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指輪物語


#創作大賞2024   #恋愛小説部門

 左手の薬指。そこにあるはずの指輪が無いことに気が付いたのは土曜日の昼過ぎ、朝食兼昼食を二人で食べていた時だった。
 テーブルに肘をつきながら欠伸をした。両手のひらで顔をこすり、指を組み合わせた時、右手の指で感じる筈のものが無いことに気付いた。
 まずい。これはまずい。いつまで付けていた?というか外した?外した記憶は無い。が、昨日は飲んで帰ってきてそのまま居間のソファで寝てしまったので自信は無い。
 この動揺を感づかれないようにポーカーフェイスを装ったが、多分ひどく顔色が変わったんだろう、妻はすかさず聞いてきた。
「どうしたの?」
「いや別に。何でもないよ」
 そしてしばしの沈黙。テーブルに並んだ食パンを齧り、コーヒーを一口。そして
「指輪は?」

 この人は、どうして分かってしまうんだろうか。超能力者なのか、それとも特殊なセンサーが何処かについているんだろうか。そうとしか思えない。

「ええと、うん、無いみたい、だね。自分もたった今気が付いたけど無いね、無い。どこかで外したかな。洗面所かも」
 普段、洗面所で指輪を外す習慣はない。聞いた訳じゃないがそれは妻も知っていると思われる。
 ウェッジウッドに盛られたスクランブルエッグ(湯せんで火を通すという有名シェフのレシピらしく、滑らかな出来栄え)をスプーンですくって口に入れるが何故か全く味がしない。さっきまではあった気がするが。

「多分、昨日の帰り道に何処かで落としたのかもしれないから、直接行って確認してみるよ。また後でメールする」
 取りあえず家を出て、それから記憶を辿ろう。すると
「これから?じゃあ私も一緒に行くわ」
「え、なんで?いいよ、今日は美容院行くんでしょ」
「キャンセルするから大丈夫よ。探すなら人手が要るでしょ」
「いやいや一人でも十分だからさ、来なくてもいいよ」
「いいのいいの、ほらちょっとアレみたいじゃない?何だっけ、指輪を探す旅に出る仲間達って映画。オーランド・ブルームとか出てたの」
「ああ、ロード・オブ・ザ・リング?でもあれは指輪を探すんじゃなくて捨てに行く話だけど」
「どっちでもいいのよ。ちょっとした冒険みたいじゃない。アドベンチャーっていうか謎解きっていうかそういうの。さあ、行きましょう!何だっけその映画の旅人の名前?」
「フロドかサムだよ」
「よし行くわよー、フロド・カサム!」

 どうしてなのかさっぱり分からないが変な高揚感でやる気が出てしまったようだ。厄介な流れになってしまったけどそれを断る理由もないのが辛い。

 朝食を片付け、着替えをして一緒にマンションを出た。
「まずはどこ?あなたが昨日行った場所よ」
「会社ではないな。仕事中はちゃんと付けてたのは憶えてるから。なんで、まずは渋谷だ」
「きのう渋谷で下車してたってこと?」
「そうそう。そうなんだけど、まぁでもいいからいいから」
 あまり先に説明するとボロが(あるのかないのか分からないが)出るかもしれないから、道中は極力喋らずに行動することにした。

 地下鉄を乗り継ぎ、渋谷駅で下車した。長い地下の連絡道を抜けて地上に出る。今日も変わらず物凄い人だ。そこから明治通りの信号を渡ってすぐの小路に入ると、ひっそりとした入口の喫茶店がある。
 開店してから二十年以上の歴史がある店内は暖色の光に照らされ、一歩踏み入れれば騒々しい外から別世界に連れて行ってくれる。
 長い長い木のカウンターは飴色に光り、後ろの壁一面には物凄い種類のコーヒーカップがびっしりと並べられている。奥のテーブルには巨大なガラスの花器に天井に届くほど立派な枝付きの花が活けられている。これを見に来る人がいてもおかしくないくらいだ。カウンターの真ん中、目の前でマスターがコーヒーを淹れる席に着いた。

「すてきなお店じゃない。良い雰囲気ね」
 褒められて悪い気はしないと思っていたけど、私に黙って一人で来てるなんて、と怒り出すと思って身構えていたが、店の雰囲気に影響されたのか意外にも大丈夫だった。

「で、昨日は何を注文したの?」
メニューを見ながら妻が聞いた。
「ええとね、このブレンドコーヒーと、あとはシフォンケーキ」
「シフォンケーキ!美味しかった?」
「ああ、うん…美味しいよ」
「じゃあ同じのにしよう」
 二人分であること以外は、昨日と全く同じ注文をする。
 ポーカーフェイスにおいても極めてプロフェッショナルなマスターは、僅かにうなづいてから流れるような所作でコーヒー豆をミルに投入した。ドリッパーをセットしてやかんを手にして抽出を始める。湯を糸のように注ぐとドリッパーの中央に薄茶色の泡が真ん丸に立ち上り、マフィンのような盛り上がりを見せた。いい香りが漂う。サーバーに落ちる琥珀のしずくを見つめながら妻が聞いた。

