流れは、すでに明るい
四月十八日、土曜日。
朝六時。
香椎宮。
雨。
小雨。
傘を差すか、迷う程度。
ほんの少しの判断。
だが、こういう時は迷わない。
傘を取る。
それでいい。
本殿へ向かう。
足元は濡れている。
空気は、静かだ。
人は少ない。
音も少ない。
ただ、雨の音だけがある。
その時。
太鼓の音が響く。
同時に、雨が強くなる。
偶然ではない。
そう感じた。
傘で、正解だった。
だが、不思議と重くない。
雨なのに、空は明るい。
曇りではない。
沈んでもいない。
むしろ、澄んでいる。
手を合わせる。
願わない。
整える。
雨も、音も、光も。
すべてが揃っている。
弁財天様へ向かう。
この時間、
いつもよりよく見える。
光がある。
水面も、像も、
はっきりと浮かぶ。
雨の中なのに、見える。
それでいい。
見えるということは、
整っているということだ。
状況がどうであれ、
流れは止まっていない。
むしろ、こういう時ほど、
本質が浮かび上がる。
雨は、流す。
余計なものを落とす。
濁りを外へ出す。
だからこそ。
その中で見えるものには、意味がある。
少し条件が揺らいだ時、
その人の状態は、はっきりと出る。
焦るのか。
迷うのか。
それとも。
そのまま進めるのか。
今日の自分は、
進めていた。
それでいい。
ただ、傘を選び。
ただ、手を合わせ。
ただ、見えたものを受け取る。
それだけだ。
だが、その積み重ねが、
確実に流れを作る。
雨は止まない。
状況も変わらない。
だが。
見え方は変わる。
整った者には、
光が差す。
濁りの中でも、
流れは止まっていない。
だから、迷わない。
傘を差すべき時は差す。
進むべき時は進む。
それだけでいい。
流れは、すでに、明るい。
香椎宮をあとにする。
そのまま太宰府へ向かう予定だった。
だが、流れが変わる。
県外から来ている友達。
太宰府へ案内することになった。
八時半。
博多駅前で合流。
その時には、雨はあがっていた。
さっきまでの雨が、嘘のように。
流れは、続いている。
車内で、昨日の話になる。
東長寺。
櫛田神社。
しっかりと巡っている。
直導くんとのご縁の話も出る。
見えないところで、繋がっている。
それでいい。
太宰府天満宮に到着する。
やはり、人が多い。
いつもの早朝とは違う。
だが、問題はない。
人の多さは、
流れの強さでもある。
仮殿前に立つ。
その時。
御祈祷が始まる。
タイミングが合う。
いや。
合ったのではない。
合わされた。
そう感じた。
菅原道真公が来てくれた。
神職の祝詞。
その間、ずっと手を合わせる。
言葉はいらない。
通せばいい。
それでいい。
改装中の本殿裏へ案内する。
表だけではない。
裏もまた、本質だ。
手を合わせる。
そのあと、天開稲荷神社へ向かう。
途中、目に入る。
梅の木。
葉が出ている。
その中に、実。
まだ青い。
だが、確実に育っている。
見えにくいだけで、進んでいる。
それでいい。
一の鳥居に着く。
右側。
小さな小屋がある。
いまは、掃除道具や荷物が置かれている。
物置になっている。
だが、ここは、ただの物置ではない。
以前は、神様がいた場所だという。
そのことを聞くと、胸の奥に、はっきりとした寂しさが残る。
形あるものは移ろう。
場所の役割が変わることもある。
それでも――
やはり、残念だった。
神様がおられた場所が、
いまは物を置くための場所になっている。
それを目の前にすると、
時の流れという言葉だけでは収まらないものがある。
流れは消えない。
気配も、完全には消えない。
だからこそ、なおさら思う。
ここは本来、
もっと大切に、静かに、守られていてほしい場所だったのではないかと。
変わることは自然だ。
だが、何でも同じ重さで変えていいわけではない。
そういうことも、ある。
手を合わせる。
いま見えている姿だけでなく、
かつてそこにあったものへ向けても。
失われたのではない。
だが、薄れてはいけない。
そう思った。
階段を上がる。
一段、一段。
急がない。
合わせる。
本殿で手を合わせる。
御守りをいただく。
そして、奥へ。
さらに奥へ。
奥の院へ向かう。
参道へ戻る。
人の流れの中へ入る。
そのまま、茶房きくちへ。
変わらず、そこにある場所。
二階へ上がる。
少しだけ、静かになる。
席に案内する。
以前、直導くんと座った場所。
同じ席。
流れは、繋がっている。
抹茶。
梅ヶ枝餅。
ただ、いただく。
甘さと、苦み。
混ざらない。
だが、調和している。
それでいい。
満たされる、というよりも、
余計なものが落ちる。
それが、本来の「満ちる」。
席を立つ。
梅ヶ枝餅を買う。
自分のためではない。
榎社へ向かうため。
供えるために。
持つものと、手放すもの。
どちらも必要だ。
榎社へ。
空気が変わる。
静かだ。
ここは、そういう場所。
浄妙尼さんへ。
梅ヶ枝餅を供える。
手を合わせる。
感謝を伝える。
静かに、返ってくる。
それで十分だ。
道真公へ。
ここに、在る。
そう感じる。
太宰府天満宮ではない。
ここだ。
晩年の時間。
厳しさの中にある、本質。
菅原道真は
最初から神だったわけではない。
人として生き、
理不尽に流され、
孤独の中で最期を迎えた存在。
だからこそ。
天満宮で手を合わせることと、
ここで向き合うことは、
まったく別の行為になる。
今回、触れたのは後者だった。
ご利益ではない。
存在そのもの。
