北海道大学とサッポロビールの起源
アイヌ語地名を探るための地名頭出しとして、北海道の歴史を確認しています。今回は幕末から明治初期について見ていきましょう。
箱館戦争と松前藩消滅
幕末の戊辰戦争における最後の戦いは五稜郭で行われました。
戊辰戦争はもともと幕末に京都守護職(しゅごしき)を務め長州藩ら尊王攘夷派を取り締まった松平容保(かたもり)の会津藩、騒擾事件を次々と起こす薩摩藩と衝突した江戸市中警護役の庄内藩の処分を巡って起こったものであり、東北及び越後の諸藩が処分寛典(かんてん)を求めて旧幕府軍とともに新政府と戦ったものです。
榎本武揚、土方歳三らが率いる旧幕府軍は蝦夷ヶ島での蝦夷共和国樹立を目指して箱館奉行所の五稜郭を攻略し、徹底抗戦をしたものの半年ほどで総攻撃を受けて降伏し、戊辰戦争は終結しました。
松前藩の消滅
松前藩でも幕末には尊王攘夷の動きがあり、勤王派と佐幕派の内紛で佐幕派は殺害され、勤王派である正義隊が藩政を掌握しました。
旧幕府軍の榎本武揚や土方歳三らが上陸すると、正義隊は松前城下を焼き払って江差まで撤退します。病弱の藩主は逃亡先の弘前で病没し、松前藩は舘県を経て版籍奉還により北海道に吸収され、消滅していくのでした。
開拓使による北海道開拓
明治政府は、北海道開拓を近代国家の責務と考え、太政官の各省と同格の組織として開拓使[1]を設置しました。蝦夷ヶ島は、明治政府により正式名称を「北海道」と決定されたのは先述のとおりです。
開拓使誕生
開拓使はロシア南下の脅威に備えて、開拓使庁舎を北海道南端の箱館ではなく札幌に置くことを決定します。札幌は京都にならって、碁盤目状の町並みに開発されました。
薩摩出身の陸軍中将黒田清隆が1874年に開拓長官に就任すると、北海道の要職を薩閥で固めた黒田王国となります。開拓使は留学生[2]をアメリカ合衆国に送り出し、アメリカ合衆国をモデルとして開拓を推進しました。
炭坑開発
また、お雇い外国人を使って資源調査を行い、幌内炭山の石炭埋蔵を突き止めます。幌内炭鉱を開発し、これを運び出すための鉄道を幌内、小樽間に敷設して、小樽は石炭の積出港及び日露戦争で獲得した南樺太への連絡港となり、商都として繁栄しました。
この鉄道は後に空知炭田、夕張炭鉱と室蘭を結ぶ路線も敷設され、やがて鉄道は国有化されることになります。これが現在のJR北海道の原型です。
札幌農学校とサッポロビール
また、北海道開拓の技術者養成のため設置されたのが札幌農学校(現北海道大学)です。1886年に開校され、マサチューセッツ農科大学にならったカリキュラムを英語で行い、ピューリタン風の教育が実践されました。初期の学生に新渡戸稲造、内村鑑三、宮部金吾らがいますが、彼らはキリスト教徒になっています。
開拓使は開拓民の現金収入のため各種の産業を育成しており、そのひとつに開拓使麦酒醸造所(現サッポロビール株式会社)があります。サッポロビールの商標である五芒星は、開拓使の北辰旗から取られた北極星です。
北海道庁
開拓使は10年計画を終えて1881年に廃止となり、その事業は札幌県、函館県、根室県と農商務省北海道事業管理局に引き継がれました。1886年にはこれらも廃止され、新たに北海道庁に置き換えられます。当初の北海道庁は他の都府県と異なり、地方行政の他に開拓使の持っていた権限を引き継ぐ特殊な官庁として位置づけられたのです。
北海道が通常の地方行政組織都府県と同列になるのは1946年、すなわち戦後のことです。
[1] 「使」は律令制のもとで使用された臨機で独自の任務を持った職名である。検非違使、遣唐使など。明治憲法が発布されるまで、日本の根本法は律令のままだった。
[2] この留学生の中には、東京帝国大学総長などを歴任した山川健次郎、同志社英学校(現同志社大学)を設立した新島襄、女子英学塾(現津田塾大学)を設立した津田梅子らがいた。
