いただいたものを、次へ。
八月。
この季節になると、
帰ってくるものがある。
人が帰ってくる。
家族が帰ってくる。
ご先祖様が帰ってくる。
そして、
記憶もまた、
帰ってくる。
忘れていたわけではない。
ずっと、
そこにある。
けれど、
普段は心の奥に静かにいるものが、
一枚の写真で。
一通のメールで。
一つの音で。
突然、
昨日のことのように、
帰ってくる。
八月は、
そんな季節である。
先週、
この文章を書かなかった。
書くことが、
なかったわけではない。
むしろ、
逆だった。
八月八日。
長崎・川棚へ。
あんでるせん。
以前から、
一度訪ねてみたかった場所だった。
目の前で起こる、
不思議なこと。
驚き。
笑い。
そして、
マスターからいただいた言葉。
翌九日。
雷山観音。
千日観音祭。
静かに、
手を合わせた。
その後、
愛宕神社へ。
音次郎稲荷神社へ。
そして、
岩井屋で目にした、
龍神様のお社。
八月十一日。
雲仙へ向かった。
岩戸神社へ、
手を合わせる。
そして、
cafe & gallery 燦里へ。
この日のご縁を、
つないでくれたのは、
アオタさんだった。
モリシタさんとの会食。
そこには、
タケさんと、
フキコさんも一緒だった。
振り返れば、
こういうものなのだ。
一人と出会う。
その人が、
また別の人とのご縁を、
運んでくれる。
そして、
その場所へ、
また人が集まる。
最初から、
決められていたわけではない。
誰かが声を掛け。
誰かが応え。
誰かが、
そこへ足を運ぶ。
そうして、
一つの時間が生まれる。
ご縁とは、
人が人へ渡してくれるものでもある。
この日も、
そうだった。
アオタさんが、
きっかけをつくってくれた。
タケさんがいた。
フキコさんがいた。
森下さんがいた。
そして、
エリナさんがいた。
一人では、
生まれなかった時間である。
皆で食事を囲みながら、
いろいろな話をした。
神様のこと。
人のこと。
ご縁のこと。
人生のこと。
不思議な話も、
たくさんあった。
だが、
モリシタさんの話は、
決して、
不思議な世界だけに向いてはいなかった。
むしろ、
しっかりと、
現実を生きる話だった。
その中で、
一つの言葉をいただいた。
「決めるのは自分。結果は神様。」
エリナさんには、
魂の絵を描いていただいた。
そこに描かれたのは、
降三世明王様。
そして、
龍神様。
これだけあれば、
いくらでも書けたはずである。
それでも、
書かなかった。
書くことが、
嫌になったわけではない。
今でも、
言葉にすることは好きである。
旅を振り返る。
出会った人を振り返る。
神前で感じたことを、
もう一度、
自分の中で見つめ直す。
そうして、
一つずつ言葉にしてゆく。
その時間を、
大切にしてきた。
だが、
先週は、
なぜか筆が進まなかった。
ならば、
書かなくていい。
そうした。
無理に、
理由をつける必要もない。
神様からの合図にする必要もない。
書けない時は、
書かない。
それでいい。
だが、
数日が過ぎて、
少しずつ分かってきた。
いつの間にか、
「書きたい」という心の中に、
別の言葉が、
混じっていた。
「書かなければ。」
毎週だから。
続けてきたから。
今週も、
何かを書かなければ。
誰かに、
言われたわけではない。
自分で、
自分に背負わせていただけだった。
そんな時、
雲仙で、
一つの言葉をいただいた。
「軽くしたらいい。」
その言葉が、
妙に心に残った。
軽くする。
それは、
捨てることではない。
やめることでもない。
大切なものまで、
手放すことでもない。
ただ、
持たなくてもよいものを、
一度、
降ろす。
それだけである。
毎週書くと、
決めなくてもいい。
書きたい時に、
書けばいい。
伝えたいものをいただいた時に、
言葉にすればいい。
書かない週があってもいい。
しばらく、
何も書かなくてもいい。
続けることを、
義務にしない。
終わることも、
決めない。
それで、
何かが失われるわけではない。
なぜなら、
本当に大切なものは、
書くことをやめたくらいでは、
なくならないからである。
