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胸に奈落があったから


「大切なものを、大切にする」
それがどんなものなのか、感覚的にわかるようになってくると、


ああ、こんなに簡単なことなのか

たったのこれだけで良かったのか

と思う時がある。


気が抜けて、拍子抜けて、

こんなに簡単なことなら、もっと早くに……と思ったりもする。




だけど、
それが簡単なことではないことも
知っている。



私の胸には、奈落があったから。



それは心の真ん中にあって


ぽっかりと大きな口を開けている。

まるでブラックホールのように、

漆黒で

何も見えない。

覗き込むと、足がすくむ。

吸い込まれそうになる。


それはいつでも口を開けている。

いつからそこにあったのかは、知らない。



自分を

満たしているつもりでも、

誰と居ても、

何をしても、

奈落はいつもそこにある


そして全てを吸い込んでしまう。



奈落はいつでも私を見つめていて

隙あらば、私ごと飲み込もうとする。

いつでもおいでと手招きする。

それはとても馴染み深く、どこか懐かしくて、

このままいっそ

そこへ落ちてしまおうかと


いや、

そこへ落ちて行くことが、

正しいのではないかと

私が行くべきところなのではないかと

思わせる。





心に奈落を抱えて

自分を満たそうとしても、

それはまるでブラックホールに、
砂粒を投げ入れているようなもので

虚しく

そんな自分が気持ち悪く

とても無意味に思える。



だけど私はどうしても
見てみたかった。


奈落を越えた世界の景色を、
見てみたい気持ちが消えなかった。


だから私は一握りの砂を、
奈落に向かって投げ続けた。

時には怒り、
泣きわめきながら、
闇雲にでも、
めちゃくちゃにでも、

砂を投げ続けた。


果てのないように思える、
大きくて真っ黒いその穴が埋まることに
一縷の望みを持って。




気付けば私の両足はしっかりと地面を捉えていて、
奈落の姿は見えなかった。

自分を満たそうと思えば、満たすことが出来たし、
私はそのやり方も知っていた。


そこは、優しく、光が満ちていて、穏やかで、とても美しかった。

その時私は初めて、

大切なものを、大切にすれば
世界が愛で満ちていくことを知った。




胸に奈落があったから、
今居るべき場所に着地できたのだと
今ならわかる。



真っ黒い大きな穴は、
塞がったのだろうか。


あるいはただそれを見つめるのを、
やめただけかも知れない。


今でもたまに
気配を感じる。


時折それが、私の肩を叩く時、
私はこう言うと決めている。



「ありがとう、お疲れ様。でももう、いいよ。」




私は行きたい場所に行き、

見たいものを見る。


私はもう自分の大きさを、
思い出したから。














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