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ココロの積算温度は、人ソレゾレ。

​ 春の訪れを告げる桜には、「600℃の法則」というものがある。2月の立春を過ぎてからの最高気温を足し合わせ、その合計が600℃に達したとき、蕾は一気に弾け、街をサクラ色に染める。

 また、私たちの命を支えるお米も同様に「積算温度」の法則があったりする。田植えから収穫まで、日々の平均気温を積み上げ、その合計が約1000℃に到達したとき、稲穂は黄金色に輝き、重そうにこうべを垂れる。

​ これらは単なる気象データの統計ではなくて。自然界が私たちに教えてくれる「積み重ねの法則」であると思う。

​ 桜であれ、お米であれ、目に見える劇的な変化が起こる直前まで、外見にはほとんど変化がないように見える。しかし、その内側では一分一秒じっくり熱を蓄え、熱を貯め続けている。
 桜は、合計が400℃の日も、590℃の日も、見た目はただの硬い蕾に過ぎない。けれど、その「590℃」までの状態は決して無駄ではなくて、あと10℃の熱を待つための、絶対に必要なプロセス。

​ 一方で、私たち、人はどうだろう。目に見える成果が出ないとき、私たちはすぐに自分を責めてしまう。資格試験の勉強が捗らない、仕事のプロジェクトが右往左往して方向性が固まらない、あるいは、どうしてもやる気が起きずに今日も一日寝て過ごしてしまった。

 そんな日々を、私たちは「怠けている」とか、「無駄」と呼び、自分だけが冬に取り残されたような焦燥感に駆られる。周りで次々と花を咲かせる誰かと自分を比べては、「なんで自分だけが、花を咲かすことができないのだろう。」と足元をすくわれそうになる時もある。私も、そんな日々を過ごす。むしろ、そんな日々の方が多い。

 そのモヤモヤや葛藤する時間の中で、一つ気づいたことがある。それは、「心の積算温度は、人それぞれ違う。」ということ。

​ 桜が600℃で咲き、稲が1000℃で実るように、人にもそれぞれの「開花のしきい値」があると思っている。ある人は500℃で軽やかに花を咲かせるかもしれない。けれど、別の人は、カーネル・サンダースのように大器晩成で、2000℃という膨大な熱を貯めて、誰も見たことがないような大木を育てる準備をしているのかもしれない。一見すると何も変わらない退屈な日常も、実は自分という器にエネルギーを注ぎ込んでいる大切な時間と受けとめてみる。

​ 植物には、光合成を休んで呼吸を整える夜が必要だったりする。同じように、人もまた、積み重ねるための「空白」を必要とするのかもしれない。
 スケジュールが埋まってないと不安になる人も、「何もしない一日は、積み重ねてきた心の温度を逃がさないため、フタを閉じる時間なのかもね〜。」と空白のスケジュールをゆるく捉えてみると、無駄な日なんてないように思える。

​ そして何より、人生が植物と少しだけ違うのは、自分という花が「何度で咲くのか。」を、自分自身さえ知らないということにある。いつどこで何を咲かせたいのかを決めることはできても、結果までを操ることはできない。

​ もしも仮に、自分の積算温度が最初からマニュアルのように決まっていたら、私たちはただ電卓をたたくように日々をこなすだけになってしまうだろう。あと何度、あと何日とカウントダウンするだけの毎日は、効率的ではあっても、きっと味気ない。

​ 明日咲くのか、それとも数年後に大輪を咲かせるのか。その積算温度がわからないからこそ、人生はおもしろい。

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「チップは洋の文化、心付けは和の文化。どちらも深々と感謝します。特に心付けの場合は、感謝の傘を差し上げます。」