祈りも。
感謝も。
ご縁も。
前回、
「変わらないという祈り」
と書いた。
神前に立ち、
いつものように、
手を合わせた。
言葉は、
いつも同じ。
「いつもありがとうございます。」
それは、
今も変わらない。
これからも、
変える必要はない。
だが、
ここで一つ、
分かった。
変わらない心を持つことと、
形を変えないことは、
同じではない。
祈りは、
変わらなくていい。
感謝も、
変わらなくていい。
だが、
人は、
変わっていい。
生き方も、
変わっていい。
進む場所も、
変わっていい。
そして、
持っている荷物も、
時には、
降ろしていい。
そんなことを考えているうちに、
お盆を迎えた。
八月十三日。
ご先祖様へ、
手を合わせる。
ここ数年、
兄のように慕うナオミチくんとのご縁から、
先祖供養というものを、
以前より深く考えるようになった。
もちろん、
ご先祖様への感謝は、
お盆だけのものではない。
いつも、
感謝している。
けれど、
お盆になると、
あらためて考える。
自分は、
どこから来たのか。
この命は、
誰から渡されたのか。
父がいる。
母がいる。
その父母にも、
父と母がいる。
さらに、
その向こうにもいる。
その誰か一人でも、
命を次へ渡していなければ、
今、
ここに自分はいない。
ならば、
この命は、
自分一人で手に入れたものではない。
数え切れないほどの命が、
一つずつ、
次へ渡してきた。
その先端に、
今の自分がいる。
そう考えれば、
お盆とは、
亡き人を迎えるだけの期間ではない。
いただいた命を、
あらためて見つめる時間でもある。
そして、
八月には、
毎年、
思い出す人たちがいる。
八月十三日。
吉田善哉さんの命日。
会ったことはない。
言葉を交わしたこともない。
その存在を知った時には、
すでに、
この世にはおられなかった。
それでも、
私の人生には、
確かにつながっている。
吉田善哉さんが、
日本へ連れてきた、
サンデーサイレンス。
その血が、
日本の競馬を大きく変えていった。
そして、
初年度産駒の中に、
一頭の牝馬がいた。
ダンスパートナー。
一九九五年。
オークス。
そのレースが、
私が初めて観た競馬だった。
当時は、
何も知らなかった。
吉田善哉さんのことも。
サンデーサイレンスが、
どのような馬なのかも。
その血が、
この先、
日本競馬をどれほど変えてゆくのかも。
ただ、
競馬を観た。
それだけだった。
だが、
その「それだけ」が、
その後の人生を、
少しずつ変えていった。
競馬を好きになった。
競馬場へ行くようになった。
そして、
その先で、
目黒さんと出会った。
目黒さんとの出会いから、
また、
新しいご縁が生まれた。
カジさん。
マツイさん。
田口さん。
唐沢さん。
年代も違う。
仕事も違う。
生きてきた世界も違う。
普通に暮らしていれば、
同じ場所に集まることなど、
なかったかもしれない。
だが、
競馬があった。
それだけで、
私たちは、
つながった。
小倉。
中京。
福島。
函館。
札幌。
いろいろな場所へ、
一緒に行った。
馬を見た。
馬券を買った。
食べた。
飲んだ。
笑った。
そして、
また、
次の競馬場へ向かった。
あの頃、
それを、
「ご縁」などとは、
考えていなかった。
ただ、
楽しかった。
それで、
十分だった。
だが、
今、
その道を逆にたどってみる。
目黒さんと出会った。
そこから、
大切な仲間と出会った。
さらに遡れば、
競馬があった。
そして、
私にとっての競馬の始まりには、
ダンスパートナーがいた。
その父は、
サンデーサイレンス。
その馬を、
日本へ連れてきた人が、
吉田善哉さんだった。
会ったことのない人の、
一つの決断。
その決断が、
何年もの時を越え、
一頭の馬につながった。
その馬を見て、
一人の人間が、
競馬を好きになった。
そして、
その人間が、
また誰かと出会った。
その出会いから、
さらに、
別の誰かと出会った。
人生とは、
不思議なものである。
だが、
すべてを、
「最初から決まっていた」
とする必要はない。