「ここで指輪を外したの?」
「いや。ここではそんな事はしてない筈だよ」
 まだ素面だったし、と言おうとして咄嗟に口を閉じた。
 出てきたコーヒーを飲み、ケーキを食べ、暫くは会話もせずにいた。
 妻は真剣な表情でカウンターの後ろのカップたちを見つめている。怒っている様に見えないこともないがどちらとも言えない雰囲気だ。コンタクトがずれそうになる位、横目で盗み見たが判断はつかない。
 そして何とマスターに話しかけ、カップの種類やメーカーを質問し出した。意外とうれしそうなマスターは、棚からカウンターにカップを丁寧に並べて説明をしてくれた。その値段は想像を遥かに超えていてそれを何気なく使っていることに畏怖の念さえ感じた。

 喫茶を楽しんでいるような姿から、どうやら怒りはさほど無いのか、又は忘れている様だ。全て飲み終え、会計をして外に出た。

「さあ、次はどこに行けばいいの?」
「次は…スタジオに行った」
「スタジオ?何の?」
「音楽のだよ。バンド練習とかの」
「ああ。また始めたんだ」
 ずっと昔に結構真剣にバンド活動をしていたことは妻も知っている。結婚する頃には殆どやっていなかったので直接見ることはなかったけど思い入れがあることは知っているはずだ。
「知らなかったわ。じゃあ、そこで指輪を外したのかも。ほらギターを弾くのに邪魔になるから、とか」
「いや、そんなことはないと思うけど」
「でも無意識に外してたかもよ。その人達に聞いてみないと」
「いや、まあみんなって二人だけなんだけどね」
「二人?それでバンドってできるの?」
「いやちょっとした練習だからそんなに何人もいなくてもできるし」
「じゃあその人を呼んでみましょう。いやなの?何なら私から話しても良いわよ」
「いやぁ、それはちょっと無理だよ」
「なんで?」
「その人、日本語が殆ど話せないから」
「外国の人なの?どこの人?」
「ベトナムと日本のハーフなんだけど…」
「名前は?」
「…ジャスミン」
「ジャスミン?!」
 周囲が瞬時に凍り付いた。
「…女のひとなの?」
「ええとそう、その通り女性なんだけど、でも彼女は女性が好きな女性なんだよ」
「あのさ、何を言ってるのか全然分からないわ」
「いやだから言った通りなんだよ」
「全然説得力が無いんだけど」
「説得力も何も、そのままなんだよ。男性が好きな男性も、女性が好きな女性もいるだろ。彼女はそういう人なんだよ。でもすごくセンスがあってさ、趣味も近いんだよ」

 しかし説得力が無いのは明らかなので、仕方なくその場でジャスミンに電話を掛けた。まだ家で寝ていた彼女に、指輪のこと、妻が話をしたいと言っていることを伝えてから携帯を妻に渡した。英語は私以上に出来ない筈だが、身振り手振りを交えながら会話をし始めた。ボディランゲージが伝わったのか、女性同士の連帯感が生まれたのか、二人は熱心に会話を続けている。とても聞いていられないので少しだけ離れて、店の外に出ていた居酒屋のメニューを読みながらじっと待った。
オムハヤシ焼き鳥セットって何だろう?
二人の会話は段々と盛り上がり、終いには笑い出している。何を笑うことがあるのか全く予想がつかないがさらにじっと待った。
 ようやく電話が終わり携帯が返ってきた。何も言わないが満足そうに笑っているので、どうやら誤解は解けたようだ。しかし何を話していたか語らないし、自分からも聞こうとはしなかった。

「さて、ここは違ったみたいだから次ね。次はどこに行くの?」
「電車に乗ろう」

 再び駅に戻り電車に乗って十五分ほど、今度は書店が並ぶ街に来た。すっかり日も暮れてきた。
「どこに向かってるの?」
「ワインバーだよ」
「ワインバー?! ワインバーってワインを飲むバー?ワインの味分かるの?」
 返事の代わりにごくごく小さく頷いた。そのまま歩き続け、五分程で着いた。
 そこはカウンターのみの店で料理もサービスも全てオーナーシェフの兄さんが一人でやっている。気取ってなく、居心地のいい雰囲気だけど、料理はどれも丁寧で手間のかかっていて、ワインもナチュラルを中心に個性的なものを揃えている。

「何だかここも良い雰囲気じゃない。食べものも美味しそう。どうやって見つけたの?」
「あれだよ」
 壁際のラックに料理に関する雑誌が置いてある。自分も愛読している、どちらかというとプロ向けの料理雑誌だ。

