三昧待ち
太陽の光線に溶かされそうな2025年の夏休み。夫は冷え冷えの室内で、一日中野球を観ていました。昼は甲子園、夜はプロ野球、時々BSでメジャーリーグ。飽くことなく、投げた、打った、守った、歓声、の繰り返し。夫は洗面室や廊下の電気を消さないと怒るのに、テレビはつけっぱなしで平気です。だからわたしは夏休みの間中、毎日「野球の音」を聞いていました。わたしも野球が好きならいいのですが、残念ながらそうでもないので、わたしにとって「野球の音」は、外国人が虫の声を「雑音」と捉えるようなもの。でもきっと、夫はこの「野球の音」に癒されているんだろうと思うのです。手元ではスマホやタブレットを操作していたり、子守唄がわりに寝ていたりするのがその証拠。そこにあるだけで安心する音。
この夏、創作に本腰を入れようと思ってPCの前に座り、さあ書くぞ、と思うのだけど書けなくて、結局ぼーっとする、ということを繰り返していました。オーディブルな家事を終え、いざ「書くぞ」と思ってWordの真っ白な画面をみつめる、あるいは途中まで書いたものの続きを書こうとすると、なんだかいっこうに進まない。
そこに「おーっ!」「強打が自慢です」「なんとかチャンスを作りました」「初球!」「ぱふぱふいけいけゴーゴーそれそれ」「カキーン!」「ワンアウトランナー一塁三塁」「スクイズと言うのも」「ファウル!」「わーっ!」的な言葉がガンガン耳に飛び込んできて、わたしの中では「ああ、夏だな」という言葉を残して全言葉が夏休みに入ったようでした。
夏休み中に夫が出かけ、自分ひとりになってもその状況に大きな変化はなく、ただただ頭の中がしんとしていました。夫の夏休みが終わっても、それは、変わらず。
おーいどこにいった、言葉たち。
夏休みは終わったよ、戻っておいで。
さすがに少し、焦りに似たものを感じはじめたころ、朝ドラで主人公が創作の悩みに直面していました。漫画家としてあるていど描いているのに代表作がなく、頼まれる仕事は漫画以外のことばかり。実際、そちらのほうでは評価もされ、褒めてももらえる。次々に仕事がやってくるけれど、すべてが漫画以外の仕事。もう、漫画は描かなくてもいいや、自分には才能がないんだ、時代の求めるストーリー漫画は描いたことが無いし、そこには高くそびえたつK2のような「漫画の神」が君臨している。無駄なんだ、書こうとしても、もう書けない——、そんな姿に妻は業を煮やします。わたしは漫画を描くあなたを助けるために生きて来た、それなのに今は自分が足を引っ張っているだけじゃないかと。それに対し主人公は「僕の問題だから放っておいてくれ」という。仕事と創作を巡る夫婦のすれ違いの回でした。
これはきつい。創作をする人にとっては相当きついだろうなと思います。彼はある意味多才すぎて、誠実で丁寧な仕事をするから、なにをやっても出来てしまう。評価も高まり、名前だけは有名になっていく。それは、鳴かず飛ばずでまったく表に出ることもない人に比べたら幸運なことではあるけれど、自分がやりたいこと、真に目指したことではないことが評価されて、本当に自分がやりたいことは全く見向きもされないという落差がはなはだしい。身内に応援されないのも辛いけど、期待をかけられすぎて応援されるのもプレッシャー。
そんなことを考えていたら、以前見た映画『八犬伝』を思い出しました。滝沢馬琴は逆に、名実ともに売れっ子作家ではあったものの、妻に理解されず、理解してくれていた息子は早世します。そのうちに目が見えなくなっていき、最初は見えているふりをして、ゆっくり書いたり目を近づけたり当て推量をしたりで乗り切っていました。しかしそのうちに本当に見えなくなって、自分の書いている文字も見えず、手蹟は紙をはみ出し、文字として成り立たない状態に。それでも文机の前に座って一日中、紙のほうを見つめているのです。
これも辛い。相当に辛い。創作意欲はあって期待もされていたのに、視力が失われ物理的に書けなくなるという悲劇。勧善懲悪を望む時代からアイロニックな時代へと変化していく中、戯作者が続きを書けない、完結しない八犬伝は、やがて世間からも忘れられていきます。
結局自分の創作を全く理解しようとしない妻が亡くなり、文盲に近かった息子の嫁が必死に手伝い、なんとか『南総里見八犬伝』を完成させました。映画のラストは幻想的で、彼が書いた作中の登場人物たち(八犬士たち)が死出の旅に迎えに来るのです。その現実部分と空想部分の混合具合が良くなかった、という映画評もあったようですが、わたしは、戯作者・創作者・作家の頭のなかが絶妙にうまく描写されていると思いました。死の間際、愛憎まみれた身内(あるいはあの世の使者)ではなく、自分が生み出した登場人物が迎えに来るなんて、創作者として最高の夢、だと思いました。