一つの縁をいただいた。
そこで、
自分が動いた。
すると、
また次の縁に出会った。
また、
動いた。
その繰り返しが、
今につながっている。
モリシタさんからいただいた言葉が、
ここで、
静かに重なる。
「決めるのは自分。結果は神様。」
競馬場へ行くと決めたのは、
自分。
人と会うと決めたのも、
自分。
遠征へ行くと決めたのも、
自分。
だが、
その先で、
誰と出会うのか。
その人が、
自分の人生に、
何を残してくれるのか。
そこまでは、
誰にも分からない。
だから、
ご縁なのである。
そして、
そのご縁の先で出会った、
大切な二人を、
私は、
二〇二一年の八月に、
続けて見送った。
八月十日。
カジさん。
そして、
八月十四日。
マツイさん。
あれから、
五年。
今年も、
八月が来た。
お盆が来た。
そして、
今年もまた、
二人を思い出す。
いや。
思い出すという言葉では、
少し違う。
忘れていたわけではない。
ずっと、
いる。
ただ、
八月になると――
少し、近くなる。
カジさんは、
よく福岡へ来てくれた。
福岡へ来るたび、
声を掛けてくれた。
一緒に食事をした。
他愛のない話をして、
笑った。
会社の新年会にも、
呼んでいただいた。
ご自宅に、
泊めていただいたこともある。
世界では、
「数独の父」と呼ばれた人。
数独という言葉を生み、
世界中へ広がるきっかけをつくった人。
大きな仕事を、
世に残した人である。
だが、
私にとっては、
そんな肩書きよりも先に、
カジさんだった。
福岡へ来れば、
誘ってくれる人。
一緒に食事をして、
笑う人。
年齢も、
立場も関係なく、
可愛がってくれる人。
それが、
カジさんだった。
人がこの世を去ったあと、
世の中には、
その人の功績が残る。
名前が残る。
仕事が残る。
だが、
実際にその人と時間を過ごした者には、
もっと違うものが残る。
声が残る。
笑い方が残る。
何気ない一言が残る。
一緒に食べた食事が残る。
同じ場所を歩いた、
何でもない時間が残る。
世間には残らないものが、
一人の人間の中には、
ずっと残る。
それもまた、
人がこの世に遺すものなのである。
そして、
カジさんが旅立った、
その数日後。
マツイさんも、
旅立った。
マツイさんとも、
何度も遠征した。
福島。
冬の中京。
夏の小倉。
そして、
函館。
札幌。
特に、
夏の北海道。
仕事が忙しい人だった。
だから、
函館や札幌への遠征は、
マツイさんの予定を聞きながら、
決めることもあった。
今になれば、
それも懐かしい。
いつ、
行きましょうか。
この週なら、
行ける。
では、
そこにしましょう。
そんなやり取りから、
旅が始まる。
競馬を見る。
馬券を買う。
食事をする。
酒を飲む。
笑う。
翌日になれば、
また競馬場へ行く。
特別なことなど、
何もなかった。
だが、
今になって分かる。
特別ではない時間ほど、
あとになって、
特別になる。
あの頃は、
また来年もあると、
どこかで思っていた。
また、
函館へ行ける。
また、
札幌へ行ける。
また、
小倉で会える。
また、
みんなで遠征できる。
人は、
「また」が、
いつまでも続くように生きている。
だが、
人生には、
最後の「また」がある。
それが最後だったと分かるのは、
いつも、
あとになってからである。
二〇二一年。
マツイさんから、
病気のことを知らされた。
癌だった。
その知らせを受けたあと、
警固神社へ向かった。
自分に、
何ができるのか。
分からなかった。
病気を治すことなど、
できない。
代わってあげることも、
できない。
ならば、
今、
自分にできることをしよう。
そうして、
神前に立った。
マツイさんのこと。
仲間のこと。
皆が、
少しでも元気でいられるように。
健康でいられるように。
そして、
私たちらしく、
馬券のことも。
手を合わせた。
そのことを、
五人のメールグループへ送った。
唐沢さん。
田口さん。
マツイさん。
カジさん。
そして、
私。
今読み返せば、
懐かしい。
競馬の話。
体のこと。
近況。
冗談。
