必要になる。

そして失敗した場合には、その修正コストも発生する。

局所的にはコストダウンでも、システム全体ではどうだったのか。

これは検証する価値があると思う。

そもそも線路の位置は適切だったのか

もう一つ、モデラーとの会話で面白い指摘があった。

共通ベース上で指定されている線路の位置が、作品を作る側からすると手前すぎるのではないか、という話だ。

これはいかにもモデラーらしい視点で、私は面白いと思った。

線路をつなぐことだけを考えれば、接続位置を統一するのは合理的である。

しかしジオラマとして考えると、線路が手前にありすぎれば、手前側に作れる風景が限定される。

そこで、

「もう少し線路を奥へ持っていきたい」

と考える学校が出てくる。

しかし両端の接続位置は決まっている。

すると短い距離の中で、

手前から奥へ振って、

また手前へ戻さなければならない。

急な曲線やS字が発生する。

その結果、走行安定性が悪くなったのではないか。

――という仮説である。

これはあくまで仮説だ。

実際に400回の再検査と関係があったのかは分からない。

しかし、だからこそ調べたら面白い。

400件の「故障データ」がある

考えてみれば、約400回も再検査したのである。

もし記録が残っているなら、これはものすごいデータである。

ベースの組立不良だったのか。

接続部分の施工不良だったのか。

線形に問題があったのか。

輸送中に壊れたのか。

寸法誤差だったのか。

レールそのものの問題だったのか。

それを匿名化して分類する。

そして翌年の設計へフィードバックする。

たとえば接続部の施工不良が多ければ、簡単な治具を用意できるかもしれない。

ベース組立が原因なら、構造を変更するか、組立説明を改善できる。

無理な線形が多いなら、接続位置そのものを検討できる。

400回を100回にできたら大成功だ。

さらに翌年50回になったら、もっといい。

そうなったとき、

「400回も再検査した大会」

という評価は変わる。

「400件近い失敗から学習して、大会そのものを改善した」

という歴史になる。

私はそれを見たい。

レギュレーションは厳格に。ただしシンプルに

レギュレーションについても、いろいろな意見を聞いた。

その中で私が非常に納得したのは、

違反はきちんと失格にする。その代わり、ルールはシンプルで守りやすいものにする。

という考え方だった。

私はこれに賛成する。

競技なのだからルールは必要だ。

「高校生だから多少の違反はまあいいでしょう」

では、真面目に守った学校が損をする。

しかし反対に、複雑怪奇な規則を大量に作り、うっかり踏んだ学校を次々失格にするのもおかしい。

必要なのは、

少数の、意味のある、明確なルールを作ること。

そして、そのルールについては公平に適用することだ。

厳格さと複雑さは別物なのである。

「学校によって条件が違う」は、本当に不公平なのか

そして話は、費用や設備の問題にも及んだ。

私立と公立では予算が違う。

3Dプリンタを持っている学校もある。

レーザーカッターを使える学校もある。

OBから技術的な支援を受けられる学校もある。

長い期間を制作に使える学校もあれば、数か月しか使えない学校もある。

確かに条件は違う。

しかし私は、これを全部均質化することが「公平」なのだろうか、とも思う。

高校野球だってそうだ。

強豪校には立派なグラウンドがある。

優れた指導者がいる。

何十年も蓄積された練習方法がある。

OBがいる。

そして、

「甲子園へ行きたいから、この高校へ行く」

という中学生だっている。

それも高校野球という文化の一部ではないか。

鉄道模型だって同じでいいと思う。

「3Dプリンタを使って模型を作りたい」

「鉄道模型コンテストへ本気で挑戦したい」

「あの学校の鉄研に入りたい」

そう思うなら、中学生が高校を選ぶときに鉄道研究部を調べたっていい。

むしろ、

「鉄道模型をやるなら、あの高校へ行きたい」

と言われる学校が出てきたら面白いではないか。

何世代もかけて蓄積したもの

こんな話も聞いた。

ある強豪校では、歴代の部員たちが何年にもわたってJAMなどの模型イベントへ足を運び、そこでモデラーたちを捕まえては、模型について熱心に質問してきたという。

その知識が先輩から後輩へ受け継がれている。

そして、その学校は今回、非常に高い評価を得た。

これも私は、単純な「格差」とは呼びたくない。

何世代にもわたって、

「これはどうやって作るんですか」

「なぜここはこうなっているんですか」

「この素材は何ですか」

「失敗したときはどうするんですか」

と聞き続けた。

その答えを学校へ持ち帰った。

後輩へ伝えた。

その後輩がまた外へ学びに行った。

これはもう、

部活動として獲得した資産

ではないだろうか。

それを「他校にはないから不公平」と禁止してしまったら、部活動における技術継承そのものが成立しなくなる。

大人はベンチにいていい

では、OBや外部の大人はどこまで関与していいのか。

ここは「鉄道模型甲子園」という言葉をそのまま使えば、案外簡単なのではないかと思う。