「で、ここは誰と来たの? メアリー? ケイティ?」
「一人だよ。ねえマスター、昨日一人でしたよね」
「そうですね。お一人でしたよ」

 ここにもポーカーフェイスが一人。我々の雰囲気を察したのか、忙しいので今は構っている時間はない、という風情でクールに対応してくれる。グルになっていると疑われて面倒に巻き込まれたと思ったかもしれないが、その顔には誠実そうな表情を浮かべている。
 定番メニューのポテトサラダ(曰く「鯖を使ってるんです」)と、お任せで選んでもらったワインを飲みながらまた思案の時間が始まった。その後、一人の客、二人の客が入って店は活気づいてきた。

「ねえ、ずっと前に二人で行った和牛のレストランを覚えてる?私が前の会社を辞めるって時に二人で送別会ってことで行ったお店」
「ああ、勿論憶えてるよ。炭火焼の店だろ。記念だからって一番高いコースにしたから会計の時にびっくりしたけど、でも美味かったよね」
「それでさ、お肉を焼く炭火がすごい早くからテーブルの真ん中に出てきたからもう、顔がすっごい熱かったんだよね」
「そうそう、顔がパリパリの干物になりそうだったよ。あと焼いてる最中に何か灰の中に落としたよね」
「落とした! 何だったっけ。キノコだっけ?お肉だったかな。結局それ食べたんだっけ?食べてないよね」
「いや、食べた気がするな。確かコップの水で洗ってまた焼いたんじゃないかな」
「そんなことした?。覚えてないな。でもとにかくお肉は美味しかったよね」
「うん。美味かった」

 薄ピンクの少しにごったワインをひと口飲み、薄れかけていた記憶を辿る。あの日、店を出てから駅まで歩いていた時に何か大事なことがあった気がした。

「今日は色々と盛り沢山で堪能したわ]
「ああそう。でもまだ肝心の指輪が見つかってないじゃん」

 少しの沈黙の後、妻はグラスを左手に持ち替えて、右手でカウンターにこつん、と何かを置いた。

 そこには見慣れた銀色の輪っかがあった。細かい傷があちこちに付いて内側には日付を示す数字が並んで彫られている。指でつまんで手のひらに載せ、指先で感触を確かめる。
 こんなに小さかったかな?やけに華奢に見える。それにしっかりと年季が入っている。もっと率直に言うなら、古びている。五年間、毎日付けていたんだから当然ではあるけれど。
 そして妻の横顔を見た。すると前を向いたまま語りだした。

「今朝、まだ5時位だったかな、早い時間に目が覚めちゃったの。大分早かったけど目も覚めたし、もう起きようと思ってリビングに行ったの。そうしたらあなたがソファで横になって寝ていたでしょう。
 あんまりにも静かだったからもしかして、死んじゃってるのかもってね、確かめようとしてすごく顔を近付けて観察してみたの。そうしたら寝息が聞こえてきたからあぁ生きてると思って。でもすごく熟睡していて顔を触っても全然起きなかったわ。
 その時、あなたは左手を胸の上に置いていたの。その手がね、とても白く細く見えたの。あなたの手ってこんな風だったかしらって思いながら見ていたんだけど、ふと薬指の指輪を取ってみようと思ったの。何でかな、理由は分からないけどあんまり指が細いから引っ張れば抜けるのかなって思って。それで実際にやってみたら、最初の関節でちょっと引っかかったけど、くるって回しながら引いたらすって意外と簡単に抜けたの。
 この指輪をじっくり見るのって買った時以来でしょ。戻す前に暫く眺めていたの。そしたらその時に思いついたの。これをちょっと隠しておいたら面白いんじゃないかって。だから本当にごめんて言ってるでしょ。すぐに言うつもりだったんだけど、ちょっと引っ張ってみたら色んなことが起こったから段々と面白くなってきちゃったの。どこまで行っちゃうのか試したかったのよ。お陰で楽しかったわ」

 小さなフライパンがガスコンロの上で踊っている。その中のオムレツが丸い背中を見せている。焼きあがったオムレツは皿に載せられ、女性2人組の前に供された。我々のワインはあとひとくち位になっていた。

「マスター、このピンクのワイン、とても美味しいわ」
「お、ありがとうございます。それはですね、新潟で作っている人がいてですね」

 僕は目の前に立てかけてあるメニューボードをじっと見ていた。何だか急にお腹が減ってきた。この「イカのプランチャ」って何だろう。そしてあの日の帰り道、歩きながら妻が言ったことを思い出した。

 「ねえ、私今、この帰り道がずっとずーっと続いて、終わらなければいいのにって思ってるの。二人でさ、ずっとずーっと歩いて行ったらいいじゃない。そう思わない?」


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