ほんの短いやり取り。
だが、
そこには、
確かに五人の日常がある。
警固神社へ参拝したことを伝えると、
マツイさんから、
返事が来た。
「ほんとにありがと。嬉しいよ。」
短い言葉だった。
だが、
今、
その言葉を読むと、
胸に来る。
祈りが、
病を治したわけではない。
現実を、
変えられたわけでもない。
それでも、
あの日、
神前へ向かった。
大切な人を思って、
手を合わせた。
そして、
その気持ちを、
喜んでくれた。
それでいい。
祈りとは、
願った結果を、
手に入れるためだけのものではない。
誰かを思う心を、
形にすることでもある。
何もできないから、
何もしないのではない。
何もできない時にも、
できることはある。
会う。
言葉を掛ける。
手を握る。
祈る。
大切だと、
伝える。
結果は、
人には決められない。
だが、
何をするかは、
自分で決められる。
ここでも、
森下さんの言葉が重なる。
「決めるのは自分。結果は神様。」
あの時、
警固神社へ行くと決めたのは、
自分だった。
そして、
その気持ちを、
マツイさんは、
受け取ってくれた。
それだけは、
今も、
残っている。
マツイさんから、
一枚の名刺をいただいたことがある。
今も、
大切にしている。
ただの名刺ではない。
誇りである。
そして、
御守りである。
一枚の紙。
そう言ってしまえば、
それまでである。
だが、
物の価値は、
値段だけでは決まらない。
誰から、
いただいたのか。
そこに、
どんな時間があったのか。
それによって、
一枚の紙が、
かけがえのないものになる。
今も、
その名刺を見ると、
背筋が伸びる。
そして、
マツイさんを思い出すものが、
もう一つある。
音である。
夏の函館。
夏の札幌。
日曜日の午後。
競馬は、
後半戦へ入る。
特別競走。
競馬場に、
あのファンファーレが鳴る。
本当なら、
ここからである。
特別戦が始まり、
メインレースへ向かう。
競馬場の熱気は、
これから、
さらに高くなる。
なのに、
あの頃の私には、
少し寂しく聞こえていた。
あのファンファーレが鳴ると、
もう、
遠征も終わってしまう。
そんな気持ちになった。
楽しかった時間が、
終わりへ向かっている。
明日から、
また日常へ戻る。
そんな、
懐かしさの中にある寂しさが、
あの旋律にはあった。
そして今。
同じファンファーレを聞くと、
別のものまで、
帰ってくる。
函館の空気。
札幌の風。
競馬新聞。
馬券。
笑い声。
あの頃の、
仲間たち。
そして、
マツイさん。
音とは、
不思議なものである。
ほんの短い旋律が、
何年もの時間を、
一瞬で越える。
今いる場所から、
あの夏へ、
連れてゆく。
そこには、
みんながいる。
目黒さんがいる。
カジさんがいる。
マツイさんがいる。
田口さんがいる。
唐沢さんがいる。
そして、
自分がいる。
小倉へ遠征した時の、
一枚の写真がある。
五人で写った写真。
今も、
唐沢さんと田口さんと私、
三人のグループLINEの、
トップ画像になっている。
LINEを使っているのは、
三人になった。
だが、
写真の中には、
五人いる。
いや。
今も、
五人である。
人は、
姿が見えなくなったからといって、
すべてが消えるわけではない。
一枚の写真に、
帰ってくる。
一通のメールに、
帰ってくる。
一枚の名刺に、
帰ってくる。
一つの音に、
帰ってくる。
そして、
心の中へ、
帰ってくる。
お盆。
亡き人が、
帰ってくるという。
その言葉を、
今年は、
少し違う意味で受け取っている。
帰ってくる場所は、
家だけではない。
思い出の中にも、
帰ってくる。
写真の中にも。
言葉の中にも。
音の中にも。
そして、
生きている者の、
心の中にも。
だから、
供養とは、
亡き人を、
ただ懐かしむことだけではない。
いただいたものを、
忘れないこと。
そして、
いただいたものを持って、
今日を生きること。
それもまた、
供養なのではないか。
カジさんから、
いただいたものがある。
マツイさんから、
いただいたものがある。
目黒さんから、
いただいたものがある。