映画を観て、芥川龍之介の『戯作三昧』を下敷きにしていたのだろうかと想像しました。滝沢馬琴をモデルにした、戯作者(創作者)の苦悩がすべて詰まっている『戯作三昧』。自分が本を作る前は「偉い作家さんにはいろいろな苦労があるものだ」という少し遠い感想を持っていましたが、『八犬伝』をみたときに改めて読んだら、自分が創作者目線になっていることに気づかされ驚きました。そしてそのような目線で読むと、恐ろしいほどに、どの言葉も重く感じられます。ことに、孫が馬琴先生に語る「観音様のことば」には瞠目しました。
いちど創作者意識を持ってしまうと、他人の言葉が容易に自分の中に着地しなくなるのもあるあるです。褒められたことは疑い、貶された言葉にはなんとか自分の心を守ろうと防御的に自己正当化することで、様々な事柄がまっすぐに心に入ってこなくなり、黒い紙が虫眼鏡で焼かれるように点々と心が蝕まれていく——孫の言葉は黒い紙を白い紙に変えてしまうような反転を、馬琴先生の心にもたらすと同時に、読んでいる「創作者」の心にも響きます。
「観音様がそう言ったか。勉強しろ。癇癪を起すな。そうしてもっとよく辛抱しろ。」
『戯作三昧』は、読みやすい短篇でありながら奥の深い作品です。
余談ですが、文豪の作品を読みたいと思ったときに、即座に、しかも只で読める時代を、子供のころは想像もしたことがありませんでした。本当にいい時代になりました。
『戯作三昧』にあった版元とのやりとりから、こんどはNHK大河ドラマ『べらぼう』のことを思い出しました。『べらぼう』で「出版社兼本屋」である蔦谷重三郎は、自身は創作をしませんが、取り扱っているコンテンツは戯作や狂歌、浮世絵であり、創作にかかわる人々がたくさん出てきます。才能を見出し、いかに面白い本を作って売るか、というのが主人公の腕の見せ所です。現代とリンクする部分が多い、わりとカオスな時代のエンタメに注目したドラマは、主人公周辺のことだけで政治の流れを描かなかったらおそらく一部のコアな人しか惹きつけなかったドラマだろうと思います。政治抗争を同時に描くことで時代の中で生きる主人公をうまく浮かび上がらせているようです。実際、当時のエンタメは時代の制約と切っても切り離せなかったでしょう。『戯作三昧』でも、意地が悪く融通の利かない公儀に対する愚痴が描かれていました。
ドラマでも戯作者や絵師の葛藤がよく描かれていて、そこに惹きつけられます。武士の副業でもあった戯作は、趣味の一環のように気軽に書いている戯作者もいれば、作品への評価に悩む者、二次創作(どこまでがオマージュでどこからがパクリか)に悩む者などなど、毎回、見ていて飽きません。エンタメと芸術性、仕事と創作、名声と嫉妬、独創性と評価など、創作をしていれば突き当たる問題に焦点を当てているのが面白いと思います。
あちこちに話は飛びましたが、わたしもだいぶ長いこと創作のことで悩んでいました。いつのまにか自分を創作者の仲間にカウントしていたおこがましさを自覚しつつ、人の目に作品を晒してしまった以上、何も目指さないでただ楽しむ、ということがいかに難しいか、ということを骨身にしみて感じます。
それは創作や書くということが、読者や鑑賞者、消費者、そして評価と結びついているからだと思います。
ひとりで書いていて楽しいなら、誰にも見せなければよいだけの話。でも創作は、誰かに見てもらうことで初めて成り立つものです。しかし、誰かに見せれば、上手いとか下手とか、好きとか嫌いとか、そういったものがついてまわります。人間は本当に多種多様で、いろいろな感じ方をするものですから、人が集まれば巧緻とか優劣に敏感にならざるを得ず、光の当たる人もいれば、当たらない人もいる。つい、ひき比べて、自分の作品なんて——と思ってしまいがちです。
気にしなければいい、と言われても、気になるのは当たり前で、エンタメとか創作とかいったものの本質が、そういうものなのだと思います。他人の好き嫌いで成り立っているもの。自分にも「好きな(他人の)世界」があるから書いているのですから。そこで他人の目を気にせず自分の好きなことを書けばいいじゃないか、というのはもはや道理が通らないのです。それでもあえて自分の為だけに書く、ということは、評価の世界の中に飛び込むよりずっと過酷な苦行だったりします。なにより自分がもっとも厳しい読者であり批評者であればこそ、自分の作品の至らなさは残酷に自らを抉ってきます。
ある程度世間に認められ、評価され、収入にも結び付く、といった状態ならいざ知らず、名も知られず発表の場も少ない中でコツコツと書き続けるということは、とても勇気のいる、困難なことです。自己アピールの得意な人なら自力で運命を切り開くこともできるかもしれませんが、自信を失くしてやめてしまう人の、なんと多いことか。わたしも、定期的に何もかも放り出してやめたくなります。
朝ドラの主人公のモデル、やなせたかしさんは、人生のかなり後半で絵本『あんぱんまん』で注目されました。ただ、漫画家でありたかった彼が望んだ通りのことだったかどうかはわかりません。