それに、手を合わせている。
お願いではなく、
理解と共鳴。
そして、そこに
浄妙尼の存在。
支え、寄り添い、
対としての関係。
道真公だけではない。
支える存在があって、
その物語は成り立つ。
だからこそ、供える。
分けて供える。
それは、祈りではなく、
関係をつなぐ行為。
参拝は、
お願いではなく、
対話へと変わっていく。
帰り際。
見送られている気配。
確かに分かる。
静かに在ること。
それが、この場所の力。
榎社を後にする。
整った。
車に乗り込む。
すぐには走らない。
少しの余白。
その中で、出てきた言葉。
「次、どこに行こうか」
その時、浮かぶ。
三宝神社。
場所は、大川市。
ここから一時間。
近くはない。
だが。
せっかくなら。
その一言で決まる。
理由はない。
迷いもない。
こういう時は、考えない。
流れに乗る。
それだけでいい。
車を走らせる。
整えた流れが、次へと繋がる。
大川へ。
空が、ひらけていく。
雲の流れが変わる。
三宝神社。
鳥居の前に立つ。
光が降りている。
まっすぐに。
ここもまた、呼ばれていた場所。
昨年は来ていない。
だが、今は違う。
午年の今年。
ここで繋がる。
白蛇。
龍。
木。
重なり合う力。
強い。
だが、荒くはない。
整った力。
願うのではない。
整える。
そうすれば、流れは動く。
榎社で通した筋が、ここで繋がる。
特別なことではない。
当たり前のことを、
当たり前にやる。
それだけでいい。
光の下で、そう思った。
四月十九日、日曜日、中山競馬場。
皐月賞。
クラシックのはじまり。
流れの中に、身を置く。
ロブチェン。
一番人気。
だが、それだけではない。
前へ行く。
迷わない。
逃げる。
流れを、自ら作る。
待つのではない。
委ねるのでもない。
その中で、進む。
直線。
一度、並ばれる。
だが、下がらない。
もう一度、前へ出る。
差し返す。
それが、力。
それが、流れに乗っている状態。
レコード。
だが、数字ではない。
大事なのは、そこではない。
流れを読み、
流れに乗り、
流れを押し切る。
それが、この一戦。
松山騎手。
二週連続、GⅠ。
偶然ではない。
積み重ねたものが、
ここで形になる。
「感謝」
その言葉が、すべてを物語っている。
勝つために走る。
だが、勝ちは結果。
その前にあるもの。
整えること。
通すこと。
委ねること。
それが、繋がった時、
結果は自然とついてくる。
競馬は、勝ち負けではない。
流れを見るもの。
その中に、自分が映る。
ロブチェンの走りは、
速さではない。
迷いのなさだった。
それが、すべて。
ふと、思い出す。
目黒さんと、皐月賞。
一度だけ、ある。
二〇一七年。
あの年も、松山騎手だった。
アルアイン。
流れは、繰り返す。
不思議なものだ。
その時のことは、よく覚えている。
三着、ダンビュライト。
四着、クリンチャー。
人気は、どちらも低かった。
だが、見えていた。
来ると。
だからこそ、悔しい。
三着と四着。
それが、逆なら。
それだけで、すべてが変わっていた。
ほんの、わずかな差。
だが、そのわずかが、遠い。
帰り道。
二人で、笑いながら言った。
「ユタカが、余計なことして」
責任でも、文句でもない。
ただの、あの時の空気。
外れた悔しさも、どこか軽い。
それが、良かった。
船橋駅前。
日高屋。
反省会なのか。
祝勝会なのか。
どちらでもいい。
ただ、そこにいた。
それだけで、十分だった。
当たりも、外れも。
すべて含めて、あの時間だった。
そして、翌年。
目黒さんは、やらかす。
それもまた、流れ。
それもまた、思い出。
良いも、悪いもない。
すべてが、今に繋がっている。
だから、面白い。
だから、忘れない。
この話は、またの機会に。
流れは、いつも派手に現れるわけではない。
晴れの日ばかりでもない。
むしろ、
雨の朝に傘を取ること。
人の多い場所で静かに手を合わせること。
誰も知らないような場所で感謝を通すこと。
遠回りに見える一歩を、面倒がらずに踏み出すこと。
そういう小さな積み重ねの中にこそ、
本当の流れは宿るのだと思う。
神社を巡り、
人と会い、
言葉を交わし、
供え、
手を合わせ、
競馬を見て、
昔を思い出す。
一つひとつは別の出来事に見えて、
その実、すべては一本の線で繋がっている。
その線は、
焦る者には見えない。
欲だけで動く者にも、たぶん見えない。
整えた者にだけ、
静かに現れる。
だから、急がなくていい。
大きく見せなくていい。
分かったような顔をしなくていい。
ただ、自分の歩幅で、
通すべきものを通し、
感謝すべきものに感謝し、
手を合わせるべきところで、きちんと手を合わせる。
それだけでいい。
その積み重ねは、
やがて目には見えない力となって、
必要な場所で、必要な形で、
必ず前へ押し出してくれる。
流れとは、運ではない。
祈りとは、願望ではない。
生き方そのものが整っていくとき、
流れは味方になる。
そして、
その時に初めて、
見える景色がある。
受け取れる光がある。
思い出では終わらない縁がある。
今週もまた、
そのことを、静かに、そして確かに教えられた。
ならば、やることは一つだ。
次もまた、
驕らず、
緩めず、
真っ直ぐに進むこと。
流れは、もう来ている。
あとは、自分がそれを濁さぬことだ。
その先でまた、
しかるべき場所にて、
しかるべき形で、
すべては繋がっていく。
また、しかるべきときに。