ナオミチくんから、
いただいたものがある。
ご先祖様からは、
命そのものを、
いただいた。
ならば、
いただいたものを、
自分のところで、
止めてはならない。
可愛がっていただいたなら、
今度は、
誰かを可愛がる。
気に掛けていただいたなら、
今度は、
誰かを気に掛ける。
声を掛けていただいたなら、
今度は、
自分から声を掛ける。
祈っていただいたなら、
今度は、
誰かのために手を合わせる。
人から人へ。
命から命へ。
ご縁から、
また次のご縁へ。
そうして、
人が生きたものは、
次へ渡ってゆく。
吉田善哉さんが、
自分の決断の先にある未来を、
すべて見ることができなかったように。
人は、
自分が渡したものの、
その先まで見ることはできない。
それでいい。
種を蒔いた者が、
すべての花を見る必要はない。
誰かから、
いただいた。
だから、
今度は、
自分が渡す。
その先は、
その人が決めればいい。
そして、
さらに、
その先は――
神様に、
お任せすればいい。
お盆は、
亡き人を振り返る時間である。
だが、
今年は、
それだけではなかった。
ご先祖様へ、
手を合わせながら。
カジさんを思い出し。
マツイさんを思い出し。
吉田善哉さんから、
競馬へ。
競馬から、
目黒さんへ。
目黒さんから、
仲間たちへ。
その道を、
静かにたどっているうちに、
一つの問いが残った。
では、
いただいた命を持つ自分は、
これから、
どう生きるのか。
過去から、
たくさんのものをいただいた。
ならば、
次は、
自分の番である。
その答えを考えた時、
雲仙でいただいた、
もう一つの言葉が、
静かに浮かんできた。
「飛ぶ。」
だが、
飛ぶために、
過去を捨てる必要はない。
大切な人を、
置いてゆく必要もない。
むしろ、
逆である。
いただいたものがあるから、
人は、
次へ進める。
雲仙で、
エリナさんに、
一枚の絵を描いていただいた。
魂の絵。
そこに現れたのは、
降三世明王様。
そして、
龍神様。
絵を前にして、
いろいろな話を聞いた。
今、
そばにいる龍神様のこと。
これから、
そのご縁にも、
変化があるということ。
次の段階。
新しい流れ。
十月から十一月頃。
そして、
何度も出てきた言葉。
「飛ぶ。」
「飛躍する。」
未来のことは、
分からない。
その言葉が、
何を意味するのかも、
今は分からない。
仕事なのか。
住む場所なのか。
人との出会いなのか。
海外なのか。
龍神様との、
新しいご縁なのか。
そこには、
「海」という言葉もあった。
だが、
答えを探しに行く必要はない。
海と言われたから、
海へ行く必要もない。
十月と言われたから、
十月を待つ必要もない。
何かが起こると、
期待する必要もない。
その時が来れば、
分かる。
分からなければ、
それでもよい。
未来とは、
先に答えを教えてもらい、
その通りに歩くものではない。
自分で選び、
自分で歩く。
その先で、
起きたことを受け取る。
だからこそ、
モリシタさんの言葉が、
ここでも生きてくる。
「決めるのは自分。結果は神様。」
この二つの話は、
一見すると、
正反対にも見える。
モリシタさんは、
地に足をつけて生きることを語る。
エリナさんは、
これから飛ぶことを語る。
だが、
違わない。
むしろ、
同じである。
地に足をつけている者だけが、
本当に飛ぶことができる。
どこに立っているのかも分からず、
ただ未来だけを追いかけても、
それは飛躍ではない。
自分の足で立つ。
自分で決める。
自分で動く。
そのうえで、
自分の力の及ばぬものは、
委ねる。
その覚悟があって、
初めて、
人は次へ進める。
そして、
飛ぶためには、
もう一つ必要なことがある。
軽くなること。
「軽くしたらいい。」
エリナさんからいただいた、
その言葉。
今になって、
ますます深く響いている。
人は、
生きているうちに、
いろいろなものを背負う。
仕事。
責任。
役割。
約束。
人からの期待。
そして、
自分で自分に課した、
「こうしなければならない」。
その一つひとつは、
決して悪いものではない。
