イヤイヤ期の朝|怒る前の魔法をさがしに
怒る前に、ひと呼吸おく「魔法」があったら。
イヤイヤ期の朝が、ちょっとだけ違う朝になるかもしれない。
朝の光がカーテンの隙間からこぼれ、部屋の空気を少しずつ温めていた。私はカゴの中から娘の洋服を選びながら、深呼吸する。
「今日こそ、すんなり着てくれますように」
それは、まるで戦いに挑む前の祈りだった。
娘のひな、三歳。彼女は、朝の着替えに強いこだわりがある。強すぎる、というか、もはや“儀式”に近い。
「やだの、それじゃないの!」
ひながベッドの上でわめく。声が少し泣きそうに震えていた。
「どうして? 昨日は好きだったじゃん」
「きょうはちがうの、ちがうの!」
「……なにがちがうの?」
「ボタン!へんなかお!」
私はそのボタンを見たけれど、特に変わったところはなかった。ただの猫の刺繍。でも、ひなには何かがちがって見えるのだ。
「……もう、いい加減にしてよ」
声に出した瞬間、部屋の空気がぴりっと張りつめた。
ひなの目が少し揺れた。
私自身も、その声の鋭さに驚いた。
その時、視界がゆらりと揺れた。
空気がざわりと震え、次の瞬間。
寝室がまったく違う世界に変わっていた。
そこは、“服の世界”だった。
天井のない空にはハンガーが浮かび、床にはボタンの小道、チャックの橋、靴下の森が広がっている。
私は思わず目をこすった。
けれどひなは不思議そうでもなく、当然のように指をさした。
「おかあさん、あそこ!」
見上げると、ふわふわのドレスをまとった猫の女王が玉座に座っていた。
「おや、ひな姫。きょうのお召し物が決まらずに、お困りですね?」
猫の女王、“きがえのまほうつかい・ニャンディーナ”は、しっぽでステッキを持ち、空に星型のボタンを浮かび上がらせた。
「この世界では、“きょうの気分”にぴったりの服しか着られません。それ以外を着ると……石になってしまうのです」
私は思わずつぶやいた。
「それは、困る」
ひなは腕を組んでウンウンと頷き、くるりと背を向けて走り出した。
「だからね、おかあさん。“きょうの気分”をさがしにいく!」
チャックの橋を渡り、靴下の森を抜け、スカートの滝を登っていく。私は、あわててそのあとを追いかけた。
やがて袖の洞窟で、ひなはひとつのパーカーを見つけた。
紫色に星の模様がついた、少し大きめのフード付きパーカー。
ずっと前に買って、着ないまましまわれていた服だった。
「これ、かっこいいでしょ? まほうつかいみたいで」
ひなはそれを胸に抱え、うれしそうに笑った。
その笑顔を見た瞬間、私はようやく、さっき怒ってしまった気持ちが遠のいていくのを感じた。
あの“ちがうの!”にも、きっと、ひななりの理由があったのだ。
猫の女王が空から舞い降り、うやうやしく告げた。
「ひな姫よ。その衣こそ、“きょうの気分”にぴったりでございます。さあ、まほうのじゅもんを」
ひなはにやりとして、言った。
「まほうのじゅもんは……“じぶんできる!”」
そう言って、自分でファスナーを上げようとする。けれど途中で詰まってしまい、眉をひそめた。
私はひざをついて、そっと手を差し出した。
「じゃあ、“いっしょに”の呪文を使ってみようか?」
ひなはうなずき、小さな手を重ねてきた。
「“いっしょに!”」
私たちの指先がふれ、ファスナーが魔法の音を立てて上がっていく。
「きがえ、かんせーい!」
空に星が舞い、世界が白い光に包まれていった。
気がつくと、私は寝室にいた。
目の前には、あのパーカーを着たひなが立っている。
「おかあさん、みてー! ひな、まほうつかい!」
「うん、すごい似合ってる」
私は笑いながら、ひなを抱きしめた。
少し前まで怒りそうだった自分が、すこし遠くに感じた。
“きょうの気分”は、毎日違う。
理屈なんてない。気まぐれで、不思議で、まるで魔法みたい。
でも、その魔法に付き合うことができたら。
朝の戦争も、ちょっとだけ物語に変わるかもしれない。
そんな朝があってもいいかもしれない。
もし明日の朝、子どもが服を拒否したら。
この魔法の国の話を思い出してみてください。
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