滝沢馬琴は九十まで生きて、世間では忘れられつつあった八犬伝を書き上げ、結果的に名を残しました。『べらぼう』に出てくる戯作者は、知っている名前もあれば、研究者でなければ知らない名前の人もいます。おそらく、あれほど多くの本の中には、たった一作だけ書いて消えて行った戯作者もいたでしょう。そしてその周辺には、戯作者になれなかった戯作者もどきも星の数ほどいたはずです。『戯作三昧』で馬琴先生に手紙と作品をおしつけてきて、断られると激しく攻撃してきた田舎者のように。
多くの人に望まれ、褒められ、生きているうちに脚光を浴び、支持や富を得ることは、もちろんすばらしいことだけれど、だれもがその金の砂粒になれるわけではありません。努力して得られる人もいれば、努力しても得られない人はいます。そのほうがむしろ多いでしょう。そしてそんな金の砂粒になったひと握りのひとたちも、悩み苦しむことが運命づけられているのが「創作」という世界。
自分がうっかり創作者の魂を持ってしまったことを、幸運と思えばいいのか不運と嘆けばいいのかわかりません。
高橋留美子さんの漫画に「人魚シリーズ」というものがあります。人魚の肉を食べると、あるものは死に、あるものは不老不死になるのですが、なかには、死ぬことも出来ず、不老不死にはなれず、身体が半魚人のようになった「なりそこない」という存在になることがあります。洞窟に身を隠して、永遠にその姿で生き続けるしかありません。
時々、自分はこの「なりそこない」なんだなと思うことがあります。「創作者」の魂を持ってしまったけれど、他人に創作者だと認められないまま、書くのをやめることも出来ず、書き続けていくしかない存在。
救いがあるとすれば、「なりそこない」のように死ねないわけではないから、いつかは終わりがくるということです。そして、とりあえず外見が半魚人化して人間の言葉もろくに話せずうめいている、というわけではなく、まあ、有難いことに普通の生活をしていられます。内面的精神的には——、もしかしたら正体は、あんなものかもしれませんが、ささやかではあっても自分なりの「楽しみ」を見出すことができるという点で、希望はあります。
『戯作三昧』のラストは、滝沢馬琴が創作に没入して三昧(ゾーンに入っている、フロー状態になる)し、周囲の物音も聴こえないほど創作に集中する場面が美しい筆致で描かれています。庭で喧しく鳴く蟋蟀の声も聴こえない状態です。茶の間では、妻と息子と息子の嫁が、それぞれの仕事をしながら蟋蟀の声に包まれている様子が描かれ、馬琴の三昧との対比になっています。
ちなみに三昧とは、南伝仏教の瞑想法で言えば、サマタ瞑想(止観の止のほう)とヴィパッサナー瞑想(観のほう)がそれぞれ極まった状態に起こる状態のことを指しています。たまにサマタと三昧が同一で説明されていることもありますが、サマタとヴィパッサナーは方法であり、三昧は状態です。
正しい仏教的三昧というのは、ブッダが解脱に至った瞑想で、もうすこし精密な状態だということができますが、いわゆる「ゾーンに入る」「フロー状態」という言葉が示す没入状態というのは、プロだとかアマだとか人気があるとかないとか売れているとか無名とかの外的な事情に全く関係なく、味わうことができます。創作するひとすべてにある贈り物——、純粋な創作の喜びです。
この時彼の王者のような眼に映っていたものは、利害でもなければ、愛憎でもない。まして毀誉に煩わされる心などは、とうに眼底を払って消えてしまった。あるのは、ただ不可思議な悦である。あるいは恍惚たる悲壮の感激である。この感激を知らないものに、どうして戯作三昧の心境が味到されよう。どうして戯作者の厳な魂が理解されよう。ここにこそ「人生」は、あらゆるその残滓を洗って、まるで新しい鉱石のように、美しく作者の前に、輝いているではないか。……
この喜びは、没入するなにかを持っている人すべてに訪れるものだと思います。楽器を演奏したり、歌を歌ったり、踊ったり、手芸をしたり、絵を描いたりというアーティスティックな営みのすべてに。
わたしも、言葉たちが夏休みを終えて戻ってきたら、たとえ「野球の音」に包まれていても、いつしかなにも聴こえない状態になっているかもしれません。そんな創作三昧を、たしかにかねてよりたびたび経験していればこそ、なんとか書き続けて来たようにも思います。
現実的に生活をしていると、なかなかそこまでの集中に至らないこともありますが、それでも短い時間でフロー状態にはいることは、無くはありません。
だからここしばらくは、その三昧を、待っています。
あれこれと迷い悩んだりするのはきっと、この状態を忘れているからなんだと思うのです。
雑多なことごとに思いを馳せながら、思うままに雑記を書き止めました。すっかり長くなりましたが、最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
創作するみなさまに、三昧の喜びが訪れますように。
残暑お見舞い申し上げます。