責任を果たすことは、
尊い。
続けることも、
尊い。
だが、
いつの間にか、
大切にしていたものまで、
義務に変わることがある。
このコラムも、
そうだったのかもしれない。
書きたいから、
書き始めた。
旅をした。
手を合わせた。
不思議なご縁をいただいた。
心が動いた。
だから、
書いた。
それだけだった。
それが、
いつの間にか、
今週も書かなければ。
毎週続けなければ。
そんな言葉が、
少しずつ、
心の中に増えていた。
だから、
先週は、
書かなかった。
今なら、
それでよかったと分かる。
一週間、
書かなかったからといって、
祈りが消えたわけではない。
神仏とのご縁が、
なくなったわけでもない。
誰かへの感謝が、
薄れたわけでもない。
むしろ、
書かなかったからこそ、
見えたものがあった。
続けることと、
縛られることは、
違う。
続けたいなら、
続ければいい。
休みたいなら、
休めばいい。
書きたいなら、
書けばいい。
言葉がなければ、
書かなくていい。
終わると、
決める必要もない。
続けると、
決める必要もない。
また、
心が動いた時に、
書けばいい。
それだけで、
十分である。
だが、
軽くなるということを、
勘違いしてはならない。
何もかも、
捨てればいいのではない。
過去を、
切り捨てることでもない。
人とのご縁を、
忘れることでもない。
飛ぶために、
カジさんを、
置いてゆく必要はない。
マツイさんを、
置いてゆく必要もない。
目黒さんとの時間も。
田口さんも。
唐沢さんも。
ナオミチくんから、
教えていただいたことも。
ご先祖様から、
いただいた命も。
神仏へ、
手を合わせてきた日々も。
それらは、
荷物ではない。
支えである。
人を重くするものと、
人を支えるものは、
違う。
「ねばならない」は、
人を重くする。
だが、
「ありがとう」は、
人を軽くする。
義務は、
時に人を縛る。
だが、
感謝は、
人を前へ進ませる。
だから、
置いてゆくものと、
持ってゆくものを、
間違えてはならない。
置いてゆくのは、
過去ではない。
余計な執着である。
置いてゆくのは、
大切な人ではない。
自分で作った、
重荷である。
そして、
持ってゆく。
いただいたものを。
可愛がっていただいた記憶を。
一緒に笑った時間を。
一枚の写真を。
一通のメールを。
一枚の名刺を。
あのファンファーレを。
そして、
ご先祖様から、
今日まで渡されてきた、
この命を。
それだけ持って、
次へ進めばいい。
そう考えた時、
降三世明王様の姿が、
心に残った。
降三世。
その名には、
人を縛るものを打ち破り、
迷いを超えてゆく、
強い響きがある。
何かに、
すがるためではない。
何かを、
代わりに決めてもらうためでもない。
自分の中にある、
恐れ。
執着。
迷い。
そして、
「こうでなければならない」という、
自ら作った枠。
それらを、
越えてゆく。
今回、
その御姿が描かれたことを、
私は、
そう受け取ることにした。
答えではない。
命令でもない。
自分が、
どう生きるか。
その問いである。
そして、
そのそばには、
龍神様がいる。
龍は、
止まらない。
水とともに、
流れる。
形を変える。
山を下り。
川となり。
やがて、
海へ向かう。
岩があれば、
避ける。
道がなければ、
道をつくる。
それでも、
流れは止まらない。
人もまた、
そうあればいい。
一つの形に、
執着しない。
昨日までの自分に、
縛られない。
流れが変われば、
自分も変わる。
だが、
何もかも変えてしまう必要はない。
水は、
形を変えても、
水である。
ならば、
自分も、
そうであればいい。
住む場所が変わっても。
仕事が変わっても。
出会う人が変わっても。
旅の仕方が変わっても。
このコラムの形が変わっても。
変えなくていいものがある。
神前に立った時、
伝える言葉。
「いつもありがとうございます。」
それだけは、
変わらない。
前回、
「変わらないという祈り」
と書いた。
今になって、
その続きが分かる。
変わらないということは、