大人はベンチにいていい。
でもフィールドに出てはいけない。

高校野球には監督がいる。

コーチがいる。

名指導者もいる。

OBから受け継いだ知識もある。

しかし、大人が代打で打席に立ったら、それは高校野球ではない。

鉄道模型コンテストも同じだ。

OBが工作方法を教える。

モデラーが資料を見せる。

顧問が相談に乗る。

3Dプリンタの使い方を教える。

失敗した理由を一緒に考える。

私は、そこまで排除する必要はないと思う。

しかし大人がCADを描き、工作し、塗装し、

「はい、君たちの作品です」

と渡したら違う。

教える人は大人でもいい。
プレーするのは高校生。

この境界線なら、かなり分かりやすい。

金で決まるほど、ジオラマは簡単ではない

費用格差について話している中で、印象に残った言葉があった。

「金で決まるほど、ジオラマは簡単じゃない」

私はこれにも納得した。

もちろん金はあった方がいい。

良い工具を買える。

材料をたくさん試せる。

高価なストラクチャーも使える。

失敗しても買い直せる。

しかし、30万円使った作品が10万円の作品より3倍良くなるわけではない。

高価な建物を並べただけで、人を感動させられるほどジオラマは簡単ではない。

構図がいる。

観察がいる。

技術がいる。

色彩がいる。

物語がいる。

そして何より、

「何を見せたいのか」

がいる。

今年、私は実際に、決して高価な素材だけで構成されているわけではないのに、猛烈に心をつかまれる作品を見た。

金で買えない勝ち筋は、確かにある。

だからこそ面白い。

強豪校がいていい

私は、強豪校がいていいと思う。

3Dプリンタを使いこなす学校がいていい。

レーザーカッターを使う学校がいていい。

何十年もノウハウを蓄積した学校がいていい。

名物顧問がいていい。

伝説のOBがいてもいい。

そして、

その強豪校を、段ボールと手描き看板で作った作品がひっくり返すことだってあっていい。

そこにドラマが生まれる。

「あの学校を倒したい」

「去年負けたから今年はこれを研究した」

「設備では勝てない。じゃあアイデアで勝とう」

「去年走らなかった。だから今年は走行性能を徹底的に研究した」

そういう物語が積み重なったら、観客だって翌年が気になる。

「あの学校、今年はどうした?」

と思うようになる。

それこそ、本当の意味での「鉄道模型甲子園」ではないだろうか。

「あんなことを出して」と言う前に

そして、あの「約400回」という数字を公にした運営ボランティアについて、是非を問う声もあると聞いた。

「あんなことを外へ出して」

という話である。

私は、少なくとも現時点では、そうは思わない。

もちろん、個人情報を出したり、確認できない噂を流したり、誰かを攻撃したりするのは別の話だ。

噂は噂でしかない。

それと、検証可能な問題提起は分けなければならない。

しかし、もし実際に大量の再検査へ対応した現場から、

「これはおかしい。来年も同じことをやってはいけない」

という声が出たのだとしたら。

私はそれを、攻撃というより、

悲鳴だったのではないか

と思っている。

現場が頑張ったから大会は成立した。

だからこそ、

「来年も俺たちが頑張ればいい」

にしてはいけない。

現場から異常値が報告されたら、まず異常値を見る。

なぜ起きたのかを調べる。

そして直す。

それが健全な組織だと思う。

負けを認めるところから、勝利への道が始まる

今回、模型について話していて、とても印象に残った考え方があった。

負けを認めるところから、勝利への道が始まる。

いい言葉だと思った。

甲子園だって負ける。

負けた高校は、

「負けた事実は大会の評判を落とすから隠そう」

とは言わない。

なぜ負けたのか考える。

練習する。

そして翌年、また甲子園を目指す。

鉄道模型だって同じだ。

線路を敷いた。

走らなかった。

なぜだ。

調べた。

直した。

走った。

その繰り返しで模型はうまくなる。

だったら、大会運営だって同じでいい。

400回再検査した。

なぜだ。

調べよう。

直そう。

来年は100回にしよう。

さらにその次は50回にしよう。

そして、

「2026年には約400回もの再検査が必要でした。しかし原因を分析し、翌年こう改善しました」

と堂々と発表すればいい。

私は、それを見たら高く評価したい。

前の記事を書いた人間として、

「ちゃんと直した。これは素晴らしい」

と書きたい。

失敗しないことが信頼なのではない。

失敗したときに、それを隠さず、原因を調べ、学習し、次の設計へ返せること。

私はそれもまた、信頼だと思っている。

400回の再検査は、400回の恥ではない。

大会を成立させるため、現場が400回近く問題と向き合った記録でもある。

ならば、それを捨ててはいけない。

400回失敗したのなら、400回分賢くなればいい。

それができたとき。

私は胸を張って、こう呼びたい。

これぞ、鉄道模型甲子園。

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