同じ場所に、
立ち続けることではない。
変わらないものを胸に持ち、
変わってゆくこと。
それである。
祈りは、
変えない。
感謝も、
変えない。
だが、
歩く道は、
変わっていい。
向かう場所も、
変わっていい。
人は、
変わっていい。
むしろ、
変わらなければならない時もある。
大切なのは、
どこへ行くかではない。
何を胸に、
そこへ向かうのか。
それだけである。
そして、
お盆。
ご先祖様へ、
手を合わせる。
亡き人を、
思う。
今年は、
いつも以上に、
たくさんの人を思い出した。
会ったことのない、
吉田善哉さん。
競馬との出会い。
目黒さん。
カジさん。
マツイさん。
田口さん。
唐沢さん。
ナオミチくん。
アオタさん。
タケさん。
フキコさん。
モリシタさん。
エリナさん。
こうして並べてみれば、
人生とは、
いただいたご縁の積み重ねである。
一人で歩いてきたようで、
一人ではない。
自分の足で歩いてきた。
それは、
間違いない。
だが、
その道の途中には、
いつも誰かがいた。
背中を押してくれた人。
可愛がってくれた人。
教えてくれた人。
笑わせてくれた人。
祈ってくれた人。
そして、
もう会うことのできない人。
その一人ひとりから、
何かをいただいて、
今日の自分がいる。
ならば、
これからの生き方は、
難しくない。
いただいたものを、
次へ。
それだけである。
可愛がっていただいたなら、
誰かを可愛がる。
声を掛けていただいたなら、
今度は、
自分から声を掛ける。
助けていただいたなら、
誰かを助ける。
祈っていただいたなら、
誰かのために、
手を合わせる。
ご縁をいただいたなら、
そのご縁を、
また次のご縁へつなぐ。
それを見ることができなくても、
構わない。
結果を、
確かめる必要もない。
自分にできることをする。
そして、
その先は、
委ねる。
人の一生とは、
きっと、
その繰り返しである。
誰かから、
受け取る。
自分の中で、
育てる。
そして、
次へ渡す。
命も。
思いも。
ご縁も。
感謝も。
そうして、
自分がいなくなったあとも、
何かが、
誰かの中に残ってゆく。
カジさんが、
そうであるように。
マツイさんが、
そうであるように。
会ったことのない、
吉田善哉さんからさえ、
何かをいただいたように。
自分もまた、
いつか、
誰かの中に、
何かを残してゆく。
それが、
何なのかは、
分からない。
分からなくていい。
だから、
今日を生きる。
目の前の人を、
大切にする。
いただいたご縁を、
大切にする。
そして、
手を合わせる。
「いつもありがとうございます。」
それで、
十分である。
どこへ向かうのかは、
まだ分からない。
海なのか。
遠い場所なのか。
新しい暮らしなのか。
まだ見ぬ人との、
新しいご縁なのか。
先のことは、
先で分かる。
今、
答えを出す必要はない。
ただ、
余計な荷物を降ろし。
大切なものだけを、
胸に持つ。
そして、
時が来たなら、
自分で決める。
自分で、
一歩を踏み出す。
その先に、
どんな景色が待っているのか。
それは、
神様だけが知っている。
だから、
焦らない。
追いかけない。
決めつけない。
今日も、
今日を生きる。
そして、
また何かをいただいたなら、
感謝して、
受け取る。
いただいたものを、
自分だけのものにはしない。
また、
次へ渡してゆく。
それでいい。
八月。
帰ってくる季節。
ご先祖様が帰ってくる。
亡き人の記憶が、
帰ってくる。
そして、
帰ってきたものから、
生きている自分が、
また何かを受け取る。
ならば、
お盆とは、
過去へ帰るだけの時間ではない。
過去から受け取ったものを、
未来へ渡す時間でもある。
今日も、
静かに手を合わせる。
ご先祖様へ。
神仏へ。
大切な人たちへ。
今も、
そばにいてくれる人へ。
今はもう、
姿を見ることのできない人へ。
そして、
これまでいただいた、
すべてのご縁へ。
いつもありがとうございます。
いただいたものを、
胸に。
いただいたものを、
次へ。
旅は、
まだ続いている。
また、しかるべきときに。
